第1話 知らない女の子に話しかけられないので、こっそり治した
東京都第六十三号ダンジョン
状態:新規発生
指定区域:第1・第2階層を暫定一般開放区域に指定
推奨区分:初級探索区域
推奨ダンジョンランク:F〜E
第3階層:条件付き開放区域
第4階層以降:未確認
それが現在、ギルドから公開されている情報のすべてだった。
やはり、更新されていない。
三日前に最後の確認をしてから、ここへ来るまで画面を開かなかった。更新されていてほしい。そんな子供じみた願掛けをしていた。
後藤朔は大きく息を吐いた。
目の前には、第三階層へ続く階段がある。
「ダンコ、起動」
ピン。
聞き慣れた確認音がワイヤレスイヤホンから流れる。
「東京都第六十三号ダンジョンの第三階層に、ソロで進みたいんだけど、どう思う?」
「やめたほうがいいと思います。現在の条件では、第三階層への進入自体は可能ですが、保険適用外となります」
ダンジョンコンシェルジュAIのダンコが、朔のライセンス画面を表示した。
迷宮従事者ライセンス
名前:後藤 朔
年齢:19歳
職業:スカウト
迷宮職種:迷宮採取者
ライセンス等級:E級
予想していた答えだった。
もう少し曖昧な、あわよくば背中を押してくれるような答えを期待していたが、AIがそんなことを言ってくれるはずもない。
せっかくの休日。
弟の湊の誕生日まで、一か月を切っている。
誕生日まで、休みはあと何日あるだろう。
有給を取れば休みは増やせる。代わりに、皆勤手当の一万円が消える。
朔の勤める小さな町工場では、有給を使った月は皆勤扱いにならない。今どき珍しいというより、普通に厳しい。
六歳下の弟と二人で暮らす朔にとって、一万円は笑って諦められる額ではなかった。
「……なんか一匹くらい、上がってこないかな」
未練がましく階段を見下ろすと、ダンコが「その可能性は低いと――」と話し始めた。
「ダンコ、オフ」
説明が終わる前に黙らせる。
もちろん、魔物が都合よく一匹だけ上がってくる可能性など、ほとんどない。
わかっている。
わかっているのだが、素直に帰る気にもなれなかった。
一般開放区域で丸一日頑張ったところで、稼げるのは単発バイト一回分ほどだ。
多少の危険を冒してでも、下の階層で稼ぎたい。その気持ちは簡単には収まらない。
「ありえないよね。三階層は安全だって言ってたのに、あのDTuber、マジむかつく」
階段の下から声がした。
朔の肩がびくりと跳ねる。
人だ。
しかも、複数。
反射的に階段から離れ、少し先の曲がり角へ身を隠した。
「もう少しの我慢だからね、カンナ」
「ごめんね。私、魔力切れで回復できなくて」
「……大丈夫」
三人組だった。
物陰から、そっと様子をうかがう。
三人とも若い女性だ。髪も服も、装備まで見栄えがきちんとしている。
そのうち一人、カンナと呼ばれたポニーテールの戦士風の女性が、ショートヘアのレンジャー風の女性に肩を借りている。
左脚から血が流れていた。
肩を借りているとはいえ、痛みを庇いながら歩いているからか、その足取りはひどく頼りない。
苦痛に歪んだその顔を見ていられず、朔はたまらず顔を引っ込めた。
声をかけるべき状況だ。
さっきの会話では、ヒーラーの魔力が切れたと言っていた。
「大丈夫ですか」
たった一声、そう声をかければいい。
でも、知らない三人組。
しかも、女の子。
……無理だ。
話しかけるくらいなら、ワンランク上の魔物と戦うほうがまだ気楽だった。
でも――。
もう一度、恐る恐る顔を出す。
三人は階段からこちらへ向かって歩いてきていた。
もう少し。
もう少し近くまで来てくれれば――。
そう願っていたのだが。
「ごめん。大丈夫だけど、ちょっと休みたいかな」
カンナが無理に笑ってみせる。額には脂汗がにじんでいた。
残りの二人も足を止める。
朔は無言で天井を見上げた。
そこか……。
カンナまでの距離を目測する。
約十五メートル。
治療に八秒。
そのうえ、片道十五メートルを息を止めたまま往復する。
いけるか?
カンナは左の太腿を押さえ、顔を歪めていた。押さえた布はすでに赤く染まっている。
さすがに放っておけない。
「……よし」
小さく呟く。
声をかけるよりは、こっちのほうがまだましだ。
朔は何度か深呼吸して、覚悟を決めると肺いっぱいまで息を吸い込み、止める。
《無息隠形》
頭の中でスキル名を唱える。
念のため指で鼻を塞ぎ、三人へ向かって歩き出した。
息を止めている間だけ、自分の存在を他人の認識から外す。
便利ではある。
ただし、万能ではない。
すでにこちらを意識している相手には効きにくい。何より、息をした瞬間に効果が切れる。
一、二、三……。
頭の中で数える。
距離が縮まるほど、気づかれそうで落ち着かない。
それに、近くで見ると三人とも可愛い。
話しかけなくてよかった。
十、十一、十二。
到着。
誰も朔を見ていない。
よし。
カンナは傷口を押さえたまま、苦しそうに俯いている。
朔はその左脚へ手をかざした。
《無詠唱治癒》
十三、十四、十五……。
手のひらがじんわりと温かくなる。
発動している。
このスキルには、派手な光も音もない。傍目には、何をしているのかほとんどわからない。
十八、十九、二十。
――まだか?
八秒で済ませるつもりだった。
だが、傷が思ったより深い。
もう少しだけ。
朔はカンナの苦しそうな横顔を見た。
治療時間を、十三秒まで延ばす。
そう決めて、目を閉じた。
見ていると、余計なことを考えてしまう。
二十三、二十四、二十五。
胸が苦しくなってきた。
そろそろ限界だ。
治療を切り上げる。
傷の状態を確かめる余裕もなく、朔は来た道を引き返した。
二十六、二十七、二十八……。
まだいける。
二十九。
三十――。
無理。
肺が一気に酸素を求め始めた。
もう、数えている場合ではない。
走って死角へ滑り込む。
頬がフグのように膨らんでいた。
口から飛び出そうになる息を、両手で押さえる。
「……っふぅぅぅ……」
指の隙間から、できるだけゆっくり息を吐く。
ある程度吐き出したところで、今度は鼻から勢いよく空気を吸い込んだ。
生き返る。
そのまま何度か、音を殺して深呼吸した。
大丈夫。たぶん、気づかれていない。
確かめるために顔を出す勇気はなかった。
耳だけで状況を確認する。
「もう二階層だから、ほかの探索者もいるはず。回復を使える人、探してくるよ。ちょっと待ってて」
朔の顔から血の気が引いた。
まずい。
探しに来る。
考えるより早く、朔は踵を返した。
そして脱兎のごとく、その場から逃げ出した。
◇◇◇
「待って。痛みが急に……」
カンナは自分の左脚を見下ろした。
さっきまで、傷が脈打つたびにズキズキと痛んでいた。
それが今は。
「そんなわけないじゃん。強がらなくていいから。この階層なら私一人でも大丈夫だよ」
肩を貸してくれていた友人が眉をひそめる。強がっていると思われたらしい。
違う。
本当に痛くない。
「いや、本当に……さっき、なんか温かくなって」
「温かく?」
カンナは太腿を押さえていた手を、ゆっくりと離した。
血で真っ赤になった当て布を、恐る恐る剥がす。
四本の爪痕。
魔物に引き裂かれ、ズボンまで破れている。
そのはずだった。
「……え?」
血が出ていない。
カンナは何度か瞬きをした。
当て布で傷の周りをそっと拭う。
乾きかけた血が取れていく。
その下にあったはずの傷が、閉じていた。
「傷が……閉じてる」
その言葉を聞いて、二人もカンナの脚を覗き込んだ。
三人揃って目を丸くする。
答えを探すように、互いの顔を見合わせた。
「ねえ、これって、もしかしてあれじゃない?」
ヒーラーの友人が口にした瞬間、カンナにも心当たりが浮かんだ。
まさか。
「もしかして……一般開放区の妖精ってやつ?」
「絶対そうだよ、これ! ねえ、カメラ回してた!?」
「さすがに、カンナが大変なときにカメラは回せないよ」
ヒーラーの友人が苦笑して、ちらりとカンナを見る。
「そりゃそうだよね。ごめん、ごめん。ちょっと興奮しちゃって。でもよかった、ほんと」
肩を貸してくれていた友人が笑った。
その笑顔を見て、カンナもようやく助かったのだと実感した。
自然と笑みがこみ上げてくる。
「ほんとにね」
三人で顔を見合わせて笑った。
一般開放区の妖精。
初級探索区域で負傷した探索者が、いつの間にか治療されている。姿を見た者はいない。気づけば、傷だけが治っている。
最近、探索者の間で噂になっている都市伝説だ。
カンナも動画の切り抜きで何度か見たことがあったが、まったく信じていなかった。
どうせ誰かが再生数欲しさに作った話だと思っていた。
それなのに。
自分が、その信じてもいなかったものに助けられてしまった。
「なんか……変な感じ」
「ん? 何?」
「ううん。なんでもない」
立ち上がってみる。
痛くない。
普通に歩ける。
先に歩き始めた二人の背中を見ながら、カンナはもう一度、自分の太腿へ目を落とした。
そして、閉じた傷跡をそっと指でなぞる。
誰にも聞こえないほどの小さな声で。
「ありがとう、妖精さん」




