碑文・1
《クローネ・アイリス》
朝になった。
目覚めた魔獣の、怪我の調子はひとまず良好だった。
さっそくユーロがナイフを見せて、これについて何か知らないかと聞く。
『これは、僕があいつに投げたやつだよ! わざわざ拾ったの?』
クローネがそう伝えると、
「これはどこから持ってきたんだ?」
魔獣は首をひねる。何を質問されたのか考えているのだろう。
『これについて詳しくは知らないよ。ニンゲンの建物から拾ってきたものだから』
質問は通じていないはずなのに、ぴったりな答えだった。この子は賢い、とクローネは思う。
「人が……いるのか? それはどこだ?」
さすがにその質問は伝わらなかった。
ユーロが洞穴の外に向かったので、クローネも魔獣を抱き、外に出る。
昨日までの吹雪は嘘のように止んでいて、その余りに綺麗な景色と青空にクローネは驚く。
日光がそこらじゅうの白色に反射し、眩しささえ覚えた。
ユーロは薄紫のナイフを雪上に置く。
そして、それを指さしてから、今度は周囲のあらゆる方角をゆっくりと指さしていった。
それを見て、魔獣はすぐに意図に気づいたようだ。
『わかった。案内するよ』
◇
クローネには同じような景色が続いているだけにしか見えないが、胸に抱いた魔獣にとってはどうやら違うようだ。
何の変哲もないような木の側に来ては、ここは右、ここは左と指示を出し、てきぱきと雪の世界を案内してくれる。
「目印もないのによく覚えられるな。ここで生まれ育ったのか? えーと……魔獣くんは」
魔獣くんはないだろう。
「ねえ、名前は何ていうの?」
尋ねてみるが、首を傾げられる。それはそうか。伝わるわけがない。
そう思っていたら、思わぬ方向から
「ワタシしってるよ」
「えっ、ミナちゃんが? 何を?」
「そのまじゅうの名前。レフォル」
その瞬間、魔獣の耳がぴくっと反応した。
『それ、ニンゲンが僕達を呼ぶのに使ってた言葉だ』
「えっ、えっ?!」
やっぱり人間と関わりがあったのか。
しかし重要なのは、僕「達」と言ったことだ。つまり、その名前というのは。
「種族名……ということか」
クローネの翻訳を聞いて、ユーロが呟く。
そう。つまりそれは、クリッキーとか、レムードという名前と同じ。この子と同じ姿をした魔獣全体をレフォルと呼ぶ、ということだろう。
でも、だとするとやはり不思議なのは、ミナがその種族名を知っていた、という事実だ。
当然、クローネがこの魔獣を見たのは、この個体が初めてだ。おそらく『内側の世界』にはいない魔獣のはず。
そして、思えば、ミナはクリッキーやレムードのことも別の名前で呼んでいた。
つまり。
かつてユーロが推理したように、ミナは本当に、『外側の世界』の人間だったのか。
「そうじゃなくてさ、君自身の名前は何て言うんだ? たとえば、俺はユーロって言うんだ」
ユーロは自分自身を指さし、もう一度、ユーロ、という。
それに続くように、クローネ達も自分を指さし、名前を伝えた。
『それが、あなたたちを指す言葉?』
魔獣はその意味は把握したようだったが、続く言葉は期待した内容ではなかった。
『僕達は、そういう風に自分ひとりを指す言葉は持たないんだ。僕達には意味のないものだから』
「そういうものなの」
魔獣の生態はつくづく難しい。
とりあえずは種族名のレフォルという呼び方を使うことに決め、一行は先を急いだ。
◇
『ここだよ』
行軍の末にレフォルが連れてきてくれた場所には、確かに建物があった。
背後に崖がそびえる平坦な土地。そこに、まるで冗談のようにそれは立っていた。
よく考えれば、この大地に上陸して初めて目にした人工物、ということになる。
「何だ……これ。家、ではないよな」
ユーロの疑問に、クローネも首を傾げるしかなかった。
石造りのような、鉱石でできているような、不思議な質感の壁。
少なくとも四階建て以上ではあったと思われる巨大な構造。
しかし何よりわからないのは、その建物は大半が朽ち果て、建築物としての役割を成していないことだった。
すなわち、雨風を防ぐ機能も、外敵の侵入を防ぐ機能も、何一つ備わっていない。
何しろ、クローネ達の立っているこの前庭から、内側のほとんど全てが丸見えなのだ。
「壁しか残ってない、って感じだね」
その残った壁もほとんどが崩れ、瓦礫として下に積もっている。
内側には何らかの施設があったと見られるが、瓦礫と雪に埋もれ、見える物は何もない。
『あの部屋で拾ったんだ』
レフォルが前足で指す先には、見える範囲では唯一無事な、ちゃんと壁のある部屋が見えた。
「行こう」
ユーロが言って、周囲を見回しながら敷地に入っていく。
「人は、いるのでしょうか」
「これだけボロボロだし、ありえないでしょ? 何十年前なのって感じだよ」
リエルとフランも掛け合いをしながらユーロを追う。
その後に神妙な顔できょろきょろしているミナが続いて、クローネは最後尾になった。
「レフォルくん、君、何歳なの?」
問いかけるが、質問は通じず、首を傾げられる。
ここに人間が住んでいたのが何十年も前なら。
レフォルが人間と交流した時期は、いつなのか。
いや、もしかしたらここにいた人達は、どこか近くに移り住んだのかもしれない。そこでレフォルと交流しているのだろうか。
建物であった場所に入る。
入ると言っても、実際には壁の残骸をただ跨いだだけだが。
「何なんだろうな、この素材」
瓦礫をかき分けながらユーロが言う。確かに、ただの石に見えて、光沢も、手触りのすべすべさも、クローネの知っている素材とは異質だ。
「本当に瓦礫しかないね。何か線みたいなのが書いてる石もあるけど、意味不明」
「何かの図、だろうけど、細かく崩れ過ぎて解読できんな」
クローネも見せてもらったが、何か絵の一部のような気がするものの、たまたま瓦礫同士がこすれた傷だといわれればそんな気もしてしまう。
「こっちは階段かな? でも、二階がない」
壁自体は三階か四階くらいまでの高さが残っている個所もあるが、二階以上の床は全て抜けてしまっている。
階段も途中で崩れていて、登れそうにない。
他に見られる場所もないので、レフォルの示した部屋に向かう。
その部屋は他の部屋より頑丈なのか、それとも崖との位置関係のおかげなのか。唯一壁や天井が残存しており、比較的雪の浸食を受けていない。
それでもやはり至るところ壁が破損していて、裂け目から簡単に入ることができた。
中には瓦礫と雪と、そして、半透明で薄紫色の欠片が少しだけ散らばっている。
「これが、あのナイフの」
ユーロは例のナイフを取り出し、床に散らばった欠片と見比べた。
似ている。確実に、同じものだろう。
「どうユーロくん、何か光って見える物はある?」
「いや、このナイフも散らばってる欠片も、光ってはいないな」
「え? なんかすごく切れ味がいいんじゃなかった? 役に立たないの?」
「わからんが――ん? あっちに何かあるな」
周囲を見回していたユーロが、部屋の一角で視線を止める。
壁に同化して目立ちにくい場所に、何か台座のような物体が鎮座していた。
「これは台座……というか、石碑、か? 文字みたいなのが書いてあるけど、読めない」
見ると、四角に切り出された石のような硬い素材の上面に、文字のようなものが彫り込まれている。
石そのものが風化して、文字の一部が読めなくなっているが、それ以前に文字が残っている部分すらクローネには読むことができない。全く見たことのない、未知の体系の文字列だ。
「うーん、読めないね。リエルちゃんはわかる?」
「読めない、です」
「フランさんは?」
「んー全く」
「――アーティファクト・イレス・レ・ファウエル・セレネ・アーツ」
突然聞こえてきた、流暢な音列。
それは、石碑の文字列を読み上げるミナの声だった。
「ミナちゃん?」
読めている? この、意味の分からない文字列を?
「リエル」
ユーロが短く言うと、はっとしたようにリエルが口を開けた。
「つ、伝えます。アーティファクトとは」
ミナに遅れて、何かを唱えるように話し始めた。おそらくそれは、ミナの心の声。
「アーティファクトとは、アーツの具現化である」
◇
アーティファクトとは、アーツの具現化である。
アーツによって解放される法則領域の使用権限は、当該アーツを発動した個人のみに付与され、他者が使用することは本来的には不可能である。
しかし、例外的にアーツの痕跡が世界に残存する現象が複数例確認されており、これを活用することで他者も当該アーツの恩恵を受けることが可能となる。
単純な例では、特定のアーツを使用しなければ視認できない対象を、当該アーツの使用者が絵に描き起こした場合、他者もその絵を見ることで間接的に視認が可能となる。したがってこの絵はアーティファクトと呼ぶことができる。(これに類似する発生過程を経た有名なアーティファクトに「原理の石板」があるが、当該アーティファクトは非常に稀有な性質を持ち個別に語るべき事例であるため、別記する。)
当サンプル「アイギスの拒絶」は、偶発的にアーティファクトが生み出された顕著な例と言える。
これら紫色の薄膜は、本来単一のドーム状の防御壁であり、あらゆる物理的干渉を拒絶する非常に強力なアーツであったが、あらゆる物質・非物質を切断する同等に強力なアーツとの交戦の結果、破壊された。その際に使用者が死亡したことで、防御壁が破片となったまま世界に残存している。
他に現在までに発生したアーティファクトの例として、……(途中、風化により読み取れず)……これらと同等以上の有用性を持つアーティファクトを人工的に製造することが、我々の第一の目的となる。
……(以下、破損により読み取れず)




