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「あんたのはこっち」

 掏った財布と共にスタッフに引きずられていく女装男についていこうとしていた康臣は、歩佳に引き止められた。目の前に差し出されたのは、掏摸の紙袋に確かに入れられたはずの彼の財布である。

「いつの間に……」

「あたしにかかればこれくらい、朝飯前よ。それだけに、あんたなんかに見抜かれたのが一生の不覚ね。よっぽど注意深く見てたのね?」

「……すまん」

「謝らないでよ。あたしもまだまだね」

「いや、本当に。……その、俺も男なもので」

 赤くなってもじもじしている康臣を見て、歩佳はピンと来た。だが怒る気にも呆れる気にもならず、仕方ないというため息をついただけにとどまった。

「本当にあたしもまだまだね。鴨以外の視線も集めてるんじゃ、この先思いやられるわ。もう、無理なのかな」

「御処野さんすごいです! いったいどうやったのですかー」

 物言いたげな康臣を押しのけるように、見守っていたヌルポが称賛を送ってきた。

「マジシャンみたいでしたよ。本物の掏摸かと見間違うくらい」

「あ、あはは、まあ、偶然うまくいっただけよ」

「ありがとう、御処野さん」

 本物だとも言えずに笑ってごまかす歩佳に、佐倉が声をかけてきた。財布を取り戻すため本部へ行かなければならないため、ここで別れると言う。慌ててヌルポが歩佳の影に隠れた。

「御処野さんのおかげで、無事にうちまで帰れそうだ。二人も、感謝してる。……あー、彩花はその、あんまりいい感情を持ってないみたい、だけど」

「いいわよ、別に。幽霊なんかに好かれたくないし。でも、幽霊がいたおかげってのもあるから、これでイーブンね」

 歩佳は彩花がいると思しき空間に向かって、にっと笑って見せた。見せられた方がどんな表情をしたのかは、知る由もないし知りたいとも思わなかった。

「じゃあね、三条。いずれまた。フォローはそのままでいいかな? 僕はあんまり呟かないけど」

「ああ、いいさ。またな」

「うん。……君が気に病むことは、何一つないからね」

 去り際に聞こえた呟きは、携帯電話の画面上に流れる無機質な文字の羅列とは違って、確かな温かみを持っていた。横目で見れば、康臣の頬は微かに赤らんでいる。けれどそれを揶揄する気は、歩佳は少しも湧かなかった。

 とはいえ、彼女の佐倉への印象は不動の『変な人』のままである。

「オタクって、みんなあんな感じなの?」

「何? どういう意味だそれは。事と次第によってはお前を許さないぞ」

「あたし、気持ち悪いからやめてって言ったじゃん。架空の人をいる人扱いするの」

「それは、彩花さんという幽霊さんのことなのですか? 私は、御処野さんはその点については納得されたと思っていましたけど」

「じゃなくて」

 歩佳の背後からにょろりと出てきたヌルポまでもが、不思議そうな顔をして首をかしげている。オタクとひとくくりにされたことが気に食わないのかもしれない。しかしそれを否定する材料も彼女の中にはなかった。むしろ肯定する材料しかないという始末だ。

「今の、佐倉って人。二人も、とかなんとか言ってたけど、ずっと一人だったじゃない?」

「……は?」

「まあ、女の幽霊はいるかもしれないことは認めてもいいけどさー。なんかもう一人いるっぽい感じで話してたわよね。なんだっけ、橘とか言った? 影も形も見えなかったけど」

「え、え? ずっと一人、と言ったのですか、御処野さん……?」

「まあ、幽霊屋敷に住んでるって言ってたしねえ。うじゃうじゃいたら、生きてるのと死んでるのの区別なんてつかなくなるかもね」

 ヌルポは蒼ざめた顔で、今更のように震えだした。そして同じ表情をしている康臣に「いましたよね? いましたよね?」と同意を求めている。小柄な女子に揺さぶられながらも、フリーズしてしまった康臣から返事が返ることはなかった。

「ねー、そんなことよりさ、ヌルポ。あんたこんなとこにいていいの?」

「え?」

「釣銭。あいつが持ってるんでしょ」

「……。ああっ!」

 すっかり忘れていたらしい。本部が設置されている方角とこちらとの間で幾度も視線を行き来させて、しかし飛んでいくにはまだ未練があるというようにうろうろと首を巡らせていた。

 歩佳はため息をついて、その背をそっと押す。

「行きなさいよ。大事なものでしょ」

「俺たちのことは気にするな。何かあったら呟けばいいし、嫌になったらフォローは好きに外せばいい」

「で、でも……私、腐女子だし……」

 まだ何かうじうじしているヌルポに、歩佳は自分でも似合わないと思いながらも優しい声で呼びかける。

「ヌルポさあ、男苦手って言ってたけど、ちゃんと話できてるじゃない。まあ、こんなチビ介だけどさ」

「チビとかいうな、乳デカ女」

「それにヌルポがいなかったら、たどり着けなかった部分もあるじゃない。役に立ったわよ、ありがと」

 歩佳が差し出した手を、そっと握り返したヌルポの目は、真っ赤に充血していた。

「ま、また、お会いできますか……?」

「もちろん」

「じゃ、じゃあ……次にお会いする時には、私、もっとがんばって、モーセにならないよう努力します。だから……おっぱい、触らせてほしいのです」

「……」

「い、いえ、その、別にレズ的な意味とかじゃなくてあまりに大きいのでこうして目の前にあっても実在のものとは到底思えなくて!」

「お前、ぶつかったりしてただろ……」

「ま、いいわよ。次ね」

 呆れる康臣と苦笑する歩佳に見送られて、ヌルポは二人の前から去って行った。

「触らせるのか。お前、好きな人以外には触らせないとか言っておいて……はっ、もしやヌルポのこと」

「ばっかじゃない。女の子は別に決まってるじゃない」

「ですよね。って、あ! スケブ」

 今になってようやく思い出せたというように、ずっと小脇に抱えていたスケッチブックの存在感が増した。念のためにと康臣が独断で、ずっと持っていたのだった。

「ヌルポのじゃないの? 返さなくていいの」

「後でサークルまで行くか。とはいえ、もう閉場間近だな。……先にえたさんにお礼を言わねばなるまい。行くぞ」

「ええー、あたしも? ていうか天秤にかけたわよね、今」

 ヌルポの重量が明らかに軽かった件について問い詰めたものの、憧れの作家に会える口実を得た今となっては、康臣の耳には何一つ届いていないようだった。

 終わりに近いこともあって、件のサークルはもう帰り支度に入っていた。黙々と撤収作業をする女性に意気揚々と近づいて、康臣は陽気に話しかけた。

「すみません、えたさん、いますか? スケブを描いていただいたので、お礼を言いたいのですが」

「え?」

 女性は呆気にとられた顔をした後で不審そうに、にこにこしている康臣を見つめた。

「スケブって……前に?」

「いえ、今日です。あ、席を外しておいでですか?」

「えっと……あなた、サイトにアップした緊急告知見てない?」

「え?」

 女性は困惑を目いっぱい貼り付けた表情で、衝撃の事実を告げた。

「えたは、直前に事故に遭って、今入院しているの。だから今日は欠席したのだけど……あなたが描いてもらったというスケブは、誰かがえたを騙ったってことかしら?」

「……」

 康臣は笑顔を張り付けたまま、黙って手元のスケッチブックを見下ろした。歩佳の目からしても、絵柄を見れば、間違いなく飾られているポスターと同じ筆致であるとわかるため、騙りではないのは明らかだ。

「すみません、なんかこの人勘違いしてたみたい! 気にしないでください! それじゃあ!」

 不穏な空気を感じたため、無理やり引き下がることにした歩佳だったが、彼女に引きずられてサークルの前を辞した康臣は、まだ呆然自失状態だった。仕方なしに、その頬をひっぱたいていやる。

 ことのほか、いい音がした。

「な、何をする!」

「目え開けたまま寝てんじゃないわよ。つまり、えたさんとやらも、幽霊だったってことでしょ」

「ま、待て待て待てい! 入院とは言ったが死んだとは聞いてないぞ! い、いや待てよ。確か、イベントに行きたいあまり、生霊を飛ばして会場で目撃されたという逸話を聞いたことがある。つまりえたさんも、生霊だったのだ!」

「霊じゃない」

「だが死んでないぞ。しかし、この絵は……中には物質に干渉できる霊もいるというから、別段おかしいことではないのかもしれんな。お前、見えていたよな?」

「ん? どうだっけ」

「目が合っていただろう!」

「うん、合ってた気はするけど、どんな人だったか全然思い出せないわ。人の顔は割かし覚えてる方なんだけど。うーん、どんなだっけ……」

「俺はこれをヌルポに話すべきかどうか、心底迷うぞ……」

 二人して詮無きことでうんうん唸っている間に、閉場のアナウンスが入った。終わりを惜しむ拍手が美しい雨音のように響く中、唸った甲斐もなく二人の間に結論は出ず、選んだのは思考を諦めるということだけだった。


「教えてあげればいいじゃない」

 祭りが終わり、家路につく来場者が波のように流れていくのを眺めながら、同伴者に言った。

 結局持ち主に返すことなく、生霊が描いたスケッチブックを宝物のように抱きしめていた康臣は、至極どうでもいいような口調ながらもわざわざそれを話題に出してきた歩佳の真意を掴みかねて、首をひねった。

「わざわざ怖がらせることもあるまい。本人が来たと舞い上がって、突撃するような阿呆にも見えなかったしな」

「ずいぶん、買ってんのね。まあ、あんたたち、なんかオタク同士通じるものがあったみたいだし、いっそ付き合っちゃったら?」

「はあ? なんでそういう話になる?」

「ふん、どうせあたしは非オタよ。何よ二人で世界作っちゃってさ。ヌルポなんて男苦手とか言ってたくせに」

 すねたように頬を膨らませる歩佳だったが、しかし胸のそれには遠く及ばない。その下で腕を組んだのは持ち上げて見せつけるためではなかったのだが、康臣は必死で見ないように視線をあらぬ方へと飛ばした。

「ヌルポは別に、克服したわけじゃないだろう。佐倉のことは最後まで怖がってたし」

「あれは幽霊のせいでしょ」

「それもあるだろうが……俺はある意味、同類だからな……」

「何よ、認めなさいよ。いいもん、ツイッターに書いてやる」

「やめろ! 何を書く気だ!」

「馬鹿が認めないって呟くだけよ。いいじゃない、独り言なんだから」

「そういう脊椎反射的な奴のせいで馬鹿発見器と呼ばれているのを知らないのか!」

「あ、ヌルポが呟いてる」

 携帯電話を取り上げようとする康臣から身をかわした歩佳は、開いたページに書きこまれた呟きを見て、首をかしげた。


『@ヌルポ 今日はお疲れ様でした、ヤスオさん、今度ゆっくり腐話しましょうね!』


「腐のくせにDMや鍵かけを知らない馬鹿かあいつはあああ!」

 叫んで膝から崩れ落ちる康臣に突き刺さるのは、歩佳と通行人の「うるさい」という視線だけ、注いでくれる優しさなどツンドラ地帯に芽を出す植物くらいに皆無だった。

「腐話ってアレでしょ? 例の、業の深い標準装備……ん? なんであんたと腐話するの? そういえば各所で、なんか引っかかることが……」

「ああそうさ、俺は……俺は、腐男子だ!」

「ああ、ホモ」

 開き直ってカミングアウトする康臣に、あまりにも無慈悲な鉄槌を下す歩佳は、見る人がいれば鬼だとその所業に震えあがっただろうが、幸いなことに一刻も早く家に帰って戦利品を読みふけりたい帰宅希望者の中にあっては、誰ひとりとして関心を払う者はいなかった。

「ホモではない! ちょっとBLが好きな健全な男子だ! 腐男子だって同じオタなのに、腐が好きだってバレた途端に汚物でも見るような目で見やがって……! 同じ腐なのにまだ腐女子の方が市民権があるなんて、俺は認めない! 女で百合好きな健全女子だっているのに、なぜ俺ばかりこんな目に!」

「だったら余計に、ヌルポと付き合えばいいじゃない。同じ趣味なんでしょ?」

 オタクでない歩佳には、さらに細分化した先の住み分けなどあまりにもどうでもいいことすぎて、言葉にまるで力が入っていなかった。そんな彼女に、康臣の恨みがましそうな視線が刺さる。

「腐女子腐男子だからって、受け攻めの好みが違えば話はすれ違うどころか戦争状態に突入して、うまくいくものもこじれる一方なんだ。ほいほいまとまるような、そんな簡単な話ではないわ、馬鹿者。俺はお前の、いずれ垂乳根と成り果てる醜悪な脂の凝固物だけを見て付き合ってくれとほざくようなアホ男とは違う」

「……なんか素直に同意できないわ、あんたの言い方」

「だが女子寄りのマイナー趣味を持っているとはいえ、残念ながらアホ男と性別は同じだからな。X二乗遺伝子が顕著に具現化したものが目の前にあれば、見てしまうのだ!」

「最低な開き直り方ね」

 しかし康臣が睨んでいるのは歩佳の二つの山ではなく、掏摸を働く悪党だった。彼の中の正義の魂は、大口の悪党が捕まった程度では燃え尽きないものらしい。

「分かってるわよ。あんたに見られてたのが運の尽きね。例えあんたがいないところでやったとしても別の目を引き付けてるかもしれない可能性は、否定できないわけだし。今日を限りに辞めるわ」

「本当か?」

「そこまで根性座ってないわよ。危ない橋は渡りたくないもの。さて、そろそろ着替えないと、更衣室閉まっちゃう。じゃあね」

「待て」

 肩を掴まれて振り向くと、用はまだ終わってないと言わんばかりの康臣がへの字口で睨んでいた。

「何? あんたもヌルポみたいに別れを惜しみたいの?」

「そんなわけあるか。おい、お前、言ったよな、今日を限りに辞めると。今日の分は持ち逃げする気か?」

「……返せっていうの?」

「返さないならこのまま警察に」

 しかしそこで実際に突き出されたのは康臣の両手で、させたのはそれを掴んだ歩佳の両手だった。彼女はそれは、何も気負いもなく自らの方へと引き寄せる。

 何の予測もしていなかった男の指先が、歩佳の格別柔らかな肌の上にむにゅ、とめり込んだ。

「財布ごとならまだしも、むき出しのお金を返すなんて、無理だし、無駄よ。廃業するのは、明日からね」

 殊更体を寄せて囁くと、歩佳はぱっと手を放した。硬直した康臣の手に、そっと返すのは、彼の財布だ。

「!?」

「さよなら、正義の味方気取りさん」

 未だ息をすることも忘れたように立ち尽くす康臣の視界で、ぱたぱたと振られる手の中で頼りなく揺れる樋口一葉が、見る間に遠ざかっていくのが映った。

「あ……の……、悪党がぁ!」

 ようやく正気を取り戻し、事態を理解し叫ぶも、女の姿はとうに消えている。道行く人に不審なまなざしを投げかけられるも一瞬で、皆自分こと以外興味ないというように、震える康臣に注意を払うものなどいなかった。


End

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