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クラブを終えて、肩に鞄を提げながら、慎也は駐輪場に向かっていた。
校舎裏に抜けると、大半の生徒たちが帰宅して自転車もまばらになった駐輪場で、誰かがうずくまっているのが見えた。
あれ?と慎也は思う。
チラッと見えた横顔。みゆきか?
慎也は近くまで行って声をかけた。
「なにやってんだ?」
少女が顔をあげる。
驚いたような、ほっとしたような、複雑な表情になった。それから、急に顔をしかめる。
慎也は、少女が押さえている足首に白い包帯を見つけた。一瞬、顔を曇らす。
「どうした?怪我か?」
「うん。クラブでドジっちゃった」
「へえ。珍しいな、おまえがドジるなんて……」
少女が眉を上げる。
「どういう意味よ?」
「いや、いつもは沈着冷静だからなあ、おまえ」
みゆきはふんといって、横を向くと、小さな声で呟いた。
「誰のせいだと思ってるのよ……」
「うん?なんか言ったか?」
慎也が訊く。みゆきは慌てて、
「なにも……」
と首を振って立ち上がりかけた。
「痛っ!」
その顔が苦痛でゆがみ、もう一度しゃがみ込んでしまう。俯く少女の顔の前に、手が差し出された。
「みゆき。掴まれよ」
え?と少女は顔をあげた。そこに心配そうな慎也の顔があった。
「あ、あ、あの……」
「それじゃ、帰れないだろ。俺のチャリの後ろに乗れよ。送って行くから」
「慎也……」
みゆきが怖ず怖ずと指しだした手を慎也は優しく取った。そして引っ張り上げる。それは男の子の力強い腕だった。
「ちゃんと掴まってろよ」
「う、うん」
みゆきの腕が慎也の腰に回っていた。
荷台に横座りした少女は、ショートの髪を軽くかき上げる。ほんのり上気した頬を手で隠すように。
「なあ、みゆき」
揺れる自転車が風を追い越しながら走る。住宅街の街路樹が、青々と輝いている。
みゆきは足の痛みも忘れ、心地よさに、その光景に見とれていた。
慎也の声で我に返る。
「なに?」
「前にもこんな事あったっけ?」
少女が少し緊張する。
「いつ?」
「さあ、いつだろう?」
慎也は考えながら、
「中学生……?いや、違うか?小学生の時……?あれ?違うか」
彼の思案が続く。
「そんなことあったっけ?」
みゆきが言うと、慎也は自信なげな口調になり、
「あったと思うんだけどなあ。わかんねえや」
そう言って口をつぐんだ。みゆきが小さく息を吐いた。
「じゃあな」
少女の自宅の前で慎也は声をかける。玄関に立ったみゆきに言った。
「あした、迎えにきてやるよ」
「え?」
みゆきがびっくりした表情をする。
「なんだよ。うれしくないのか?」
慎也は、ちょっと視線をはずすと照れながら、そう言った。
「いいの?」
みゆきが訊く。
「ああ」
慎也がぶっきらぼうに答える。
「あ、ありがとう!待ってる」
みゆきのうれしそうな、元気な声が聞こえた。
「さて、帰るか」
慎也はそう呟くと自転車に跨った。
しかし、ふと、思い出して、
「そういや、今頃かな?」
と声に出した。
みゆきの家の庭に、今頃ラベンダーが咲いてるはずだ。
放課後、理科準備室でかいだ香りを思い出した。
ちょっと覗いていこうか?懐かしくなって、そんなことを考えた。
慎也は、道を回って庭が見える方に出ようとした。
そこは小道から少し大きな通りに出るあたり。
庭を覗き込みながら、何気なく飛び出した慎也の目の前に、大型のトラックがスピードを落とさずに突っ込んできた。
え?
その光景が、慎也にはまるでスローモーションのように見えた。
そのくせ、頭の中は真っ白で、素早くよけることもできない。
トラックが目の前に迫った。脳裏に、ぶつかる!という確信が広がる。
同時に、恐怖がわき上がる。
刹那、慎也は、ラベンダーの香りを嗅いだ気がした。
「あ、ありがとう!待ってる」
みゆきが少し頬を染めて嬉しそうにそういった。
あ、あれ?
そこは、彼女の家の玄関。慎也は、みゆきに手を振っていた。
あれ?これって、さっきの……
え?え?なんだ?なにが起こったんだ?
慎也が呆気にとられている間に、「じゃあね」といってみゆきは家の中に消えた。
俺、どうしたんだろう?
混乱した頭で、慎也は考えた。
さっきのは夢か?それともこれがデジャブーなのか?
そう思いながら、無意識に確かめようとして、同じようにみゆきの家を回り込んだ。
小道から出る場所に来て、ビクッと足が止まる。
恐る恐る先を覗き込もうとしたとき、風を伴ってトラックが横切った。
ドクンと大きく心臓が鳴って、背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
ほ、ほんとだったあ。と慎也は思った。
じゃあ、これって、予知したのか?
いま来た道を振り返ったとき、みゆきの家の庭から、ラベンダーの香りがした。
ふっと、視界が白く染まる。
気がついたとき、目の前にみゆきがいた。
「あ、ありがとう!待ってる」
さっき聞いたはずの言葉。見たはずの表情。これは!と慎也は思った。
このあと、みゆきは手を振って家に入っていって……ほら、その通りだ!
目の前で、みゆきが玄関に消える。慎也は、信じられない表情で、それを見送った。
信じられないけれど、信じずにいられなかった。
これって、さっきの場面だ。そう、3回目だ。つまり、俺は、3回同じ時間を繰り返したって事か?
それって……時間を戻った?時間移動?タイムトラベル?
信じられねえ。でも、確かだよな。
慎也はハッとして、小道の先を見つめた。その出口の先を、大型のトラックが横切った。
サーと鳥肌が立った。
や、やっぱりだ。さっき見たとおりだ。慎也はそう思った。
でも、なぜだ?
疑問が浮かぶ。
なんでこんな事が?
そう考えたら、一つ気づいたことがあった。
ラベンダーだ。ラベンダーの香り。さっきから、ラベンダーの香りがしたと思ったら、時間を戻っていた。
理由はわからない。けれど、原因は、もしかしたらあれなんじゃないか?と慎也は思った。
そう思うといてもたってもいられなくなり、慎也は、みゆきの家の玄関を入ると、今度は直接、庭の方に回った。
建物の影を越えて、恐る恐る庭に近づいた。
角を回って庭に出た。
そこに綺麗な紫色のラベンダーが咲いていた。
ああ、と慎也は思いだした。
この庭で、幼い頃みゆきと遊んだな。夏には、庭にビニールプールを出して、水遊びしたっけ。あれは、いつだったかな?
そんな追憶にとらわれていたとき、庭に面した部屋の窓が開いて、不審気な声がかかった。
「慎也?慎也なの?」
振り返るとみゆきが驚いた表情でこちらを見ている。
「そこでなにしてるの?」
「あ、俺……」
言いかけた慎也の鼻に、風に乗ってラベンダーの甘い香りがとどいた。
あっと思ったときには、慎也の視界はホワイトアウトしていた。
やっぱりという想いと、まただ、という想いが同時に浮かんでいた。