猫
彼は箱の中に囚われている。大きく、複雑な内部構造をした入れ物の中に。自由を許されたのはその箱の中でのみ。それも、ごく限られた身体的自由のみである。食べ物は毎日毎食決まり決まった人工的な茶色い固形物を与えられ、年ごろには夢中になるような異性とのあれこれも断じて許されず、主たちの気分次第で扱いは辛辣なものとなる。許可されたのは、歩くこと、寝ること、食べること、それから主たちの気を和ませるための種々の行い。言うなれば、いや、何の脚色もなく言って、外の者たちと比べて彼は奴隷階級にある。
我々のエゴイズムによって奴隷とされた彼らに、一体どんな幸せが似つかわしいと言うのだろうか。それも主によって恣意的に与えられる虚飾の幸せである。彼らは自分が奴隷であることも理解することなく、まるでそれが自分たちの正常な生き方であるかのように生きる。それこそが真の幸せの形であると信じているかのように。確かにまったく偽りであるとは言えないかもしれないが、少なくともまったく真正ではありえない。彼らのその低級な素振りを見て、我々は本来見失ってはならない罪悪感、羞恥心を視界から覆い隠すのである。
もしも自分が神なり悪魔なりの大きな手によってまったく同じ境遇にポイと落とされたとしたら、何を思うであろう? そこには確かに知能の差、それまでの経験の差が存在するであろうが、それらを除くことを考慮しても、夢が、希望が、儚いままのそれらで終わってしまうことは、酷く絶望的であるように思えるのである。
彼はいつも食べている茶色い人工の固形物をまるでご馳走とばかりに教えられた行儀のよさで貪る間、尾の先端をユラユラと、それは美しく、快適そうに振る。主たちの気まぐれでよく運動した時には食事の最後まで、主たちの気が進むことのなかった多くの時には食事の途中で尾が下に垂れていく。実に長い時を見てきた我輩は、それが彼の「幸福時間」であることを確信している。
近ごろ、随分と早く尾が下へ垂れるようになった。罪悪感と義務感に駆られた主の一人たる我輩が彼を箱の中で走らせても、尾が下へ垂れる時間はさほど減らない。
我輩は悟った。彼もまた、悟っていた。
我輩は焦りを越して、後悔の念が沸き上がり始めていた。もう本当の意味で彼にできることは何もない。奴隷にした時点でない。彼に奴隷としての最期を迎えさせることしかできない。奴隷、奴隷、奴隷。そうやってまた我輩は、自分の罪を視界の隅へ押し込もうとしているのである。
我輩は奴隷を愛してしまっていた。
故に、奴隷にしか見えなくなった。