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気がついたとき、さっきまでの場面とは全然違っていた。
慎也は、むっとする熱気に思わず空を見上げた。
青空にモクモクとした白い大きな入道雲がかかっていた。まるで夏の空。いや、実際夏のような暑さだった。
「うへー、暑い」
慎也はたまらず制服の上着を脱いだ。それからシャツの腕をまくる。それでも、汗が噴き出してきた。
「どうなってるんだ?」
そう一人呟いて、慎也は辺りを見回す。
自分の立っている通りは、みゆきの家の近くに違いない。でも、見覚えがあるような、ないような不思議な感じがした。
また、時間を飛んだのか?
やっぱり、ラベンダーが関係してるんだ。
慎也はそう思って、さっき見た驚いているみゆきの表情を思い出した。
まじいな。俺がいなくなって、あいつ驚いてるんだろうな。
そこで、慎也はひらめいた。
そうか、あの前に戻れば、いいのか。それで庭に行かなきゃいいんだ。
うん。そうだよ。よし、戻ろう。
そう思って、ラベンダーの香りを嗅ぐために、慎也はみゆきの家の庭に戻った。
そこで、慎也は目を疑った。
建物の影から覗いた彼女の家の庭には、丸いビニールプールが置かれ、そのなかに幼い女の子がビーチボールを抱えて座っていた。ピンクの花柄のワンピースの水着を着ている。
みゆき?
慎也はその女の子に見覚えがあった。
それはまぎれもなく、幼い頃のみゆきの姿。まだ、小学校に入りたてぐらいじゃないだろうか?
ということは、俺は、そんなに時間を戻ったのか?
慎也は呆気にとられた。先ほどまでとは、規模の違う時間飛行である。
なんで、こんな事に?
チラッと、さっき庭先でこの光景を思い出したなという想いが蘇る。
ひょっとして、この事を思い出していたから?だから、その時に飛んだのか?
慎也の胸に確信めいたものが湧いた。だとしたら……。
その時、庭に面した部屋から、子供が走り下りてくるのが見えた。水着を着た幼い男の子。
お、俺だ!
慎也にははっきりとわかった。幼いふたりが小さなプールで水を掛け合っている。きゃあ、きゃあ、言う、歓声が聞こえてきた。
それをしばらく懐かしそうに眺めながら、慎也は、ハッとして我に返る。
そうだ、ラベンダー!
庭にはラベンダーの花は咲いていない。それもそのはず、季節は夏なのだ。
それに気づいて、慎也は蒼くなった。
どうしよう?ラベンダーがない!帰れない!
慎也はふらふらと、その場を離れた。
夏の暑さに朦朧となりながら、慎也は当てもなく歩いていた。
いまは夏。ラベンダーは咲いていない。これじゃ、元の時間に帰れない。どうしたら、、、。
いつの間にか駅前の繁華街を歩いていた。何となく違和感があるのは、一昔前の街の飾り付けだからだろうか?
しかし、慎也は、それには気を止めることもなく、暑さを避けるために、ようやくたどりついた駅前のデパートに入った。
館内の冷房が体を包み、慎也はようやくほっと一息ついた。そのままホールのベンチに腰掛ける。
ぼんやり座りながら、頭では、どうしたら帰れるんだろうと必死に考えていた。
最悪、春まで待たないといけないのか?その間、どうやって過ごせばいいんだろう?まさか、自分の家に帰るわけにもいかないし。
慎也の脳裏に、公園にビニールシートと段ボールでつくった家に暮らす、自分の姿がよぎった。
「げえ。まじかよ」
弱々しいつぶやきが漏れた。
あ〜あ、と顔をあげて、デパートの中を見渡した。そこで、ふと、目が止まる。
綺麗な女性が微笑むポスター。たぶん化粧品の広告だろう。
そのポスターの横に、春の香りと書かれたポスターが並べて掲げられていた。その写真が、、、紫に咲くラベンダーだった!
がたんと音を立てて、慎也は立ち上がった。急いで、そのポスターの元に走った。
それは、香水の広告。春のいろいろな花の香りの新商品だった。
これだ!慎也はそう思った。震える声で、店員のお姉さんを呼んだ。
「す、すみません。この、ラベンダーの香りの香水を、ください」
お姉さんはちょっと微笑んで、
「贈り物ですか?」
と聞いた。
「いや、あの、ちが…」いますと言いかけて、まずいと思いとどまった。男の俺が香水って……。
「え、ええ。そうなんです」
慎也は、冷や汗を流しながら、そう答えた。チラッとみゆきの顔が浮かぶ。
あとで、彼女にあげることにしよう。そうすれば嘘じゃないな。
なぜか律儀にそう思っていた。
香水を受け取って、トイレに入った。
「なにやってんだろうね、俺は」
慎也は、教師に見つからない様にトイレで悪さをする中学生になったような気分になった。
まあ、いいか。そういって、香水のふたを取った。
脳裏に、何回も見た玄関先のみゆきを思い浮かべる。そうして、香水を振った。
たちまち濃厚なラベンダーの香りが鼻をついた。視覚が白く染まる。
そして、気がついたとき、慎也の耳にみゆきの声が聞こえた。
「あ、ありがとう!待ってる」
家に帰って、パソコンをネットにつなぐ。
慎也はさっそく調べてみた。
今時、ネットで大抵のことはわかる。それが真実かどうかは別にして。
慎也の身に起こったことは、俗に、タイムトラベル、もしくは、タイムリープ(時間跳躍)と呼ばれる現象であることはすぐわかった。
しかし、それはSFや物語の世界の出来事で、現実には、物理法則を無視していると言うことだった。
しかし慎也自身には、実際に体験したことだ。物理法則がどうだろうと、出来ちゃったものは、仕方ないという気になってくる。
えらい物理学者だって、間違えることもあるさ。そんな気分だ。
なぜ、ラベンダーの香りで起こるのかについては、なにも情報はなかった。
あまたの物語にも、そんなきっかけはないのかもしれない。事実は小説よりも稀なりというやつだ。
もう一つ、どういう時間にいけるのか?または、どうしたら望む時代にいけるのか?については、諸説紛々としていた。
ある場合は、過去も未来も、何らかの装置をセットすることで移動できる。ある説では、それは全くの偶然に支配される。他にも、望むところにいけるというものもあった。
慎也には、さっきの出来事から、一つの仮説があった。
最初ははっきりしなかったけど、俺は脳裏に思い浮かべた時間に移動したんじゃないか?
最初、みゆきと別れた場面に時間移動したのは、庭を眺めながら、彼女のちょっと照れた表情を思い浮かべていたからだ。
子供の頃に飛んだのは、庭でプール遊びしたのを思い出していたからで、戻って来れたときは、はっきりとあの場面を思い浮かべた。
だから、俺の場合、思い浮かべたところにいけんじゃないのか?
そう思うと、慎也は、なんだか、すごいことだという気持ちが沸々と湧いてきた。
俺って、すごい能力を身につけたんじゃないか?これなら、失敗なんてありえねえ。
そう思いながらも、彼は、本能的な怖れも感じていた。
これは普通じゃない。下手に使うと、大変なことが起こるんじゃないか?という心の声だ。
慎也は少し息苦しくなって、窓を大きく開け放った。途端に心地よい夜の風が吹き込んでくる。
あれ?もう夜か?
いつの間にかすっかり暗くなっていた。
彼は急にお腹が減っていることを感じて、何か探しに行こうと立ち上がった。
頭の中には、まあ、何か困ったことが在れば、この力を使ってもいいかという想いがチラッとよぎって、消えていった。