最後の誕生日
ショーウインドウに飾られたバッグに釣られ、私はブランド品を格安で売っている店に入った。
店頭のポップには「業界最安値」と太いゴシック体で書かれてある。業界、とはどんな業界のことを指すのかわからなかったし、比較のしようもないので安いのか高いのかも判断できない。入り口横のエレベーターの扉にチラシが張られてある。ディオールのハンドバッグが四万六千円だった。
客は私のほかに一組のカップルがいた。男のほうがショーケースの手前に並んでいるヴィトンの財布を指差す。呼ばれて近寄ってきた店員が財布を手に取り、男と同じ背丈の女に渡した。
女は白いダウンジャケットを着ていて、髪の長さが腰ぐらいまである。男は短髪で黒のロングコートを羽織っていた。コートのブランドはわからない。イタリア製かもしれないし、香港のコピー製かもしれない。背丈が同じだと思ったのは、女がヒールの高いブーツを履いていたからだ。
客は私たち以外にいないので、カップルと店員の声が聞こえてきた。ヒトミによく似合うよ、可愛いんじゃないかな、男はそんなことを言っていた。女のほうはやけに舌っ足らずで、なにを言っているのかよく聞き取れない。財布を持って嬉しそうに微笑んでいるのはわかる。義務教育の一環として男の媚び方を学んだような笑顔だった。
それを見て、私は男の前でああいった風に笑ったことはあったかなと考えた。私もあのように笑えれば、あの男は私の前から消えずにすんだのかもしれない。
今日は彼女の誕生日だろうか。私の誕生日は明日だ。
私はまた当てもなく通りを歩き始める。家に帰っても寝るだけだし、ただいまを言ってくれる人間もいない。いくら帰りが遅くなっても誰も知ったことではないのだ。
昨日電話で、友人のアツシが誕生日に会わないかと誘ってきた。なにかプレゼントするよと言っていたが、アツシは、私の欲しいものを買えるだろうか。私が欲しいのは、あの男のぬくもりと声だった。
あの男……ユウジは一年ほど前、私を置いてスペインのマジョルカへ行った。
三十歳を過ぎたというのに絵の勉強がしたいと会社を辞め、日本を飛び出したのだ。付き合って三年経ったときだった。私は成田へ見送りに行かなかった。一年ぐらいしたら日本に帰る、そしたら俺たち結婚しよう、ユウジはそんなことを言ったが、私は信じていない。もうすぐで一年なのに電話の一本もないし、メールも二ヶ月前からない。期待を抱かせるようなユウジの言葉を、私は許さなかった。
私と結婚するつもりがあるなら、どうして一緒に来ないかと言ってくれなかったのだろう。ユウジと一緒なら苦労も怖くなかったのに。私はあまり信用されていなかったのだろうか。
池袋の雑踏を一人で歩く二十八歳の女。ビルとビルの隙間から風が吹き、私はコートの襟を立てた。萎れかけた皮膚に鳥肌が立つ。口紅も塗り直したかったが、男と会うわけでもないので放っておいた。
たまにどうしようもなく寂しくなって、適当な男に私とめちゃくちゃにセックスしませんかと声を掛けたくなるときがある。だけど実行したことは一度もない。それができたらどんなに楽だろう。
信号待ちをしているとき、携帯電話が震えた。相手はアツシだった。電話はやけに騒がしい。居酒屋かどこかで仲間と飲んでいるんだなと思った。
ユミちゃんの誕生日、明日だねとアツシは言った。どうなの、明日会えるの、どうしてもお祝いしたいんだ。
わからない、用事ができるかもしれないし。電話を切ろうとすると、遅くなってもいいから電話をちょうだい、とアツシは言った。できたらねと曖昧な返事をして、私は電話を切った。
アツシは、ユウジが私を置いてマジョルカへ行ったことを知っている。早く別れて俺と付き合ってくれ。アツシは先週、そんなことを言った。別れたのかまだ付き合っているのか、誰にもわからない状態なの。私はそんな答えでお茶を濁した気がする。先週のことはあまり記憶にない。
西口公園を過ぎ、裏通りにある居酒屋の前を歩いていたら、男と女がなにやら言い争いをしていた。格安ブランド店にいたカップルとは別人だった。女は泣きながら意味不明なことを喚き、男も違うよとか嘘をつくなとか怒鳴り返している。女の隣にはもう一人の女がいる。きっと泣き喚く女の友人なのだろう、一緒になって男を非難している。
男は首にボアのあるレザージャケットを着ていて、泣いている女のダウンコートにもレザーが使われているようだ。友人の女もレザーパンツを履いている。今日はレザーを着て喧嘩しようとでも打ち合わせたのだろうか。居酒屋は運がいいことに定休日みたいで、シャッターが閉まっている。カップルはその前で言い争いをしていた。
他人の怒鳴り声はとても暴力的だ。街中でこういう風に怒鳴り声を聞くと誰でも歩くのを止める。当事者でもないのに、私も怒られているような気になってしまう。なぜ怒っているのかわからない人間を見るとこっちまで不愉快になる。あの三人は恥ずかしくないのだろうか。
適度な距離を置いてそれを眺めている野次馬たちに、私も加わった。カップルと友人の女は野次馬に気づかないほどヒートアップしている。髪を振り乱す女が男に突っかかる。友人の女は飛び跳ねながら金切り声で叫んでいる。やめて、じゃなく、殺せと聞こえた。殺せ、そんなろくでなし殺しちまえ。
女は、別れるなら金返せと男の胸倉を引っ張っては押し、引っ張っては押しを繰り返している。男は泣き顔になって、やめてくれよ、金はきちんと返すからさと、そんなことを言っている。どこから持ってきたのか、友人の女の右手にはビール瓶が握られていて、私の隣にいる野次馬の一人が、頭叩き割っちまえ、と呟いた。女は男の胸倉に顔を埋め、怪獣のような声で泣き始めた。
私はユウジにああやってすがったことなど一度もない。スペインに飛び立つ前、お願いだから行かないでと泣いてすがったら、ユウジはそれでも日本を出て行っただろうか。ユウジの意思はとても固かったように見えたし、私が泣きながら男にすがる姿を想像できなかったので、それはないだろうと、一人で結論付けた。
私は喧嘩しているカップルに背を向け、また歩き始めた。背後で、ガッシャーンというけたたましい金属音が響き、私は振り返った。居酒屋のシャッターの前に、金返せと泣いていた女が倒れている。シャッターの一部分がへこんでいた。頭にきた男が女を突き飛ばしたなと思った。友人の女が倒れている女に駆け寄り、立ち去ろうとする男の足元にビール瓶を投げつけた。男は飛び散る破片をひょいと避け、勝手にやってろレズビアンどもと捨て台詞を吐いて逃げた。
倒れた女は背中を丸めて大声で泣き、友人の女はなぜか尻を撫でながら泣いている女を慰めていた。野次馬が四方に散らばり帰っていく。私の横を通り過ぎた一人が、あいつらレズビアンなのかなと連れの男に話していた。二人の女の啜り泣きを後にして、私は歩き出した。
スペインへ行ってからも、ユウジはちょくちょく私にメールをくれた。マジョルカは気候が温暖でヨーロッパの人々が楽園と憧れている場所だ、どこそこのスペイン料理屋が美味い、中世のような石畳を歩いた、息をするだけで創作意欲が湧くなど、マジョルカでの生活のことを書いていた。
行きつけのバーを見つけたらしく、そこのマスターと奥さんの三人で撮った写真もメールで添付してくれた。マジョルカのサッカークラブで大久保という選手が活躍したので、日本人には親切なのだそうだ。
私は行きつけのバーとかお得意の店を知らない。新宿にしろ渋谷にしろ赤坂にしろ、女一人で気軽に食事できる場所は少ない。日本にはそういった場所がないんじゃないかと思う。バーに一人でいると決まって寂しい女に見られてしまう。ヨーロッパやスペインだとどうなのだろうか。外国人の女が一人でバーにいても違和感はない。残念ながら私はそうはいかない。なぜ日本人の女はみなどこか寂しいのだろう。
写真はユウジを中心にして、右にマスターらしき中年の太った男性、左に豊かな胸の中年女性が写っていた。三人は肩を組み合っていて、ヨーロッパの楽園に相応しい笑顔を浮かべていた。
きっとマジョルカには、財布を買ってもらおうと媚びたり、金返せと喚いたりする女などいないのだろう。それと、遠く離れた恋人をうじうじと想っている女も。離れてから一度も声を聞いていないが、メールの文面からでもユウジが活き活きとしているのは伝わってきた。
ユウジを忘れるため、私もなにか始めようとして色々と情報雑誌を買った。ピアノとかダンスとか生け花など、夢中になれそうなものならなんでもよかった。よさそうなスクールを見つけて電話で申し込もうとするのだけど、通話ボタンを押す前に私は受話器を置いた。どうにもやる気が湧かなかったのだ。
ユウジはこんなことを言っていた。やりたいことは見つけるんじゃない、いつの間にかやりたいと思っていることが本当にやりたいことなんだ。この歳になって初めてわかったよ。俺は幼稚園のころから絵が好きで、大人になっても絵は飽きなかった。飽きないっていうのが重要なんだ。三十過ぎて絵の勉強したいって言ったら同僚や上司に笑われたけど、俺はこれしかないと思った。伝票とにらめっこして安定した一生を送るよりも、貧乏でもいいから一日中絵を描いていたいんだ。遅いかもしれないけど、本当にやりたいことを見つけただけマシだし、なにかを始めるのに遅すぎるというのはないと思うんだ。ユミ、お前は笑わないよな。
私は結局、黙ってユウジをマジョルカへ行かせた。媚びて笑ったり、行かないでと泣いたり、私というものがいながらあなたって無責任ねと責めたりせず、勝手にすればと突き放したのだ。
たとえば私が必死になって引きとめようとしても、ユウジはそれを振り切って飛び立っただろう。行ってしまったのはいい、三十過ぎの男が新たなスタートを切るのはとても勇気のいることだと思う。私はそれを見守ることしかできない。
だけどたった一言、お前も一緒に来ないかと、そう言ってもらいたかった。
あの三人の写真に、私も加わっていたかもしれない。
待つ人間のことを、ユウジは考えなかったのだろうか。待つわ、私待つわ。そんな歌詞の歌謡曲が昔あった。大嘘だと私は思った。飛び立つ勇気よりも、待つ寂しさのほうが何倍もパワーを使うに決まっている。
別れてくれ。そう言ってくれれば私は楽になれたかもしれない。
私のやりたいことは一体なんなのだろう。ユウジがマジョルカへ行ってからはよくそんなことを考える。それはピアノでもダンスでも生け花でも、帰ってくる保証のない男を待ち続けることでもない。
同じところをぐるぐる回っているような気がして、私は腕時計を見る。十時を過ぎていて驚いた。八時過ぎに池袋に着いたから二時間ほどぶらぶら歩いていたことになる。どこをどうやって歩いていたのか覚えていない。なのに足はきちんと帰り道に向いていた。
右手のガソリンスタンドとコンビニのあるビルの間に、二足の靴が置いてあることに気づく。なんだろうと思って近づいてみると、ぼろぼろの毛布を掛けて寝ているホームレスの足だった。驚きと異臭で、私は短く悲鳴を上げた。それに反応してホームレスがむくりと起き上がった。
ホームレスは作業服のようなものの上にジャンパーを羽織っていて、左足が異様に腫れている。足の甲が山脈のように盛り上がっていて、きちんとスニーカーの紐を結べていない。痛むのか、唸りながら足をしきりにさすっている。脂で固まった前髪に覆われていて表情はわからないが、人間の皮膚とは思えなかった。全体的に茶色くて、所々皮膚が破れていて赤い肉が見えている。俺は社会に痛めつけられたんだと主張しているような傷つき方だった。
なぁ姉ちゃん、とホームレスが声を掛けてきた。タバコ持ってねぇか、ホープを吸いたいんだ俺は、短いやつじゃねぇぞ、長いやつだ、短いやつは臭くて吸えない、あれは人間が吸うタバコじゃねぇ、ところで姉ちゃんいい匂いしてるな。
私は怖くなって小走りで逃げた。背後で、おいこら姉ちゃんとホームレスの暴力的な怒鳴り声が聞こえてきた。逃げんじゃねぇ、人の話をよく聞けこのバカ女、後悔しても知らねぇぞ。
私は追われた銀行強盗のように慌てて鍵を開け、急いで部屋に入った。ドアに背中を預け、玄関にヘナヘナと座り込む。胸が激しく波打っている。あんなホームレスが近くにいるなんて。警察に通報すればなんとかしてくれるだろうか。
落ち着くまでしばらくそのままでいた。あと一時間ほどで私は二十九歳になる。アツシ以外、誰からも電話がなかった。ホームレスにまた会ってしまうからコンビニにも行けないし、ケーキもご飯も食べる気にはならなかった。シャワーを浴びてとっとと寝よう。そう思った。
髪を乾かして、ユニクロのフリースを寝巻きの上に着て、ニュースを観ながらビールを飲んでいると、すぐに時刻は零時近くになった。明日になって、また一年過ぎれば私は三十歳になる。二十歳になったときほどの感動はない。ユウジはたしかそんなことを言っていた。タバコを吸えるようになったり酒を飲めるようになったりといった開放感がない。三十歳ってつまらないよ。俺はタバコも酒も未成年からやっていたけどね。
私もとくに感慨も落胆もない。誕生日を祝う習慣はいつ誰が始めたのだろう。誕生日になればユウジから連絡があるという期待もしなくてすんだのに。
ユウジは日本にいたとき、私の誕生日である十二月十八日の午前零時きっかりに誕生日おめでとうと電話をかけてきた。ユウジがスペインへ行ってから、明日は初めての誕生日だ。
私はふと、あることを思いついた。あと十五分ほどで零時になる。もしそのときに電話が鳴らなかったら、私はきっちりユウジと別れよう。アツシにもそろそろ答えを示さなければならないと思っていた。アツシと付き合うのか、ユウジと別れるのか。今がはっきりさせる時なのかもしれない。私も待ち続けるのに疲れていたところだ。
男女が別れるには理由が必要だ。理由がないと人間は納得しない。恋人が海外に行ったというのもある意味理由になるだろうけど、ユウジは待っていてと言い、私は待つわともいやよとも言わず曖昧な状態だった。別れる決定的な理由とは思えなかったのだ。誕生日を忘れるというのは、別れる口実にぴったりな素材だろう。
テレビを消し、コードレスの子機をテーブルの上に置く。スペインからでは私の携帯に通じない。かけてくるならこっちの番号のはずだ。
もしかしたらアツシも零時に電話をかけてくるかもしれない。電話の相手がアツシだったら、私はどうするのだろう。すぐにアツシと付き合えるとは思えない。また少し待っててもらうことになるのだろうか。それか、両方とも電話をかけてこないパターンもある。その場合はあとで考えることにした。今はユウジからの電話に集中する。
壁の時計がチクタクチクタクと時を刻んでいる。一秒が永遠のように長くもあり、夏の思い出のように短くもある。
私は何度もため息をついた。情けないことに緊張している。どうせ電話なんてないよと諦めている自分と、まだわからないと僅かな可能性にすがっている自分がいる。早くどちらも消えてなくなれと思った。
壁を見上げ、秒針の行方を見つめる。長針と短針はほぼ一直線に並んでいる。秒針が六の文字を過ぎた。電話は静かなもので、私の胸だけが鳴り続けている。髪を掻き毟りたくなった。
そして、全ての針が十二の文字の上で止まった。耳を塞ぎたい気持ちで一杯だった。
そのまま何事もなく五分ほどが過ぎた。期待していた自分がバカみたいに思えてきた。やはりないかとソファーに背中を落としたとき、プルルルッ、プルルルッと子機のボタンが紫色に光った。
電話が……来た。
私はすぐに取らず、相手はどっちだろうとまず考えた。ユウジか、アツシか、それとも他の誰かか。男じゃなく女友達だったら、私はユウジと別れるよと言おうと思った。
受話器を握る。手が震えていてる。落ち着けと自分に言い聞かせる。耳に当て、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
応答はなかった。私はもう一度もしもしと言った。
「もしもし」
男の声がした。聞き覚えのある声だった。私は座ることも話すことも忘れ、立ったままだ。
第一声はなににしようか迷っていた。思いついたのは、今までなぜ連絡の一つも寄越さなかったのかと問い詰める言葉だった。泣きつくよりも、そっちのほうが私に合っている気がする。事実、嬉しさよりも怒りが勝っていた。
口を「今まで」の「い」の形に曲げたとき、突然インターホンが鳴った。私は小さく飛び上がった。鳴らしたのがガソリンスタンドにいたホームレスのような気がして、私は不安になった。電話の相手にちょっと待っててと断り、インターホンの受話器を取る。困ったことに足も震えている。もしホームレスだったらそのまま警察に通報しようと思った。
夜中にどちらさまですか。そう言って、返ってきた声を聞いて、全身の筋肉が硬直した。全く予想していなかった人物の声だった。すぐに筋肉は水で戻されたワカメのように弛緩する。
私はインターホンと電話の両方の受話器を落とし、玄関へ駆けた。もつれる指でチェーンと鍵を外しドアを開けると、目の前に携帯電話を耳に当てているユウジが立っていた。固まっている私をよそに、突然帰ってきた恋人は言った。
「零時六分、ちょっと過ぎちゃったな。ごめんな」
ユウジは髭の生やした顔を綻ばせた。頬が少しこけた気がする。横に大きなスーツケースが立っている。
「夜九時ごろ成田に着いて、メシ食ったりなんなりしてたら遅れちゃった。怒ってる?」
私の機嫌を伺うときの、目を大きくして語尾のイントネーションを上げる癖は相変わらずだった。ドアノブを握ったままで私は言った。
「どうして……」
声が震えている。なぜか首の後ろも痺れている。すまなそうに笑っているユウジの顔がぼやけているのに気づき、私は泣いていることを悟った。涙は止めようと思うほど溢れ出るものだった。
「どうして日本にいるの?」
親に会った迷子のような声の私とは反対に、ユウジの声ははきはきとよく通る。
「言っただろ俺、一年したら帰ってくるって。ちょっと早いクリスマス休暇だ。二日も居られなくてすぐに戻らなきゃならないんだけど。だからホテルも予約してない。泊めてくんない?」
またユウジの語尾が上がった。懐かしくて甘やかすのを抑え、ダメ、と私は言った。
「一年も待たせて、なにが泊めてよ。図々しいにもほどがあるよ。私がどんな気持ちで待っていたと思うの」
ユウジは、まいったなぁという顔になって頭を掻く。どの癖もスペインへ行く前と変わらない。一年なんて時は大したことじゃないかもしれないと思った。強がって睨み付けている私の顔の前に、真顔になったユウジは一枚の紙を差し出した。 JAL、という文字が見える。
「準備に一年は必要かなって思ったんだ。ちゃんとお前と住める環境を確保したし、スペイン語も大体覚えた。だから、あのとき言えなかったことを言おうと思う。俺はそのために帰ってきた。ユミ、俺と一緒にスペインへ行こう」
私はもう我慢の限界だった。涙と一緒に、胸に巣食っていた苦しみが流れ出た。もう待ち続ける日は終わったんだ。楽になって腰が砕けそうになる。私は涙を拭う。すぐに指がふやけた。
「……入りなよ、寒いでしょ」
「いいの?」
「いいも悪いもないでしょうよ。言いたいことがたくさんあるんだから。今日は寝かさない」
玄関に招き、靴を脱ぐ前、照れたようにユウジは言う。
「大したプレゼント、買ってないんだけど」
後ろ手で隠していた小さな花束を控えめに出す。船形のバスケットに小振りな黄色い花が咲いている。大きさなんか重要じゃなかった。一番欲しかったものは、もう貰えたんだから。
「ハッピーバースデー」
ユウジのはきはきした声が玄関にこだました。
私は久しぶりな笑顔を、ユウジに向けた。
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