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「このおっぱいの魅力が分からないなんて、あんたさてはホモね?」
「肥大した贅肉にすぎない部分を見せびらかすビッチに興味がわかないだけだ」
「ああ、ロリコン」
「人聞きの悪いことを言うな! 男が全員が全員、巨乳好きだと思うなよ」
「やーね。ちょっとでも女に気に食わない点があるとすぐビッチビッチって。処女なんてめんどくさいだけなのに。まして子供ともなれば理屈なんか通じないんだから、喚くしわがままだし物知らないし、むしろ知ったとたんに自分がいかにくだらないモノと付き合ってたのか悟って、ごみみたいに捨てられるだけよ」
「頼んでもない解説を懇切丁寧にどうも」
「あのー……」
困ったように二人の間におずおずと割り込んだのは、財布を受け取った本部スタッフである。
「仲がよろしいのは結構ですが、それよりこちらをどのあたりで拾われたのか、具体的に教えていただけませんか?」
「ああ、えーと確か、南コンコースと北コンコースの間の……」
誰が仲がいいのよと抗議しようとした歩佳を制するように、その時疾風のごとき勢いでさらに割り込んでくる人影があった。
「おおお! この財布は私の!」
「あなたのですか? では念のため本人確認を」
「はいはいはいはいそれはもう喜んで! あ、あなた方が拾ってくださったのですか!?」
それこそ至宝を発掘した考古学者もかくやと言わんばかりに興奮をあらわにした、持ち主とおぼしき男性は、冷静なスタッフに首が?げる勢い首を振って見せてから、ぐるりとこちらを見つめてきた。
「落ちていたから、拾ったまでですよ」
明らかに勢いに気圧されている康臣に代わって、歩佳はいけしゃあしゃあと笑顔を見せる。そんな彼女に対する男性のまなざしは、「神よ!」と言わんばかりの輝きを放っていた。
「それより中身を確認なさった方が」
「ああ、そうですね!」
入っていた免許証から本人確認を済ませた男性だったが、その顔からみるみるうちに喜色が失われていくのを、歩佳は首にチョーカー風に巻きつけたコサージュをいじりながらどこ吹く風、康臣は痛々しげに見守った。
「あああ、なんということ……! ため込んだ私のお給料がいずこかへと消えてしまっている! おのれ、心無い人め! 落ちている財布から金を盗むとは、鬼畜の所業なり! ……だが幸いなことに、家に帰ることはできそうだ。きっとあなた方が拾ってくださったおかげですね! ありがとうございます!」
何度も何度も頭を下げる男性と別れて、さてこのまま西へ行くかそれとも東へ渡るかとアトリウムの真ん中で立ち止まってから、康臣が冷たく歩佳に尋ねた。
「心が痛まないか」
「別に」
「ふん。そいつもその無駄にでかいだけの糞みたいなでっぱりに吸い取られているようだな。彼らが今日という日をどれほど待ち望んできたか、お前にわかるか? 日々の生活を切り詰めて当てる人もいれば、ボーナスを全額つぎ込む人もいる。あるいはボーナスが出ない人は給料三か月分を。それをお前ら屑が一瞬にしてどん底に突き落とすんだ。人非人め」
「だからあたしは全部取らないって言ってるでしょ。心ある人が届けてくれればいいのよ。心無い人に残りを取られたら運がなかったと思ってもらうしかないけど、落ちてた財布の中身が減ってることなんて、よくあることだし諦めもつくでしょ?」
「なんだ、その暴論。どんなオプションをつけたところでお前のやっていることはしょせん犯罪だと」
互いに一歩も譲れぬ持論を展開する、対極を陣取る二人を妨げるように、その時またも割り込んでくる者がいた。もっとも、自発的な妨害とはいえなかったが。
「きゃあっ」
「え?」
先を急ぐ汗だくの、身長が横に伸びすぎた男に突き飛ばされた小柄な女性を、歩佳の豊満な胸元で受け止めたに過ぎないが、着地点の見えない二人の口論を一時的に止めるにはこの上ない適役といえた。
「ご、ごめんなさいっ」
「大丈夫? 今の奴、あんまりね。謝りもしないで」
「いえ、わ、私が前をよく見ていなかったから……」
「まあでも、怪我がなくてよかったわ。ほら見なさいよ、役に立つこともあるのよ」
「勝ち誇るなら盗人の真犯人を見つけてからにしろ。……どうした?」
どうだとばかりにただでさえ張っている胸をさらに張る歩佳に世にも冷めた視線を送った康臣は、彼の発言に顔色を変えた女性の様子に気づく。ひどく青ざめた彼女はみるみる顔を歪めさせたかと思うと、人目もはばからずぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
「どうしたのっ!? この正義の味方気取りの低身長が目障りすぎた!?」
「黙れ無駄巨乳。大方お前の凶器のような乳で怪我をしたに違いない。さあ早く救護係のところへ」
「ち、違います。違うんです、私……お金を……っ、お釣りに用意していたお金を、盗まれてしまって……!」
「盗まれた?」
歩佳がポシェットを探るより先にそつなく差し出された康臣のハンカチを受け取って、女性が涙ながらに頷く。
「わ、私がドピコ弱小サークルだからって期待して大目に搬入して、お釣りも大目に用意していたから、罰が当たったのですよ……。島中なのに両隣がよりによって列整理が必要なくらいの売れ売れサークルで、私のところだけモーセ状態で、いたたまれなくなってちょっと留守にしている間に……しかも私がいない間に一冊売れていたのですよ! これってどういうことだと思います!? 泥棒が、サークル主のふりをして売り子までしていたってことなのですよ!? ひどい、ひどいです! 私が腐女子だからって、馬鹿にしてるのです!」
「まあ、かわいそうに」
言っていることの半分も理解できなかった歩佳だったが、彼女が盗難の憂き目に遭ったことだけはわかった。追いかけてふん捕まえたい犯人とは別件であるためいまいち熱が乗らない歩佳とは異なり、康臣の方は同調して何度も頷いていた。
「本当にひどい。悪逆非道とはまさにこのこと。そんなやつが会場内にのさばってると思うとはらわたが煮えくり返るな」
「そうなんのです! 煮えくり返るのですよ!」
「そうとも。絶対に許しては駄目だ、そんなやつは。だから今の話、詳しく聞かせてくれないだろうか」
「え?」
聞きとがめたのは歩佳だった。しかし康臣はそれを綺麗に聞き流した。大事なのはその両目に宿る正義の魂だと言わんばかりに。
「何言ってんのよ、あたしたちが探しているのはそいつじゃないでしょ」
「俺が聞いたところでは、会場で発生している盗難とは、あなたのようにモーセ状態の弱小サークルの釣銭を狙ったものだという。確かに金額にすれば、全額掏られている一般客とは桁が違うだろう。だが、そういう問題ではない! 弱者を狙ったということが、何より許しがたい。オタクらしい信念など皆無のお前にはサークル参加がどれほど大変なものかわかるまい。参加費こそそう高いものではないが、しかしその先に待ち受けるのは膨大な参加希望者たちがしのぎを削る、抽選という名の厳しい生存競争! その倍膣はすさまじく、かるというだけでどれほどの幸運をはたいたのかも知れぬ。さらに待ち受けるのは発行物、確実に締切に間に合うように、寝食寸暇を惜しんで、心血を注ぎ、骨身と魂を削りつくして拵える、これぞ究極の一品! それが欲しい人の手元へと渡る瞬間の、死んでもいいとすら思える珠玉の喜び……ん、どうした」
泣いていた女性は、康臣が長々と喋っている間に、歩佳を盾にするように背後へと回っていた。てっきり終わりの見えぬ長広舌に震えあがって怯えているのか思いきや、もっと根本的な問題を抱えていたらしい。
「ご、ごめんなさい……私、男の人って苦手で……」
「え? でも確か腐女子っていうのは、ホモの恋愛が好きな人のことよね?」
「ホモとはちょっと違うのですけど……二次元は別なのです」
固く握りしめたこぶしの上げどころに困ったような顔をしていた康臣だったが、ごまかすことも諦めてそのままそっと下ろした。
「まあ、それを思い出せるだけ落ち着いたということだな。それより、犯人は全く見ていないんだな?」
「はい……ごめんなさい。私が駄目な腐女子なばっかりに……あなたみたいだったらよかったのに」
「ねー、そんなことより……え? あたし?」
自信なさそうに、けれど羨望のこもったまなざしで彼女が視線を注ぐ先には、歩佳の自慢の乳が、たゆんという擬音を立てそうな勢いでそこにあった。熱く見つめられてまんざらでもない気分に浸る歩佳とは対照的に、康臣は害虫の集団死骸でも見るような顔つきで吐き捨てた。
「そんなものに憧れを抱くのはやめておけ。時間の無駄だ」
「えー、でも、女子なら憧れるですよ。特に私は……洗濯板だから……」
「洗濯板だっていいだろう! 女子なんだから!」
思わぬ勢いに目をぱちくりとさせる女子二人を前に、滑ってしまった口を慌てて抑えて、わざとらしく咳払いをする康臣の頬は、恥ずかしげに赤く染まっていたが、まさしく女子ならぬ身ではかわいさなど微塵も見いだせない。
「……ともかく、隣のサークルに話を聞いてみよう。忙しくても姿を見ているはずだ。俺は三条。こっちは御処野」
「はあ? ちょっと」
「ヌルポです」
文句を言いかけた歩佳を遮るように、少しだけ顔を出した女性が軽く頭を下げた。それを聞いた康臣が、妙な声を出した。
「……がっ……」
「何よ?」
「確かに『ガッ』はうちのサークル名です。わかってくださって嬉しいのです」
先ほどよりもう少しだけ顔を出したヌルポは、歩佳の乳の影で微笑みすら見せた。一人だけ意味がわからないばかりか本来の目的から逸れていることに不満を蓄積させていた歩佳は、盛大に口をへの字に曲げた。