邪神さんの街への買い出し81
人気の無い暗い裏通りを歩くフィル。
表の通りから少し路地裏へと入ったこの場所は
まだ酒場や屋台の賑わいが僅かに届いているが
細い路地は建物の合間から差し込む僅かな月明りのみで周囲は暗く、
人の通りも無くアンバランスな寂しさが感じられる。
そんな寂しい裏通りを歩くフィルの前にはフラウが視線を落として歩いている。
さらにその視線の先には子オオカミが地面や道の脇の匂いを夢中で嗅ぎながら歩いている。
……まぁ、要は子オオカミの散歩兼トイレである。
先程まで若者達に交じって酒を飲んでいたフィルだったが、
子オオカミがしきりに床の匂いを嗅ぎだしたのを見て
慌ててフィルが子オオカミを抱えて外に連れ出した。
そしてそんなフィルの様子をベッドの上に座って眺めていたフラウは
何気なく見ていたのだが、フィルが部屋を出て行く所で我に返り
慌ててブーツを履き直しフィルの後をついて来たのだった。
昼間フィルに抱き上げられた時は嫌がった子オオカミだったが
今は突然の事に驚いたのか、硬直したように動かないでいる。
そんな硬直した子オオカミを抱えたフィルが足早に宿の外へと出ると、
小走りで追いかけて来たフラウが追いついた。
フィルはフラウがついて来た事をチラリと確認すると、
特に何を言うでもなく宿のすぐ傍にある路地に入り、
フラウが見守る中で子オオカミを地面に下ろしてやった。
地面に下ろされた子オオカミは先程までの硬直が何事も無かったかの様に周囲の匂いを嗅ぎはじめると、程なく目当ての場所を特定したようで立ち止まって片方の後ろ足を少しだけ上げた。
どうやらフィルの見立ては正しかった様で、
小さい方の用を済ませている子オオカミから漂っていた奇妙な緊張が解けて行くのが分かる。
「わぁ、おといれに行きたかったんですね」
「うん。特に子犬の内はご飯を食べ終わるとトイレに行きたがるらしいんだよ」
「なるほどですー。えへへー。フィルさんってなんでも知ってるんですねっ」
「はは、そんな大した事じゃないよ」
素直な眼差しでこちらを見上げ感心してくれるフラウにはちょっと心苦しいが
幼獣が食べた後にトイレに行きたがるという話を聞いたのは
仲間達と酒場で飲んでいた時の他愛無い話題の一つで、
教えてくれたのは以前のパーティ仲間だったレンジャーだったか。
他愛無い酒場の話も思わぬ所で役に立つものである。
「もう少し散歩をしようか。大きい方もしておいた方が良いだろうからね」
「はいですっ」
「灯りは……まぁ見えない訳でも無いし、つけなくても大丈夫か」
この暗がりの中、フィルが灯りもつけずに歩いているのは
突然の光に子オオカミが驚かないようにという意図もあったが
一番大きな理由はライトの呪文で明るく出来る対象は基本的に一つのみで、
今ここでフィルが呪文を行使すると、宿の部屋で照明として使っている灯りが消えてしまうからだ。そんな事をしたら部屋に戻った時にサリアあたりに小言を言われてしまう。
マジックアイテムの明かりを使おうかとも考えはしたが、
一応月明りのおかげで視界は確保できているし
人通りは殆ど無いとはいえ、人前で無暗に高価な品を晒すのは避けるべきだろう。
暗く寂しい路地でフラウを怖がらせてしまうかもと思いもしたが、
フラウに怯える素振りは微塵も無く笑顔でこちらを見上げている。
「えへへ~。はいですっ」
寂しいとは言ってもすぐ近くには人の賑わいもあるし
暗く不気味な屋敷(自宅)を二人だけで探索したり
暗い夜の山道を歩いた事もあるフラウにとっては
この程度の少し暗い路地は大した問題では無いらしい。
視界については問題無いが一つだけ懸念が有るとすれば
子オオカミには首輪もリードも付いておらず、
もしも今ここで逃げ出したら暗闇に紛れて探すのに苦労しそうだという事だった。
幸い子オオカミはフラウに懐いている様で今は逃げ出しそうな素振りも無く
次の目当ての匂いを見つけ、ついでに用も済ませた後は、
フラウの方を振り向いてどうですか?とばかりに見上げている。
フラウはそんな子オオカミにしゃがみ込むと「えらいですねー」と話しかけながら
笑顔で背中や頭を撫でまわし、子オオカミはひとしきり撫でてもらうのに満足すると
再び前を向いて地面の探索を開始するのだった。
ちなみにフラウはというと、そんな歩き出した子オオカミを見送ってから、
うちの子はどうですか?とばかりにフィルの方を得意げに見上げる。
ペットと飼い主は似るとは良く言われるものだが、
まだ一日も経っても無いのによく似たものだと、
そんな事を思いながら微笑まし少女と子犬の仕草に笑みを浮かべる。
何とも平和な光景であったが、それはそれとして、
やはりリードは早い内に入手しておくべきだろう。
今はまだ幼獣なので力もさほど強くないし
見慣れない周囲の景色を警戒してフラウの傍から離れようとしないが
成長すればオオカミは世間一般では危険な獣である。
たとえ敵意が無く当人はじゃれるつもりでも
相手に飛び掛かかれば大問題になるであろう事は容易に想像できる。
そうならない為にも引き留める首輪とリードは必須だ。
とはいえ残念ながら今のフィルの手持ちに動物用の首輪は無かった。
以前フィルが居たパーティではレンジャーが一人にウィザードが二人居り
パーティを結成してから数年程は動物の相棒や使い魔を連れたりもしていたが、
ここ十年程は三人とも動物の相棒も使い魔も連れる事は無くなっており、
その頃から動物用の首輪の様な装備品が手に入っても売り払うようになっていたのだった。
理由としては単純で、危険な場所へ冒険する際に
同行すると動物の保護までリソースを回すのが難しかったりだとか、
強力な範囲攻撃などで死なせてしまう事を嫌っての判断だったが
そういった理由もあってフィル達のパーティでは動物用の装備が必要とされず、
稀に戦利品として動物用の魔法の装備を入手する事があっても直ぐに売り払ってしまっていた。
……稀に人用でも似た様な形の首輪が有ったりしたが
奴隷用だったり、一部の特殊な嗜好の者向けだったりで
こちらもフィル達には使わないだろうという事ですぐに売り払っていた。
(それなら魔法のネックレスを首輪に……いや、やっぱダメか)
人用の首装備でいえば魔法のネックレスやアミュレットなら持っているし、
冒険者の中には自身の動物の相棒に装備させて戦闘時の補助にしていたドルイドもいたが
身体能力の補助目的で使うのならともかく、
散歩する際にリードを繋ぐ為に使うには明らかに不向きな形状である。
一応この手の魔法のネックレスやアミュレット、
特に強力なエンチャントが施されたものについては
付呪に際して耐久力も強化されている事が殆どで、
華奢な見た目に反してかなり頑丈で多少手荒扱う程度で壊れる事は無い。
だが幾ら頑丈だからといって、それらの形状が細い金属チェーンや紐糸である事に変わりはなく、
無理にひっぱれば細いチェーンや紐が首に食い込み大変危険である。
何処ぞでは暗殺者が細い鋼鉄のワイヤーで人を殺したりするらしいが
使い方によっては魔法のアミュレットでも似た様な事が出来てしまうのだ。
他の案としては魔法のベルトを腹に装着させるというのもある。
一応子犬の腹に装着すれば魔法の効果で子犬に丁度良いサイズに納まるので
そこに縄を付けてリード代わりに…なんてのも考えてみたが、
こちらも装備の正しい使い道ではないので、
いざという時に何か別の問題が発生しそうな予感がする。
……なんとなく上手く行きそうな気もするが。
いや、やはり用法については製作者が意図した使い方をするべきで
動物の首につける用途のそれ用の首輪を用意した方が良いだろう。
(この辺りも明日、森の女神の寺院で相談してみるか……)
「フィルさん、フィルさん」
首輪を買うなら他にもペット用品を……例えばブラシとかも欲しいなとか、
思考が脇道に逸れあれこれとぼんやり考えていたフィルだったが、
フラウの呼び掛けで現実へと戻る事になった。
「うん? どうしたんだい?」
「えっとですね、オオカミさんのおなまえをかんがえたんです」
嬉しそうに此方を見上げ報告するフラウ。
少し恥ずかしそうだが聞いて貰いたい雰囲気一杯の様子にフィルも微笑んで応じる。
「お、決まったんだね。なんて名前にしたんだい?」
「はいですっ。シルちゃんってなまえにしたいです」
「シル……ふむ、シルバーから採った感じかな?」
あとはシルク、シルフなんかもあるが、やはり体毛からのイメージだろう。
「はいですっ。からだがぎん色みたいですからシルちゃんなんです」
どうでしょうと此方を見上げるフラウ。
期待と不安が混ざった顔で見上げる少女の頭を思わず優しく撫でてから、フィルはうんうんと頷く。
子オオカミの体毛はどちらかと言うと灰色なのだが、それを言うのは野暮というものだろう。
何よりこれだけ一生懸命に考えた名前なのだから悪いはずがない。
「うん。とても良い名前だと思うよ。あの子にピッタリだと思う」
「ほんとです? えへへ、よかったです」
フラウは嬉しそうに微笑んだ後、それから恥ずかしそうに付け加えた。
「えっとですね……いちばんにフィルさんにおしえたかったんです」
そう言って照れた笑みを浮かべるフラウ。
伝えられた事はそう大した事では無いのだが、
目の前で恥ずかしがるフラウの様子を見ていると、なんだかこちらも照れてしまう。
「それは……なんというか、嬉しいな」
「わぁっ、ほんとです?」
「ああ。本当だよ」
我ながら下手な伝え方だと思うのだが、
それでも心の底から嬉しそうにフィルを見上げて来るフラウにフィルもにっこりと微笑む。
「えへへー」
まだ照れているのか、手を後ろに組んでこちらを見上げて嬉しそうにしているフラウ。
そんなフラウの嬉しそうな様子に子オオカミ……もといシルが何事かとフラウの傍まで戻って来た。
フラウは戻って来たシルを抱き上げると笑顔で話し掛ける。
「あなたのおなまえはシルちゃんですよー」
何事か分かっていない様子でシルはフラウの顔を眺めて首を傾げるが
フラウの方はお構い無しで御機嫌である。
その様子を感じ取ったのかシルの方も特に嫌がる事も無くフラウの顔を舐めて返す。
そんな無邪気に戯れる少女と子犬の姿を見守ったあと、
それから大きい方の用も済ませた二人は散歩を終えて宿の部屋へと戻っていった。