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*026 Rion 「漆黒の糸」

 目的地は、走り続ける私の体力で足る程の距離だった。

 杞憂であって欲しい。そう願いながらも、この疑念は晴れることを知らなかった。

 リゼの家。そこは、城下町の中ほどに構える小さな木造の一軒家。私は切れた息を押さえつけるように整えながら、玄関の扉をノックした。落ち着いてゆっくり、三回ほど。

 私の呼吸が平常に戻る頃、中から僅かに床の軋む音がした。それは段々と近づいてきて、やがて目の前の扉を開いた。

 肩に掛かる長さのダークブラウンの髪。私より少し低い身長。そんな姿の少女が、私の前に現れた。


「――――あれ? リオンさん、こんなところまでどうかされたんですか?」


 リゼはそう口にした。いつものようによく通る声を想像していたからだろうか。彼女の声はか細く弱々しい印象を受けた。

 顔が火照り、僅かに息も切らせている。光の悪戯か、穢れを知らない大きな垂れ目は、以前会った時に比べて碧さが僅かに増しているように見えた。


「いえ、大した用事ではないのだけれど……他に誰かいらっしゃるかしら?」


 出来る限り平静を装い、後ろに隠した魔術書を開く。


「ああ、今は私だけですよ。両親、この時間は仕事ですから」


 彼女は自らの背後を一瞥して私に儚い笑顔を向けた。

 そう。良かった。私は小さく呟き、魔術書に魔力を注ぐ。


「その、『良かった』というのは、どういう――――」


 そう言いかけたリゼの全身から力が抜ける。気を失い、私の方へ倒れ込んできた。私はそれをしっかりと受け止め、彼女を背負って屋内に入った。

 ごめんなさいね。

 私は彼女の耳元で囁く。催眠の魔術で眠った彼女にこの声は届かないが、私はそれでも、拭いきれない罪悪感を吐き出すかのようにそう告げた。


 ――――。


 たとえ屋内とはいえ、彼女を背負って歩くのは体力も筋力もない私にとって重労働だった。一階を一通り見て回ったあと、二階にただ一つだけある部屋の扉を開けて、ようやくそこが彼女の部屋だとわかった。

 無駄足だったかのように思えるが、家中を見て他に誰も居ないことを確認できた点は大きいと、私は自分自身を励ました。

 彼女をゆっくりとへやのベッドに寝かせ、体調の確認を行った。

 高くはないが熱がある。眠らせた今でも少々息苦しそうで、あまり良い状態とは言えない。手先に触れると、全身は火照っているにも関わらず私の体温よりも僅かに低い事がわかった。

 まずは治癒の魔術を試す。しかし、効力が薄いどころか、その魔術は弾かれているかのように感じた。体調調整や毒抜きの魔術も同様だった。まるで純粋な魔力を拒絶しているかのように、ただ弾かれるだけであった。

 私はこの情報から一つの答えを推測した。


 ――――呪毒。


 呪いによって身体を蝕む魔術。人体に大きな影響が在るためこの国では禁術指定が成され、術式の情報規制が敷かれているものだ。

 物理的な毒ではないため、薬品や通常の魔術での解毒は不可能。方法として解呪の魔術を施すか、術者に呪いを解除させるしか方法がない。

 しかし、不安と同時に安心もした。


 彼女は『堕ち人』ではない。それだけでも、大きな収穫だった。


 しかし、彼女を助ける術が一つしかない。

 母の遺品である『アークフォルセティア』を使用しての解呪。

 しかし、通常の呪術とは違う堕ち人の呪いはこの魔術で解くことができるのだろうか。もし失敗すれば、母の意思を無駄にすることになる。

 私は躊躇った。そして、冷静に、慎重に考える。

 呪術はその効力を持続させるため、術者と被術者の間に糸のような繋がりがあるという話を耳にしたことがある。試した事はないが、あれをやってみるしかない。

 私は魔術書のページをめくり、召喚魔術の項目を開く。


 召喚士の目。一般的にはそう呼ばれている召喚士が持つ特殊な瞳だ。碧く光るその瞳は、一部の霊や魔力の流れを見ることが出来るらしい。召喚士ではない私にとっては未知の領域だが、ある術式によってその瞳を一時的に得ることが出来る。

 私はページを開いたまま魔術書を床に置く。そして、懐にいつも常備しているナイフを探す。


「…………!」


 私はしまったと思った。今は普段の魔術着ではない。礼服にものを仕舞うようなスペースはなく、ナイフは家のデスクの上に置いてきたことを思い出した。

 何か代わりになるものはないだろうか。そう考えて小物入れを探るが、目当てのものは見つからなかった。


 …………。


 今から刃物を調達する余裕はない。


「――――っ!」


 私は親指の皮膚を噛み切った。

 刃物で腕を切るのとは全く違う痛み。指を抉られるような感覚は、想像以上に苦痛を伴った。

 だが、これで準備は整った。さあ、私に目を貸して頂戴。指から滴る血を魔術書のページに押し付け、刷り込むように円を描く。そして、白魔術師としての魔術動脈から、無理やり魔力を注ぎ込む。どれだけ魔力が必要になるかはわからない。そのため、限界を感じたらすぐに中止することに決めた。これに失敗した挙句また身体が動かなくなるというのは最悪の事態だ。


 ひりひりと痛む親指の感覚を振り払いながら、私は魔術の発動に集中した。


 ――――。


 結局、ただ視るための目を一時的に得るために、体内にある魔力の半分以上を消費した。

 だがこれで、正体がわかる。私は碧く光っているだろう瞳を、リゼの方に向けた。


「……なに、これ」


 私は絶句する。言葉にもできないような、黒だった。

 彼女を覆うように、黒い膜が見えたのだ。魔力は通常青白く見えると聞いていた。しかしこれは何だ。青さの欠片もない。

 ただ見ているだけなのに、僅かに吐き気を催した。それを飲み込んで、彼女の全身をよく見る。

 彼女の上半身から、一本の細い糸が見えた。真っ黒だが、見逃してしまいそうなほど細い。まるで隠れるかのように伸び、部屋の壁を貫通して外に繋がっていた。


 きっとこの糸を辿れば、術者の元に辿り着けるだろう。

 しかし、私一人でそこに向かって何か出来ることはあるだろうか。そもそも、そこまでこの瞳は持つだろうか。色々な心配が脳裏を過ぎった。

 ライアを頼る? いいえ、彼女は私以上に混乱しているのだ。他の召喚士は? 私に召喚士の知人は居ない。


 考えても無意味だった。

 何もできないかもしれない。それでも私は早足に家を飛び出し、まっすぐに伸びる黒い糸を辿り始めた。間に合ってと、何かに祈りながら。



『あの時、私はリゼを助けるのに必死だった。誰かを救いたいというライアの気持ちが、少しわかった気がした』

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