3
だが、得られた結果は芳しいものではなかった。両隣ともに超絶忙しく立ち働いていたため、売り子を騙った人物がそこにいたことなど、まるで記憶していなかったのだ。
スペース内では主のヌルポと、途方に暮れた康臣と、無関係の歩佳が、肩を落としていた。そうこうしている間にも、両隣は人の列が並び次々と同人誌が売れていく。
「あー。モーセってこういうことなのね」
「これはきついな……」
ほとんど歩佳にすがりつかんばかりにしているヌルポはといえば、またぞろ泣きそうになっていた。じめじめとした顔で、通り過ぎていくだけの人々を眺めている。
「どうせ私なんて、いらない子なのですよ……。ピクシブやサイトやツイッターで告知してもこのざまです。ごみなのです。釣銭を盗まれても仕方ないのですよ……」
「思ったんだけど」
湿った空気を振り払うように、賑やかしい会場の様子を眺めながら歩佳はぱたぱたと手を振った。
「こうしてる間にも犯人はさ、別のサークルに入り込んでるんじゃない? 既に一件起きてるってことはモーセ状態の弱小サークルは決して少ないわけじゃない。むしろ売れ売れの人の方が少ないって聞くじゃない。そんなのをさ、どうやって探し出すの?」
「……それは俺も考えている」
焦っているだけで明らかに何も考えなど思いついていないであろう康臣に、歩佳はなおも言いつのる。
「あんたがあたしを見つけたのは、あくまであたしが品よく振舞っていたからだわ。でももしそうじゃなかったら、あたしを見つけられたかしら? あたしだって一度ぶつかった鴨には二度と会わないのよ。これだけの人出よ。まさしく砂漠で砂金を探すようなものじゃない?」
だからこれ以上ここにいるのは時間の無駄で、はらわた煮えくり返ってるのはあんただけじゃないと、歩佳は言いたかったのだが、そこでまたも邪魔が入った。否、邪魔だと思ったのはそこでは歩佳一人だけで。
「あら? さっきいた人と違うのね」
二つに割れた海を堂々と歩く、まさしくモーセのように、一人の女性がサークルに近づいてきたのだった。奇跡が起きたかのように、サークル主のヌルポは歩佳の影から一瞬で飛び出し、一方で無関係のはずの康臣までもが目を丸くして、ひきつったような声を喉元で上げていた。
「あなたは、さっきの人じゃないわね」
「え?」
なぜか女性は歩佳を見てそう言った。そのあとでヌルポに視線を移して、軽く頭を下げた。
「初めまして、あなたがヌルポさん?」
「はい! えっ、ど、どうしてその名を!?」
「どうしてって、あなたの本を買おうと思ってたからよ。あ、本はさっき友人に買ってもらったから今は持ってないんだけど、でもどうしても挨拶だけしたくてね」
「買ってもらった?」
「あのっ、ちょ、ちょっとすみません!」
言い回しに引っかかったヌルポを歩佳の影に押し戻すようにして、康臣が体を乗り出した。
「あなた今、ここにいるヌルポではない人物が接客しているのを見たと、おっしゃいませんでしたか?」
「え? ええ、見たわよ」
「ヌルポ!」
鋭い口調はどう聞いても命令のそれで、歩佳にされたものだとしたら相当カチンと来たであろうが、幸いなことにそれはヌルポ一択に向けられたもので、しかも彼女もすぐさま察したのか、机下の荷物の中からスケッチブックと鉛筆を引っ張り出した。
「どんな人物だったか覚えてませんか? できればこれに描いていただきたいんですけど」
「別にいいわよ」
鬼気迫る勢いの康臣に、女性は気圧された様子もなく安易に請け負って、その場でさらさらとスケッチを始めた。
「すみません、お忙しいでしょうに。でも俺たちも、どうしても必要としているんです」
必死になるのは、歩佳とてわかる。だがその言葉づかいが、彼女に対するものとはまるで正反対の細やかな気遣いをにじませたものだけに、なんなのという気分になるのを止められない。
「こんな感じかな。あんまり似てないかもしれない、そう注意して見ていたわけじゃないから」
「ありがとうございます。十分です」
先ほどの、財布が手元に戻った男性と同じようなポーズで、恭しく返されたスケッチブックを頂く康臣の視界に、座った眼をして睨む歩佳は全く入っていないようだった。
「ああ、ごめんなさい。もう行かないと。それじゃあね」
「ありがとうございましたっ!」
「ちょっといい加減にしてよ! なんなのよ感じ悪い!」
九十度腰を曲げる最敬礼で見送る康臣の頭を踏みつけて床とキスさせてやりたい衝動に駆られながら怒鳴りつけた歩佳だったが、上体を起こした先に張り付いていた表情に思わず怯む。
「な、何よそのドヤ顔は」
「馬鹿が。これがにやつかずにいられるか」
「こ、これはまさか……!?」
?を顔に張り付かせてスケッチブックを覗き込んだヌルポは、目の前に広がる光景が信じられぬとばかりにごしごしと目をこすった。
「今のお方はなあ、かの有名なエターナルフォースブリザードさんこと、通称えたさんだ!」
「え、え、え、えたさん……っ!」
「誰それ?」
生粋のオタクではないため一人だけ温度設定を低くせざるを得ない歩佳の、いっそ冷たいほどの声音に、骨の髄までオタクの二人が目をむいた。
「ご存じ、ないのですか!?」
「彼女こそ、我がジャンルに颯爽と舞い降りた神! 商業で活動されないのが不思議なほどの超大手サークル『(あゐてはしぬ)』を率いるエターナルフォースブリザード様だっ! もっとも率いるとはいっても個人サークルなのだがなっ!」
「はあ……」
「そうなのです! 最近この腐ジャンルに移ってこられたことは話に聞いていましたがよもや……! 三条さんは男性なのによくご存じで!」
「……」
「悪いけど、どーでもいいわ」
感心した風のヌルポがまた少し康臣への距離を縮める一方で、褒められたはずの男はなぜか先ほどまでの饒舌を止めて別人になり替わったように目をそらした。歩佳はその手からさっとスケッチブックを奪い取る。
「あっ、こら! それはわが三条家の家宝に相当する貴く神聖なるものだぞ! 丁重に扱え!」
「まま、待ってください、そのスケブの持ち主は私なのです! その所有権については私にあるのではないでしょうか!」
「ん? これって」
即座に立ち直った康臣と、こればかりはコンプレックスをはねのけてでも権利を主張したいらしいヌルポの間で散りかけた火花を綺麗に無視して、歩佳は描かれた絵を凝視した。
「破壊魔暴走少女だな」
「姫袖に、胸元をかっちり覆った乳袋スタイルは、旧バージョンですね」
両側から覗き込んだ二人がそれぞれ呟いて、同時に歩佳に視線を定めたので、やましいところなどないのに思わず怯みがちになってしまう。
「何よ。あたしじゃないわよ」
「そんなことは分かっている。新バージョンから旧バージョンへは、そう短時間で衣装チェンジできるほど安易なデザインではないからな」
「ディティールが違いすぎますしね。逆も無理と思うのです」
「つまり犯人は、女性コスプレイヤーってことが分かったってことね。でもだからってこいつを見つけ出すために払う労力は、そう変わってないんじゃない」
「こ、こらっ! 雑に扱うな! それはお前のような下賤が気安く触れるものでは……ああっ!」
気乗りしない上に非オタであってはそれの価値など理解できるはずもなく、ばたばたと不用意に扱っているうちにそれはぽろりと、歩佳の手から零れ落ちてサークルの机を飛び越えていった。
「馬鹿馬鹿馬鹿! なんということをしでかしてくれたんだお前! 自分がどれほどの過ちを犯したか分かっているのか!?」
「何よー、うるさいわね。拾えばいいんでしょ」
放っておくと、顔面蒼白のヌルポは息をつめたまま止めてしまいそうだったし、康臣はまるで掏摸よりこちらの方が重罪だと言わんばかりに殴り掛かってきかねない剣幕でまくし立ててきたので、仕方なく机を迂回して通路に出ようとしたが、彼女の緩慢な行動力より先に拾ってくれる手があった。
「破壊魔暴走少女、発見。でも新バージョンだね、外れ?」
「は?」
その男も、拾い上げたものの価値はわからないという意味では歩佳と同類だったが、初対面に向かって話しかけるにしては高度すぎるポテンシャルの持ち主だった。
唖然としている歩佳に代わって反応を示したのは、怒りで顔を朱に染めていた康臣であった。
「なんと、佐倉ではないか。奇遇だな、こんなところで会うとは」
「やあ、三条。出てたわけじゃないけど、卒業式ぶり。僕も会えるとは思ってなかったよ。こんな、携帯を持っていてなお一度はぐれたら会場を出ない限り絶対に巡り合えない場所で」
「女連れとはやりおる」
「いや、男もいるよ、無視しないであげて。彼は橘純希。彼女は小山田彩花。あ、俺は佐倉朔夜と言いまして、三条の友達をしてますよろしく」
「ちっ、どいつもこいつもでかい乳をしおって。あまつ腕をしっかと絡ませてまるで押し付けているような体勢で、なんだそれは流行か? 忌々しいったらないな!」
「ちょっと」
貴く神聖なるものの角が、康臣の後頭部を不愉快げに直撃した。
「何をする、野蛮な女だな」
「あんたたちがオタクなのはわかったから、その気持ち悪い会話やめてくんない?」
「気持ち悪いだと!? お前、俺の数少ない友達を侮辱する気か!」
「いや、三条さん、今のセリフには三条さん自身もお友達を侮辱なさってると思うのですよ……」
「ヌルポまでなんだというのだ」
憤懣やるかたない様子の康臣を不快感をたっぷりこめて睨みながら、歩佳は今しがた振り回したばかりの武器を、佐倉と呼ばれた男に向かって突きつけた。
「いもしない架空の人間がさもいるかのように会話するのは、あんたたちの世界じゃ当たり前かもしれないけどあたしたちの世界じゃ気持ち悪いって言うのよ!」
「なんだと!? わけのわからんことを!」
「ああ、君、見えないんだね」
どうということはないという口調で、佐倉がさらりと二人の間に割り込んできた。
「彩花は幽霊なんだ。引きこもりだった僕が、卒業と同時に親に追い出される時に叩きつけられた少額の予算で買った家に憑いていた子の一人でね」
「ゆ……、え?」
「破壊魔暴走少女の人は僕と同じゼロ感なんだね。まあ僕も彩花に関しては見えたり見えなかったりなんだけど、何せおっぱいが大きいから怖いとか怖くないとかいう問題じゃないんだよね、もはや」
「……」
「ヌルポは見えるの?」
縮みかけていた距離を取り戻すかのように再び歩佳の背後に隠れていたヌルポは、青ざめた顔を首肯させた。
「たぶん、一人だったら気絶していたと思うのです。髪の長い方で、顔は髪に隠れているにしては不自然なほどの影というかベタで塗りつぶしたみたいに見えなくて、猫背気味で、そして大きなおっぱいを佐倉さんの腕に押し付けています。でも今は御処野さんのおっぱいに守られている感じがするので、そんなに怖くはないのです」
「そ……それはそうと!」
顔をひきつらせながら強引に遮った康臣は、視界を半分塞がなければ目の前の友人と目も合わせられないとでもいうように、大仰に腕を振りかぶる。
「佐倉よ! お前のような男がこのジャンルに興味があったとは驚きだぞ。どちらかというと男性向けがメインだったと思ったがな」
「僕としてもできればそっちで買い物したいとは思うよ。でもしようにも先立つものがない」
「ふふん、家を買って資金が尽きたか」
「いや、財布を掏られた」
異様なほどあっけらかんと言うので、唐突に重なった符号に思わず康臣は視界からガードを外してしまった。
「僕は全く覚えてないんだけど、彩花が言うにはどうやら、破壊魔暴走少女のコスプレした子が掏ったらしい。ああ、これはこっちの純希が通訳してくれたんだけど。今は僕、彼女の姿は全然見えないから」
「ほう、霊感が強い男なのだな。さっきから無口だがよもや他にも……いや、それで、まさか犯人の気配がこちらにあると?」
無邪気に頷く佐倉から、康臣は歩佳へと視線を移した。
「やっぱりお前か」
「何よ! あたしじゃないわよ! だいたい幽霊が気配追いかけるなんてどうかしてるわ。犬じゃあるまいし」
「おいやめろ。めっちゃ睨んでる」
「ふん、怖くないわよ。見えないもの」
「ま、待ってください、お二方。今とても大事な発言があったのです」
前に出るのは無理だがこれだけはどうしても言いたいというせめぎ合いの結果、額で歩佳の乳をぐいぐい押すような形で、ヌルポが遮ってきた。
「佐倉さんの財布を掏ったのが破壊魔暴走少女コスプレで、うちの釣銭を盗んだ輩も破壊魔暴走少女コスプレ、さらに最初に佐倉さんは御処野さんに言ったのです、『新バージョン、外れ』と」
「つまり旧バージョンのコスプレしたやつの、同一犯ってこと? でも……」
納得がいかない歩佳に代わって、康臣が口を開いた。
「破壊魔暴走少女はジャンルでいえばマイナー寄り、さらにコスプレともなればさらに絞られるだろう。しかしそうだとしても、これだけの参加人数だ。たった一人ということはあるまい。旧バージョンコスを片っ端からあたったとしても……」
「そこで、これなのです!」
ついに歩佳の片乳を押し上げるようにして顔を露出させたヌルポが、ぞんざいな扱いで日の目を見られずにいたスケッチブックを指さした。
「あの、佐倉さん、財布を掏った方はこの人ではないですか? と、隣の方に聞いてほしいのです……」
もはや恐れているのは男なのか幽霊なのかも判然としない気弱な嘆願を放って、ヌルポは再び歩佳の後ろへとポジションを戻した。
歩佳からスケッチブックを受け取った佐倉は、それを自分の右側に見せながら左側をむくという珍妙なポーズになっていた。それを見て康臣は盛大に呆れる。
「また耳打ちか。その橘という霊感男、よほど俺たちに声を聴かれるのが嫌らしいな」
「そ、そんな、三条さん、本人の前ですよ……」
「大丈夫。三条が言うとおりだから。本人も言われ慣れてるよ」
「そんなことを言われ慣れる方もどうかしてるがな……で、白なのか黒なのか」
「黒だって。この人に相違ないらしいよ」
「しかしそうは言っても」
「ならば探すのはさほど困難ではないのです」
再びヌルポがにょっきりと顔を出した。視線が集まったため沈みそうになるのを、歩佳ががっちりと抱え込んで押しとどめる。
「困難じゃないだと? ヌルポ、お前はよもやこのイベントの来場者数を知らぬ初心者か?」
「いえ、その……やみくもに探すよりは困難じゃないというだけで、大変は大変なのですけど……」
「ちょっと、因縁つけるのやめなさいよ。まだ話の途中でしょ」
「ありがとうございます、御処野さん。あのですね、ポイントは、ここなのです」
歩佳に抱え込まれたままだったヌルポが指さすポイントが本来意図したものには少し低いことに気づかないままに、一同の視線が集まる。
「おっぱい?」
「え!? ち、違います! 上です、もう少し! お花! 首の、コサージュです!」
「これ?」
歩佳は疑わしげに花びら部分をつまんでみせた。こんなものがと言わんばかりの表情だ。
「それ、手作りですか?」
「当然。これぐらいなんてことないわよ」
「さすがなのです。実は歩佳さんのコサージュは、原作と全くたがわない完成度なのです。これは誇ってもいいことです。そのコサージュを再現するのは難しくて、かなり高度な技術力がいると、とある方のブログで読んだことがあるのです」
「やだ、たいしたことないわよ。別に洋裁の専門学校行ってただけだし」
「それは十分高度な技術と言えるのです」
褒められ慣れていない歩佳は恥ずかしげに頬を染めながらも、まんざらでもない様子だ。
「そこで先ほどのスケッチです。御処野さん、よく見てください」
「ん? ……あれ、これって」
佐倉の手元から帰ってきたスケッチブックに改めて目を落とした歩佳の表情が一変する。
「旧バージョンとはいっても、破壊魔暴走少女はコサージュだけはデザインが変わっていないのです。しかし犯人がしているのは、どう見ても原作を再現したものではありません。おそらく既製品なのです」
「うわー、安っぽいコサージュ。こんなのでよくレイヤーを名乗れるわね」
「特徴的ですし、多くは既製品を地にしてもなんとか近いものを作ってみようと試すのではないでしょうか。私が見た限り、原作に近づけようと努力をなさった方ばかりで、丸ごと既製品でごまかした方は一人もいないのです」
「なるほど、少なくとも格好の目印にはなるな。そうと決まれば早速、手分けして探すぞ!」
「探すぞって言ったって」
意気揚々と携帯電話を取り出した康臣を、歩佳が「馬鹿なの?」と言わんばかりの目で見下した。
「この広い会場内、この来場人数の中から、たった一人を、目印ありとはいえ探せって言われてもね。それに手分けしてって言うけど、携帯ってほとんど通じないんでしょ?」
康臣は、「馬鹿はお前だ」と言わんばかりに問題点をあげつらう歩佳をせせら笑う。
「誰が通話機能を使うと言った」
「あ、メールなのですか?」
「メールでもない。それとて通話よりはほんの少しましという程度しか使えないからな。使うのは、ツイッターだ」
「え? あたしアカウント持ってないわよ」
「だったら今すぐ取れ! 使い方も教えるから。おい佐倉、犯人は今どの辺を移動中か、わかるか?」
「んー……、西館にはもう感じないみたい」
「じゃあお前とヌルポは東館へ行け。向こうで二手に分かれろ。俺もこの馬鹿がアカウントを取ったらすぐ行く」
「誰が馬鹿よ!」
「分かった」
「了解なのです」
手慣れた様子で康臣のフォロワーになった二人+αが、果敢に荒波に挑むサーファーのごとく荒ぶる人波の狭間に消えて行った。それを見送った歩佳が、疲れたようにぼやく。
「なんでツイッターなんてやってんの? 呟くとかさあ、意味わかんないんだけど」
「まあ掏摸なんかやってるお前に、横のつながりを作るのは不要だろうがな。ただの交流ツールだ。いいからさっさとアカウントを取れ」
「ああ、友達が欲しいんだ。さっきの佐倉って男しか友達いないって言ってたもんね」
「うううううるさいっ!」
「あんたさあ、なんで自分が被害受けたわけでもないのにそんなに熱くなれんの?」
何をするにも康臣ほどの熱を持ったことのない歩佳が、心底不思議そうに首をかしげた。
「掏られた人がいたからって、関係ないじゃん。釣銭盗まれたヌルポだってさ、初対面でしょ。自分じゃなくてよかったって、ほっとけばいいのに」
「それはできない。見てしまったからな」
「あたしのせいみたいに言わないでよね」
「まあ……お前はきっかけにすぎないが」
気が進まないというように、康臣は重く口を開く。
「佐倉が引きこもりの末、中退せざるを得なくなったのは俺のせいだ。高校のとき、教室で教材費がなくなる騒ぎがあってな、盗んだのはクラスの不良グループとわかっていたのに、なすりつけられた罪を明かして、いじめられるのが怖くて、俺は言えなかった。以来俺は、犯罪を憎んでいる。その反対側にいるから正義の味方気取りに見えるかもしれないが、熱いわけじゃない。憎いだけだ」
「警察官にでもなればよかったのに」
「あいにく、学力に恵まれなくてな」
「馬鹿だったんだ」
「馬鹿とか言うな! そういうお前こそ掏摸なんぞしなくてもご立派な武器をお持ちなんだから真っ当な職に就けるだろうに」
「えー? おっぱいを武器に? おっぱいミサイル? ……まさか風俗とか言うんじゃないでしょうね」
「……いやその……」
即座に座る目と泳ぐ目が、交差することなく同一方向へと流れた。
「最低。どこが真っ当な職なのよ。どこの世界に好きでもない男に触らせて喜ぶ女がいるのよ、あんたの狭い世界? 入れなきゃ乳ぐらいどうってことないとか思ってんの? じゃああんたが、知らない男に股の間のしょうもないポチを舐めさせる仕事に就けばぁ?」
シベリアの永久凍土もかくやと言わんばかりの世にも冷たい視線の砲火を浴びて、先ほどまでの勢いはどこへやら、小さく縮こまった康臣は聞こえるか聞こえないかというぐらいの小声で「すまん。すみません」と何度も陳謝する羽目に陥った。
「あたしだってねえ、好きでこんなおっぱいしてるんじゃないのよ。ここでしかこういう稼ぎ方しないし、いつもは必死で隠してんだから。じゃないと変なの寄ってくるし、乳だけ見て付き合おうとか言ってくるし、だからこれは男への復讐なのよ」
「あー……なんか、いろいろ、すまん……。だけど、掏摸はやめとけ?」
「ふん、どうせそのうち見るも無残に垂れてきて、賞味期限が切れるのよ。だったらそれまで力の限り利用したっていいじゃない」
「やめろ、俺を説得しにかかるのはやめろ。なんか頷きそうになる……、お」
タイムライン上に流れてきたツイートを見て康臣は、暗黒面に落ちそうになっていた両目に覇気を取り戻す。
「佐倉か。東館に到着したらしいな。……ふむ、気配濃厚と。よし、俺たちも行くぞ。走るの禁止だから、決して走らず急いで歩いていってそして悪党を捕獲だ」
「……なんかうざい」
うんざりした様子を隠しもしない歩佳と連れ立って、二人は人いきれに満ちた西館を出ていく。