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殺人とは、少なくとも私の了見においては、人間の犯し得る大悪の中でも増して大きい悪である。人の命を奪う事とは、その者のそれより後の人生を消し去る事であり、その者が係わる筈だった全ての人、命、事柄に影響を与えるという事である。あるいは、燦然とあった誰かの人生をも、知らず知らずの内に暗澹の中へと突き落とす事もある。何より、知恵と知能で成る人間が、同じ人間を殺めるなど、倫理的に許されるまい、というのが私の普段からの意見だ。
然るに、今。私の前に倒れる女の体が冷たく、首から赤い血を流している事、そして私の手に握られた包丁が朱色に染まっている事について、私は説明をしなければならない。ただし、それは警察や検察、あるいはマスメディアを通じた多数の人々に向けてのものではない。そもそも私はこの死体を完璧に隠匿する方法を知っているから、そのような方面へ向けての言葉などは元々必要ないのだ。すなわち、私がこれからする説明は、必然的に、私へと向けられたものである。だから、ここには弁解も釈明も含まれない。ただ私の、純粋たる殺人の所以があるのみである。
繰り返し述べるが、私は殺人に対して否定的である。だから、私は冷静にある時、たとえ殺意を抱いたとして、実行に移る事はない。また、かっと熱が入った時であっても、もしここで彼女を殺めたとして、その後我に降りかかる代償に比べればあまりに割りが合わない、と、そんな利己的な考えによって思い改めるであろう事は間違いない。私がそれでも彼女を殺めたのには、私が二日の徹夜を重ね、意識と無意識とが混じり合って論理立てて事を考えられなかったという点に一つの理由がある。ただし、私は私なりに自分を他人よりよほどまっとうな人間だと思っているし、また恐らくそうなのだから、いかに徹夜が続いていたとは言え、その行動の元となるべき事柄があまりにいいかげんだったり、あるいは支離滅裂であるという事もなかろうと思う。少なくともそう信ずる事ができないのなら、私は今頃自らの所業に呆れ果て、死体を隠して生き延びようなどとは考えまい。よって、これを読むべき後の私が今の私と違うとして、あれこれと思い悩んだとしても、そんな必要は一つとしてない事をここに記しおきたい。その場合、今の私と後の私とは違うのである。行動原理が異なるのだ。ただし同様にして、馬鹿だと嘆くのもやめよと述べおく。今の私にとって、私の行動は私の倫理観にもとる上で、決して馬鹿げた行動ではなかったのだ。
さて、本題に入らねばならないが、それよりも先にまずは私の身の上を書き連ねなければならない。私は、母一人の家庭に一人娘として生まれた。父は母が身ごもってすぐに事故で死んでしまったらしく、母は自殺をも考えたが思い留まり私を産むと、ひたすらに、それ以外の事はまるで存在しないかのように、命の大切さについて私に教えこんだ。肉を食べる時には、生命に感謝せよ。虫を虐殺する者は、奇異と非難の目で見つめよ。他人を尊び、自己を愛せよ。私はそのようないくつかの言葉の破片を、今でも思い出す事ができる。だが、その母も寄る病魔には勝てず、あっさり私が十七の時に他界した。私は父方の祖母に引き取られたが、父の記憶のない私はこの祖母に愛情を感じる事ができず、地方の大学を卒業すると共に東京へと独り立ちし、常ごろからの夢であった花屋の店員となって、小さなボロアパートを拠点として日々を送るようになった。 そんな頃に、私の勤める花屋へやってきた一人の客こそ、かの女だった。春に東京に来て初夏に至るまでの内に、私は大学で得た知識をもって花屋の店主たる老夫婦の信用を獲得しており、花の繁殖作業や選別作業なども私一人に任せてくれるようになっていたのだが、その選別作業を終えて一休みしようと店先に佇んでいた所を話しかけられたのだった。
「花を、買いにきました」
女は顔を上げた私に、至極当然な事を口にした。
「はい。どんな花をお探しでしょう?」
「まだ、決めていません。でもきっと買いますから、よければどんな花があるのか教えて下さい」
「かしこまりました」
私は快諾した。こういう、法事などの必要に迫られて買いにくるのでない客というのは、花が好きでここへ来たに違いないからと、私は仲間を見つけたような感覚であったと記憶している。だが、彼女の方は、
「こちらの花は、アデッサです。まだ蕾のものもいくつかありますし、何より多年草ですから長く楽しめると思いますよ」
といった調子で私が三,四花を紹介してみても、一応可愛いだとか綺麗だとか感想は述べるものの手は出さず、何か別のものを探しているようだった。
「何か、お探しの花の条件などはおありですか?」
私はそう、遠くの花壇を見る彼女の背中に声を掛けた。
「いえ……。ですが、あの花は綺麗ですね」
彼女はさっ、と奥の植木鉢を指差し、私を振り返ると、これまでのそれが愛想笑いだったのだとすぐに分かってしまうような満面の笑みを浮かべた。
「チューリップでございますね。ただ、チューリップは春咲きの花でして……」
チューリップを、私はあまり好んではいなかった。あまりに派手過ぎる色合いと下品にさえ見えるその花形がどうにも馴染まなかったからである。だが、無論私は店員であったから、彼女にチューリップの花の説明をした。晩春の花であり、夏場には向かない。来年を待とうと思うのなら、球根の方が良いでしょう。だが、私がそう説明しても、彼女は一向に意に介さない様子で、まるで娘でも見ているかのように、盛りを過ぎた赤のチューリップを見つめていた。そして終いには、
「おいくらですか?」
と訊いてきたので、私も諦めて、二百円です、と答えた。
「では、二つ、下さい」
彼女はそう言って、私にその頃でももうほとんど見なくなっていた旧五百円玉を手渡した。
「五百円、お預かり致しました。お釣りが百円になります」
私はポケットに手を入れて、手に当たった百円玉を取って彼女に手渡し、それから、
「領収書はご必要ですか?」
と尋ねた。
「いえ。構いません」
「かしこまりました」
彼女がすぐに答えたので、私は近くのレジからポリ袋を一枚取り、やっと慣れて良くなった手際で二つの赤いチューリップをその中へと入れた。
「お買い上げ、ありがとうございました」
そのまま袋を手渡し私がそう言うと、彼女はさっきの喜色そのままに、
「ありがとうございました」
と言い返して、小さく会釈までして去っていった。
これが、私と彼女との、出会いであった。