邪神さんとお夜食
「ふぅ……」
応接間に取り付けた燭台の魔法の炎が照らす灯りの下、
最後の呪文の覚え直しを終えたフィルは、
溜めていた息を吐きながら自分の呪文書を閉じた。
その隣ではフラウが小さな黒板をノート代わりに
今日覚えた文字を呟きながら復習をしている。
夜に本を読むのは目に悪いと言われているが、それは暗い中で読むからだ。
今は応接間を照らす魔法の灯りのお陰で読み書きをするのには十分に明るく、
これなら目が悪くなる心配は無いだろう。
最近では覚えた文字のレパートリーも大分増えて
おぼつかないながらも知っている単語を呟きながら黒板に書き込んだりしていおり
その勉強熱心な姿に思わずフィルの頬はほころんだ。
ウィザードの日課である呪文の覚え直しだが
今日はいつもの自室では無く一階の応接間で行っていた。
そしてその傍らではリラ達が自分達の武器や鎧の手入れをしている最中だった。
ファイターであるリラだけでなくクレリックのトリスとバードのサリアも
明日は道中の護衛も兼ねているのだからと準備に余念がない。
剣を研ぐ音やチェインメイルやスケイルメイルを拭く音と一緒に
いつもの取り留めのない少女達の会話で賑わう室内は
呪文の覚え直しのような精神集中が必要な作業に向いた環境とは言えないが
むしろ、こういう皆が一緒に居て、さりとて別々の作業をしているというのは
かつてのパーティで冒険の準備をしていたあの頃の様で少し懐かしくもあった。
「あ、フィルさんも終わったんですね?」
フィルと同じソファのフラウの隣に座って
少し先じて呪文の覚え直しを終えていた同じウィザードのアニタが尋ねた。
明日は道中の護衛があるからと別の呪文に覚え直していたアニタは
熟練者のフィルとは違ってまだ駆け出しであり、
こういう騒音の中での覚え直しには難儀するかと思いきや
そこはリラやトリスと一緒に暮らしている期間が長い事もあってか
二人の話声を聞きながらでも集中が乱れるという事も無く
至って順調に呪文を覚え直し終えていた。
「ああ、これでようやく今日のお仕事は全部終わりだ」
そう言ってフィルはソファに座ったまま目一杯背伸びをした。
ウィザードの日課である呪文の再設定をすると
いよいよ今日一日が終わるのだと実感する。
「えー? まだもう一つ残ってますよ? 大事な事です」
そんなフィルにそう悪戯っぽく言って笑いながら突っ込みを入れるアニタ。
そんな年下の少女からの進言にフィルもまた笑いながらうんうんと頷く。
「あはは、もちろん忘れてないよ?」
夕食の後、それぞれ武器の整備をしたり
小さな黒板で書き取りをして今日習った文字の復習をしたり
コンティニュアル・フレイムで家の照明を増やしたりと、
応接間に集まって思い思いの時間を過ごしていたフィル達。
普段ならそろそろ自室に戻っている時間なのだが今日は少し様子が違った。
というのも……
「フィルさんフィルさん。そろそろお腹が空いてきたです?」
そう言ってフィルのすぐ隣で文字の勉強をしていたフラウが
ろう石の手を止めてこちらを見上げて言った。
「そうだね。そろそろお腹が空いてきた気がするかな?」
「えへへー。私もちゃんとお腹を空いてきましたー!」
うんうんと少女の頭を撫でてやりながら頷くフィルに
フラウは自信たっぷりにそう言って、嬉しそうに笑う。
今日はお夜食を食べたいという女性陣の希望により
寝る前に皆で夜食を作って食べようという事になっていた。
何を食べるのかはフィルには聞かされていないが
厨房に移動してからサリアの指揮のもと料理の担当分けをしていたりする所を見ると、
それなりに手間の掛かる物を作ろうとしているように見えた。
(……夜食ってそんなに気合入れて作るもんだったかな?)
自分の時は干し肉をそのまま食べたりとか、
ジャガイモやタマネギを茹でたりとかチーズや肉や干し魚を炙ったりとか……
冒険者をしていた頃に食べていた物で思い浮かぶのは
そんな単純で酒の肴になるような物ばかりだった気がする。
目の前の調理台に卵や小麦粉や砂糖と言った材料が並べられて行くのを眺めながら
人が代われば、夜食も全然違うのだなぁとか
ああでも、野営だと流石にここまで手の込んだのは難しいだろうなぁとか
そんな事をぼんやりと考えながらフィルは少女達を見守っていた。
「それで、僕は何か手伝う事はあるかい?」
「んー……」
少女達にフィルが尋ねると、
今回のリーダー役であるサリアは口に指をあてて少し考えた後、
「今の所は無さそうですね。あ、でも冷凍光線のワンドをフラウちゃんに貸してもらってもいいですか? 今日はフラウちゃんに冷やす担当をしてもらいます」
そう言ってサリアは少し意地の悪い笑みを浮かべる。
きっとフラウから魔法のロッドの事について色々と聞いているのだろう。
(ワンドだと思ったのはフラウの説明が足りなかったのかな? まぁ消耗品であるワンドだと思うのも無理は無いか)
なんとなくその様子が思い浮かび、フィルは苦笑いを浮かべながらも
素直に自身のバッグから所望されたロッドを取り出すと
それをフラウへと手渡した。
「それじゃあ、はいこれ。使い方は大丈夫?」
「はいです! 『冷気を放て』っていうんです!」
フラウがきちんと使い方を覚えていた事に
良く出来ましたと少女の優しく撫でてやると、
いよいよやる事が無くなったフィルはどうしたものかと思案する。
結局、特に必要な事も思いつかないので、
手伝いが必要なら呼んでねと一声かけた後は
同じ厨房の片隅でのんびり少女達が料理を作るのをぼんやりと眺めている事にした。
それからしばらくして……
「んーー!!」
「フィルさん! ガンバですー!」
フィルは全力で以ってボールの中にある白い液体を
手にしたフォークを数本束ねた物でかき混ぜていた。
ボールは定期的にフラウによって冷やされ、
その間もフィルはボールの中の粉ミルクと水を素早くかき混ぜていく。
先にかき混ぜていたリラとアニタは既に疲れて交代しており
今は休憩がてら二人一緒にフィルの応援をしていた。
残るサリアとトリスは別の場所でフライパンで何やら小麦の生地を焼いていて手が離せない為
結局、手の空いていたフィルが混ぜる事になったのだった。
サリア達のいる調理台では
甘い香りと共に薄く焼けたのを何枚も皿に重ねている所を見るに
どうやら今日の夜食はクレープらしい。
(そしてこれは、あのクレープに載せるクリームなんだろうけど……)
流石に六人分ともなるとなかなかの量で
かき混ぜてもかき混ぜてもなかなか固形化してくれない。
更に言うとフォークを束ねて作ったありあわせの泡立て器は効率が悪く
暫くしてようやくクリームにとろみがついて来たかと思えば、
今度はかき回す時の抵抗が重さとなって地味に疲れが溜まっていく。
「フィルさん、がんばですー!」
「大分固まって来たみたいですよー」
(いっそ指輪を外して全力でやってしまうか……?)
娘に応援されるお父さんさながら
フラウやリラに応援されながらも懸命にかき混ぜ続けるフィルの頭に
そんな事が浮かんで来るが昨日の今日でもう指輪を外すというのは
幾らこの中に事情を知る者が居ないにしても流石に恥ずかしい。
それも命の危険がある訳でも無く、ただ楽をする為にというのは
結局、自分が殺した前任者と同じになってしまうだろうと
そんな事を考えながらも……いや途中からは考えるのも止めてひたすら無心に
フィルはボールの中の物をかき混ぜていった。
「……こんなもので良いかな?」
「お疲れ様ですー。お、良い感じですねー! 流石フィルさん!」
流石のフィルも腕が疲れ、そろそろ誰かに交代してもらいたいなぁ思い始めてきた頃、
ようやくホイップクリームと呼べるような形になったそれを
合流したサリアがボールの中身を確認して満足気に頷く。
既にクレープの方は人数分が焼き上がり、今も湯気と共に香ばしい香りを放っている。
「本当は泡立て器があるともう少し楽なんですけどねー」
「そんなに違うんだ……?」
今更ですけどと、何でもない風に呟いたサリアにフィルは尋ねる。
有るならば使うが、今は無いのだから仕方が無い。
とは言え、そんなに違うのなら今後の為にも買っておこうかという気にはなる。
流石に泡立て器がどんな物かぐらいはフィルでも知っている。
だが野営での料理は大抵、切って焼くか煮るかで
混ぜるにしてもスプーンかお玉、最悪トングでもあれば事足りるので。
洗うのも面倒そうだし大して違わないだろうと持たなかったのだが
果たしてそんなに違うものなのだろうか?
「そりゃ勿論ですよー。大昔はこうやってフォークや枝を束ねたので混ぜてたみたいですけど、これだとすごく大変だからああいう形になったんですよ?」
「むしろこうやってフォークでかき混ぜるのなんて、初めて知ったわ」
「ふふふ~、こういう歴史もちゃーんとお勉強してるのですよ」
(知っていて僕に任せたんだね……)
自信たっぷりに説明するサリアとリラが笑い合うのにフィルは恨めし気な顔を向けるがもう遅い。
それにそのすぐ傍で嬉しそうにクリームを覗き込んでいるフラウを見れば
喜んでもらえたのだから仕方ないと諦める他無いだろう。
「……それじゃあ、街に行ったら泡立て器も買っておいた方が良いかもね」
「はいです!」
流石に次もこんな苦労はしたくないし……。
やれやれとため息交じりのフィルにフラウが嬉しそうに返事をする。
「あ、お料理するなら他にも道具を買い揃えた方が良いですよ?」
「さすがにあれもこれもと一気には買わないからね?」
この隙を逃がさないとばかりに
すかさず他の調理道具をお勧めしてくるサリアに苦笑いで釘を刺すフィルだったが
サリアの言うように必要ならば他にも調理器具は色々揃えておいた方が良いだろうとは考えていた。
なにせこれからは星空の下、焚火を囲んで食べれる物を作るのではなく
台所でフラウ達と一緒に料理をするのだ。
それは多分とても幸せで楽しい事なのだろう。
フラウと一緒に料理やお菓子を作ったりする自分を想像して
フィルは密かにそんな事を考えていた。