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1期

EPISODE 01

辞表と研究所と、ゼロの烙印


王都ルーニアの宮廷魔術師団本部——大理石と魔導灯の光があふれる廊下を、レオ・マルスフィールドは一枚の封筒を手に歩いていた。二十三歳。黒髪に眼鏡、細身の体格。顔立ちは悪くないはずだが、宮廷内では「雑用係」という肩書きのせいで誰にも注目されない存在だった。


「マルスフィールド、また測定器の数値がゼロだぞ。補充魔力の計算も頼む」


 廊下の角から声をかけてきたのは魔術師団副団長のボルク・ヘインズ——五十がらみの腹の出た男で、宮廷において権威と怠慢を両立させていることで有名だった。レオは静かに頷き、封筒を差し出した。


「辞表です」


 ボルクは目を丸くした。レオは続ける。


「三年間、測定のたびにゼロと言われました。魔力がないなら、魔術師団にいる必要はないと判断しました。本日付けで退職いたします」


 廊下に沈黙が広がった。レオは振り返らず、そのまま歩き続ける。


* * *

 王都の外れ、旧市街の一角に小さな石造りの建物がある。かつては薬草商が使っていた倉庫で、今は「マルスフィールド魔術研究所」という看板が出ていた。レオが自力で磨き、自力で設置したそれは、宮廷の金看板とは似ても似つかない手作り感があったが、本人は気に入っていた。


「静かでいい。誰にも邪魔されない」


 机に向かい、研究ノートを広げる。レオの研究テーマは「魔力量の測定限界と精度誤差」——宮廷では誰も関心を持たなかった地味な分野だ。だが彼は確信していた。あの測定器は、ある一定の値を超えた魔力を計測できないのだと。


 外から小石が窓を叩く音がした。レオが顔を上げると、窓の外に銀髪の女性が立っていた。宮廷魔術師団の制服姿で、その胸には「筆頭魔術師」を示す金の徽章がある。シャルロット・フォン・エルデン、二十二歳——宮廷最高位の実力者だ。


「開けてください。私も辞表を出してきました」


 レオは眼鏡を押し上げた。「……なぜ」


「あなたが面白そうだからです」とシャルロットは当然のように言った。「三年間、あなたの魔力を測り続けたのは私です。あの測定器の針が毎回振り切れていたのを、私だけが知っています」


 レオは長い沈黙の後、ため息をついた。「……お茶くらいしか出せませんが」


「結構です」と彼女は微笑んだ。「それより、一番広い部屋を私の研究室にさせてください」


 こうして、マルスフィールド魔術研究所の第一号研究員が決まった。


────────────────────────────────────────


EPISODE 02

筆頭魔術師の引越し(と思わぬ事故)ラッキースケベ


翌日、シャルロットは大量の荷物と共に研究所に現れた。魔術書が詰まった木箱、実験器具のケース、そして巨大なトランク。レオが玄関で呆然としていると、彼女はてきぱきと指示を飛ばしてくる。


「この棚は私の書籍用です。この角の机を実験台にします。あ、ここに蒸留器を置きたいので棚を少しずらしてください」


「……ここ、私の研究所なんですが」


「共同研究所です。今日からそうなりました」


 反論が追いつかないまま、レオは荷物運びを手伝うはめになった。問題は三時間後に起きた。二階の本棚に魔術書を並べていたシャルロットが、踏み台の端でバランスを崩したのだ。


「きゃっ——」


 レオが咄嗟に受け止めようとして、二人して床に倒れ込んだ。気づけばシャルロットがレオの上に覆いかぶさる形で、互いの顔が至近距離にある。銀色の髪が頬にかかり、甘い香りが鼻先をかすめた。シャルロットの紫の瞳が、驚いたように大きく開く。


「……あ」


「……す、すみません」


 レオが慌てて身体を起こそうとした瞬間、手が彼女の胸元に触れた——というか、彼女の制服の飾りボタンが手の甲に引っかかり、レオの手ごと胸の前に引き寄せられる形になった。柔らかい感触が手に伝わる。


「――――!」


 シャルロットの顔が見る見る赤くなる。レオは石になった。


「ち、違います、ボタンが——」


「……わかっています。故意ではないと理解はしています」とシャルロットは極めて冷静な声で言いながら、顔は依然として赤かった。「ただ、このことは研究所の機密事項として扱っていただけますか」


「も、もちろんです……」


 二人はしばらく無言で荷物の整理を再開した。夕方、シャルロットが湯を沸かしながら独り言のように言った。


「……あなた、宮廷の誰より反応が速い。魔力の片鱗を少し見せていただきましたよ、マルスフィールド」


 レオはお茶を飲みながら窓の外を見た。「シャルロットさんこそ、転んでも魔法で浮けばよかったんじゃないですか」


「……それを言わないでください」と彼女は小さく唇を尖らせた。「緊張して魔法が出なかったのです。あなたのせいで」


 研究所の夜は、静かだが妙に賑やかになっていた。


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EPISODE 03

属性魔術の天才、乱入する


研究所に看板を出して一週間が経った頃、玄関扉が激しく叩かれた。


「マルスフィールド! いる? シャルも一緒にいる?」


 ドアを開けると、そこに緑色の髪を二つに結んだ小柄な女性が立っていた。エメラルド・クロス、二十歳。宮廷魔術師団の中でも「六属性すべてを同時操作できる」と言われる天才魔術師で、年齢に不似合いな実力を持つ。宮廷では「緑の彗星」と呼ばれていた。


「……どうしてここが」


「シャルの転居届の住所を管理部で見た」とエメラルドは悪びれなく言って、ずかずかと入ってきた。「私も辞めてきた。副団長に書類を叩きつけてきた。受け取る前に逃げたけど」


「受け取らせてください」とレオは言った。


「まあいいじゃん。それよりここが私の新しい職場ね。研究テーマは属性干渉の理論的統一——あ、この机使っていい?」


 シャルロットが奥から顔を出した。「エメラルド、あなたまで」


「シャルが移ったなら私もってなるでしょ。あなたが宮廷で一番賢い人だし」


「……褒めても部屋数は増えません」


「えー、三人で研究所できるじゃん。賑やかでいいって」


 レオは天井を見上げた。静かな研究生活の予定が、急速に崩れていく。しかしエメラルドが次に言った言葉は、彼の思考を別方向に引っ張った。


「ねえレオ、あなたの魔力を一度見せてほしいな。属性干渉の計測に使えると思って。私の感知魔法で計ったら……値が出なかったんだよね。測定器と同じように」


 レオは少し考えてから、右手に意識を集中させた。何も起きていないように見えたが——エメラルドの目が大きく見開かれ、シャルロットが息を呑んだ。


「……これ」とエメラルドが囁いた。「六属性が全部同時に、しかも干渉ゼロで存在してる。私が見たことない状態だ」


「測定器が振り切れるはずよ」とシャルロットが静かに言った。「どの属性でもなく、全属性を内包している。測定の前提が違うの」


 レオは首を傾げた。「私にはよくわかりませんが、それって普通じゃないんですか?」


 二人の女性が同時に深いため息をついた。


「「全然普通じゃない」」


 研究所の研究テーマが、密かに追加された。


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EPISODE 04

封印魔法の権威と、地下室の発見ラッキースケベ


研究所に三人目の来訪者が現れたのは、エメラルドが来てから四日後のことだった。


 フローレンス・ベルクマン、二十一歳。栗色の長い髪を後ろで一本に束ね、分厚い眼鏡をかけた落ち着いた女性——宮廷では封印魔法の第一人者として知られ、古代遺跡の封印解除に何度も関わっている。「氷の学者」という二つ名を持つが、実際に会うと静かで几帳面なだけで、別に冷たくはない。


「失礼します。マルスフィールド魔術研究所ですね」と彼女は丁寧に言った。「フローレンス・ベルクマン。本日付けで宮廷を辞しました。雇っていただけますか」


「なぜ辞めたんですか」とレオは尋ねた。


「団長が私の封印研究の予算を削って、宴会費用に充てました」


 沈黙。


「それは……辞めますよね」


「はい」とフローレンスは静かに頷いた。「あと、ここに来た理由がもう一つあります。この建物の地下に古代の封印があります。私の感知に引っかかりました」


 レオは耳を疑った。「地下室など存在しないはずですが」


「壁の中にあります。薬草商が塞いだと思われます。一緒に確認していいですか」


 四人で地下を調べることになった。フローレンスが壁面に手を当て、封印解除の術式を唱えると、石壁の一部がゆっくりと横にスライドした。その先に石段が続いていた。


 全員が降りていく中、レオが最後に足を踏み出した瞬間、踏み台代わりにしていた木箱が崩れた。バランスを崩したレオが転倒し、先頭を歩いていたフローレンスに後ろからぶつかる。彼女の眼鏡が飛んで、二人が地下室の床に倒れ込んだ。


「ご、ごめんなさい——」


 しかし問題は眼鏡だけではなかった。転んだ拍子にフローレンスの髪留めが外れ、長い栗色の髪がレオの顔にふわりとかかる。同時に彼の手が彼女のウエスト付近にまわる形になっていた。フローレンスが凍りついた。


「……マルスフィールドさん」


「はい……」


「手が、ウエストに」


「あ——はい——今すぐ——」


 奥でエメラルドがライトを手に呑気に言った。「あー、地下室に古代魔法陣があるよ! すごい! 二人は早く来て!」


 シャルロットがため息をついた。「エメラルド、少し待ちなさい」


 フローレンスは眼鏡をかけ直し、顔を赤くしたまま立ち上がった。「……なかったことにします。研究に集中しましょう」


 地下室には確かに古代の魔法陣があった。フローレンスが魔眼で読み取ると、それは千年前の封印魔法——解読できれば魔術史上最大の発見になるかもしれない。


「……これが研究できるなら」とフローレンスが呟いた。「私、ここで正解でした」


 レオは魔法陣を眺めながら頷いた。静かな研究所の予定は、もはや完全に過去のものになっていた。


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EPISODE 05

地下魔法陣の謎と、最初の実験


地下室の魔法陣の解読が始まった。フローレンスが一つ一つの紋様を記録し、シャルロットが魔力との干渉パターンを分析し、エメラルドが属性反応を計測する。レオはその全工程を記録しながら、独自の視点で観察を続けた。


「この紋様、属性分類じゃなくて……魔力の質を区別しているように見える」とレオが言った。


 三人が手を止めた。フローレンスが眼鏡を押し上げた。「質、ですか」


「量でも種類でもなく、魔力の流れ方のパターン。六属性全部が混在していても、干渉しない流れ方が存在するとしたら——この陣はそれを誘導する設計じゃないでしょうか」


 沈黙。そしてシャルロットが静かに言った。「……それ、あなた自身の魔力の構造と一致しているわね」


 全員の視線がレオに集まった。レオ本人が一番驚いた顔をしている。


「私の魔力が、この設計の前提になっている?」


「可能性の話ですが」とフローレンスが慎重に言った。「この魔法陣が誰かの魔力に呼応して構築されているとしたら……設計者の意図を探る価値があります」


 エメラルドが天井を見上げた。「つまりレオ、あなたはこの陣のキーなのかもしれない」


 レオは研究ノートを閉じた。「大げさに聞こえますね」


「全然大げさじゃないけどな」とエメラルドは言った。「ね、試しに魔力を陣に流してみて」


 反対意見が出る前に、レオは右手を陣に触れさせた。すると地下室全体が淡い光に包まれ、壁に隠れていた別の紋様が浮かび上がった。フローレンスが息を呑む。シャルロットが目を細める。エメラルドが「やっぱり!」と叫ぶ。


 光の中に、文字が映し出された。古代語で書かれた一文——フローレンスが翻訳する。


「『汝、全を抱く者よ。世界の均衡を守るために来たれ』……」


 地下室がまた静かになった。全員の視線がレオに向く。


「……まあ」とレオは言った。「引き続き研究しましょう」


 三人が同時に吹き出した。


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EPISODE 06

王立魔術師試験と、不本意な再会


研究所に届いた一通の公文書——王立魔術師評議会からの召喚状だった。内容は「マルスフィールド魔術研究所は未登録の民間魔術機関であり、登録試験を受けること」というものだ。


「面倒ですね」とレオは言った。


「無視すれば強制閉鎖されます」とシャルロットが言った。「受けましょう」


 試験会場は王都中央の評議会ホール。四人がそこに出向くと、試験官席に座っていたのはレオの見知った顔だった。宮廷魔術師団副団長のボルク・ヘインズ——つまり、レオに雑用を押しつけていた張本人だ。


「ほう、マルスフィールドか」とボルクは嫌みな笑みを浮かべた。「雑用係が研究所とは大きく出たものだ。ついでにシャルロット卿とクロス卿とベルクマン卿まで連れてとは。笑えない冗談だな」


「試験を受けに来ました」とレオは淡々と答えた。「手続きを進めてください」


「まあいい。試験内容は三つ。魔力測定、魔術実演、口頭審査だ。まず測定から——」ボルクは古い測定器を取り出した。


 レオが手をかざすと、測定器の針が勢いよく振り切れ、「ぱきん」という音と共に計測盤にひびが入った。


 会場が静まりかえる。


「……次」とレオは言った。


 魔術実演では、レオが床の一点に集中して六属性の魔力を同時に静止させ、半透明の光球を生成した。エメラルドが「私より精密だ……」と呟き、シャルロットが微かに目を細める。フローレンスは記録用のノートにひっきりなしに書き込んでいた。


 口頭審査でボルクが問いかける。「研究目的は?」


「魔力測定の限界と精度誤差の研究、および地下封印魔法陣の解読です」


「……地下封印?」ボルクが眉をひそめた。「そんなものが存在するのか」


「はい」とレオはさらりと言った。「宮廷が三十年気づかなかったものが、私たちの研究所の地下にあります」


 審査は通過した。帰り道、エメラルドが笑いながら言った。「ボルクの顔、最高だったね」


「それより」とレオは言った。「登録が済んだので研究を続けましょう」


 三人はまた顔を見合わせて笑った。レオだけが真剣な顔でノートを開いていた。


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EPISODE 07

温泉宿の資料調査と、混浴の誤算ラッキースケベ


古代魔法陣の解読に必要な資料が、王都から馬車で半日の距離にある温泉街の図書館に保管されているとフローレンスが突き止めた。四人での調査旅行が決まる。


 宿は温泉付きの古い宿屋。チェックインを済ませると、宿主がにこやかに言った。「本日は貸し切りのご予約が一組のみですので、大浴場はご自由にどうぞ。男女別の時間割はございませんで、なんせ小さい宿ですから」


 四人は顔を見合わせた。シャルロットが代表して「……わかりました」と答えた。


 レオは夕食後に一人で浴場に向かった。夜遅い時間を選べば誰もいないだろうという判断だ。湯に肩まで浸かり、ようやく一息ついた——その瞬間、脱衣所の扉が開く音がした。


「あれ……もしかしてレオ、まだいた?」


 エメラルドだった。すでに湯に入る気満々の状態で、薄暗い浴場でレオの存在に気づくのが遅れたらしい。視界が合った瞬間、双方が固まった。


「で、出ます——」


「ま、待って! 私が出るから——」


 二人が同時に動いたせいで、エメラルドが浴場の石段で滑り、レオが反射的に腕を掴んで引き止めた。が、引き止めた勢いで今度はレオが引っ張られ、エメラルドを抱えた状態でざぶんと湯の中に。


「ぷはっ——!」とエメラルドが湯の中から顔を出した。「い、今の、見た?」


「見ていません」とレオは即座に答えた。「目をつぶっていました」


「うそ」


「本当です。魔力で感知した」


「それ見てるのと変わらない!!」


 脱衣所の引き戸の向こうでシャルロットの声がした。「……中の状況が会話から概ね想像できますが、よろしいですか」


 フローレンスが小さく「……お騒がせします」と言っている声も聞こえた。


 翌日、図書館での資料調査は驚くほど順調だった。全員が昨夜のことを一言も触れなかったが、エメラルドだけがレオのそばで「絶対覚えてるでしょ」とずっと囁いていた。


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EPISODE 08

古代語の詩と、泣けない夜感動回


温泉街の図書館で見つかった資料の中に、一冊の詩集があった。タイトルは「均衡の歌」——千年前の古代語で書かれたもので、地下の魔法陣と同じ時代のものと思われる。フローレンスが夜を徹して翻訳した。


 翌朝、四人が宿の食卓に集まると、フローレンスが翻訳ノートを開いた。読み上げる声が、微かに揺れていた。


「『誰にも測れない者があった。量を問う器では、その深さを知ることができない。だから彼は長く誤解された。ゼロではなく、無限であったのに』」


 誰も声を出さなかった。


「続きがあります」とフローレンスが言った。「『彼は笑われながらも諦めなかった。傍らに集まる者たちが気づいた——この人の魔力は、器を壊すほどのものだと。その日、彼らは共に歩みはじめた』」


 しばらくの沈黙。エメラルドが窓の外を見た。シャルロットがお茶を一口飲んだ。フローレンスがそっとノートを閉じた。


「……これ、千年前の話ですよね」とレオが言った。


「そう。千年前の話です」とシャルロットが静かに答えた。


 またしばらく黙ってから、エメラルドがぽつりと言った。「ねえレオ。あなた、宮廷でずっと『ゼロ』って言われてたじゃん。三年間、雑用しながら、どんな気持ちだったの?」


 レオは少し考えた。「……悔しくなかったといえば嘘です。でも、測定器が間違っているとは確信していました。だから記録を続けました」


「一人で?」


「一人で」


 エメラルドが「うん」と小さく頷いた。シャルロットが視線をテーブルに落とした。フローレンスが眼鏡のレンズを拭いた——少し濡れていたのかもしれない。


「詩の人と似てるね」とエメラルドが言った。「千年後も同じ話があるなんて」


「まあ」とレオは言った。「今は一人じゃないですから、少しましですね」


 誰も答えなかったが、誰も否定もしなかった。朝の光が窓から差し込んで、テーブルの上の詩集を照らしていた。


 フローレンスが「帰ったら続きを解読します」と言って、ノートを大切そうに鞄に入れた。その横でエメラルドがそっと目を拭っていた。シャルロットは「出発の支度をしましょう」とだけ言ったが、その声はいつもより穏やかだった。


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EPISODE 09

四人目の客人と、研究室の騒乱


旅から戻って数日後、研究所の玄関に新たな来訪者が現れた。


 イリス・ノワール、二十歳。黒髪に赤い目、端正な顔立ちと儚げな雰囲気を持つ女性で、宮廷では「記憶魔法」の専門家として知られていた。物事を一度見れば忘れない絶対記憶と、他者の記憶を読み取る術式を持つ——が、その能力ゆえに宮廷内では「気持ち悪い」と遠巻きにされていたらしい。


「マルスフィールドさん、ですか」とイリスは扉の前で小さな声で言った。「……こちらに来たいと思っているのですが、迷惑でしょうか」


「なぜ辞めてきたんですか」とレオはまず確認した。


「……私の研究予算も削られました。あと、私が記憶を読む人間だと怖がられていて、実験対象になりたがる人がいなくなりました」


 レオは頷いた。「いつから来られますか」


 イリスが目を丸くした。「……今日から、でもいいですか」


「構いません」


 奥からシャルロットが声をかけた。「イリスさん、三階の左の部屋を使っていいです。私が片付けておきました」


「え、なぜ知って——」


「来ると思っていたから」とシャルロットは涼しい顔で言った。「あなたの宮廷での扱いは知っていましたし、あなたが一番正確にレオの魔力構造を分析できると判断したので」


 イリスはしばらく固まってから「……ありがとうございます」と小さく言った。


 その日の夕方、実験室でさっそく問題が起きた。エメラルドが新しい属性実験を始め、誤って風属性の魔力を室内に充満させた。棚の書類が全部吹き飛び、フローレンスの翻訳ノートが舞い上がる。シャルロットが水魔法で鎮めようとして、今度は机の上の実験器具が水浸しになる。


 レオは魔力を一点に収束させ、室内の乱れた魔力を静かに吸収した。書類が床に落ち、水が蒸発し、静寂が戻る。


 全員が呆然とする中、イリスだけが淡々とメモをとっていた。「……全属性の乱れを均す。研究ノートに記録していいですか」


「どうぞ」とレオは言った。「ちなみにこういう騒動は日常ですか?」


「本日は特にひどいです」とシャルロットが答えた。


「否定できない……」とエメラルドが床に広がった書類を拾い集めながら言った。


 イリスが少し笑った——研究所に来て初めての笑顔だった。


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EPISODE 10

イリスの記憶と、消えた三年間


イリスが研究所に加わって二週間が経った頃、彼女が地下の魔法陣を調べていて発見したことがあると言ってきた。


「この陣の記憶読取を行いました」とイリスは全員を前にして言った。「魔法陣にも記憶が宿ります。最後に術者が触れた記録——それを読み取ると、約三年前に誰かがこの陣を活性化させていました」


「三年前」とフローレンスが繰り返した。「それはレオさんが宮廷に入った頃では」


「はい」とイリスは頷いた。「術者はここにいます。マルスフィールドさん、あなたは三年前に眠っている間、この場所に来たことがありませんか」


 レオは考え込んだ。「……三年前。就職前の夜に、この街を通ったことがあります。宿泊した場所は覚えていませんが」


「この建物が宿屋だった頃です」とイリスは言った。「あなたは眠りながらここに来て、地下の陣を一度だけ完全に起動させた。その後、自分の意識でその記憶を封じた——私が感じるのは、自分で扉を閉じた記憶です」


 沈黙。


「私が封じた?」とレオは言った。「なぜ」


「それはまだ読めません」とイリスは静かに言った。「でも、自分を守るためではないと思います。陣を守るために封じた——そういう意志を感じました」


 エメラルドが腕を組んだ。「千年前の陣がレオを待ってて、レオが三年前に一度だけ起こして、また眠らせた。で今は僕たちが解読してる。なんか……すごい話だな」


「順を追って解明していきましょう」とシャルロットが言った。「イリス、引き続き記憶の詳細を掘り下げてもらえる?」


「はい」とイリスは答えた。「でも……これを全部話したのは、私が研究所の皆さんを信頼しているからです。宮廷にいた頃は、こういう話を誰にもできなかった」


 言ってから、少し顔を赤くした。「……生意気でしたか」


「いいえ」とレオは言った。「ありがとうございます。引き続き、よろしくお願いします」


 イリスが微笑んだ。それは今度は少し長く続いた。


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EPISODE 11

シャルロットの過去と、秘密の夜感動回


ある夜、レオが遅くまで研究ノートを書いていると、一階の台所に人の気配がした。降りていくとシャルロットがひとり、カップを手に窓の外を見ていた。宮廷の制服ではなく、薄いグレーのガウン姿。銀髪が下ろされている——普段とまったく違う、柔らかい印象だった。


「眠れないんですか」とレオは声をかけた。


「……少し」とシャルロットは答えた。「座りますか」


 二人で台所のテーブルを挟んで座った。シャルロットがお茶を一杯淹れてくれた。しばらく沈黙が続いてから、彼女がぽつりと言った。


「私、十四歳で宮廷に入ったんです」


「知っています。若くして筆頭魔術師に」


「若くして、というのは聞こえはいいですが」とシャルロットは静かに言った。「家族から宮廷に売られたようなものです。貴族の体裁を保つために、魔力が高い娘を差し出した。研究がしたいという気持ちはずっとあったけれど、宮廷では国家の道具として扱われていた」


 レオは何も言わなかった。言うべき言葉が見当たらなかった。


「あなたが辞表を出した日」とシャルロットは続けた。「私はあなたを追いかけようとしたとき、初めて自分の足で宮廷の外に出る選択をしたんです。誰かのためじゃなく、自分がしたいことをするために。それが……二十二歳になって初めてだった」


 窓の外に星が出ていた。


「後悔はないですか」とレオは聞いた。「ここに来て」


「まったく」とシャルロットは即座に答えた。そして少し笑った。「毎日騒がしくて、実験は爆発するし、フローレンスは地下に籠もるし、エメラルドは暴走するし、イリスは静かすぎるし——でも、それが全部楽しい。生まれて初めて思う通りに研究できている」


「よかった」とレオは言った。


「……あなたは?」とシャルロットが尋ねた。「三年間、一人で雑用をしながら記録を続けて、後悔はない?」


 レオは窓の外の星を見た。「今の方がずっといいです。一人より、うるさい方が研究は進む気がします」


 シャルロットが少しの間だけ俯いて、それからまた窓を見た。「……そうね。うるさくしてごめんなさい」


「謝らなくていいです」


 お茶の湯気がゆっくり消えて、台所に静けさが戻ってきた。二人はしばらくそのまま、星と沈黙を共有していた。


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EPISODE 12

魔法陣、初起動——そして前半の終幕ラッキースケベ


フローレンスの封印解読、イリスの記憶読取、シャルロットの魔力分析、エメラルドの属性計測——すべてのデータが揃った。地下の魔法陣を安全に起動できる条件が整ったと、フローレンスが報告した。


「本日、完全起動を試みます」と彼女は言った。「レオさんの魔力をキーに使います。全員で補助を」


 全員が地下に集まった。魔法陣の中央に立つレオを、四人が四方を囲む形で位置についた。シャルロットが防護術式を展開し、エメラルドが属性安定化を行い、フローレンスが封印の順序を誘導し、イリスが陣の記憶を読んで状態確認をする。


「はじめます」とフローレンスが言った。


 レオが魔力を陣に流し込んだ。地下室が光り始める。紋様が順番に輝き、壁の石が震える。光が激しくなった瞬間——


「エメラルド、安定化を!」とシャルロットが叫んだ。


「やってる! でも六属性同時は限界——」


 陣が一瞬、不安定な共鳴を起こした。レオが反射的に四方に向けて魔力を放出し、四人の術式を安定させる。しかしその衝撃で全員がよろめいた。シャルロットがバランスを崩し、レオの方向に倒れ込む。レオが支えようと腕を伸ばした結果——シャルロットの顔がレオの胸に、レオの腕が彼女の背にまわる形になった。至近距離で銀髪が広がる。


「……またですか」とシャルロットが顔を上げずに呟いた。


「……陣が安定してから動きます」とレオも動かずに答えた。


 エメラルドが振り返り、光の中でにやっとした。「あー、二人がんばれー」


「「黙ってください」」


 陣が完全に起動した。天井まで光の柱が立ち上がり、地下室全体に古代の魔力が満ちた。紋様の中から声のような響きが聞こえ——やがてゆっくりと消えた。


 フローレンスが震える声で言った。「……陣の内部に、もう一層、封印があります。これは始まりに過ぎない」


 全員が顔を見合わせた。シャルロットはレオから少し離れて髪を整えた。顔が少し赤かった。


「次の調査は明日からにしましょう」と彼女は言った。「今日はよくやりました」


 研究所の夜は、またひとつ深くなった。


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EPISODE 13

第二層の封印と、謎の少女ラッキースケベ


地下の魔法陣が完全起動してから三日後——フローレンスが「第二層の封印の構造が見えてきた」と全員を集めた。彼女のノートには緻密な図解が並んでいる。


「第一層は起動のカギでした。第二層は扉です。その先に何があるかは……まだ不明です」とフローレンスは言った。「ただ、第二層を解くには特定の魔力紋が必要で、それはレオさんの魔力パターンの中にある一部分です」


「どの部分ですか」とレオは問いかけた。


「封印術式と同じ波動です」とフローレンスは言い、少し躊躇してから続けた。「つまり、あなたは封印を解くだけでなく、封印を施す側の存在でもある」


 静寂。イリスが小さく「……そういうことでしたか」と呟いた。


 実験を始めようとした矢先、地下室の奥の壁に光が走った。全員が動きを止める。壁の一点がゆっくりと溶けるように透明になり——そこに人影が現れた。


 身長はエメラルドより低く、白い髪に金色の瞳。年齢は十代半ばに見えるが、纏う魔力の質が人間離れしている。白いローブを着た少女は、全員を一瞥してからレオを真っ直ぐに見た。


「やっと来たのですね」と少女は言った。声は静かで、どこか遠い場所から届くような響きがある。「待っていました、均衡の者よ」


「……どなたですか」とレオは問いかけた。


「アルファ。この陣の記録係です。千年、ここにいました」


 全員がざわめく中、アルファはレオから目を離さなかった。「説明は後でします。それより——」


 そこでアルファが一歩前に出て、足元の石板に躓いた。小さく「あ」と言って前のめりになる。レオが反射的に受け止めた。両腕でアルファを支えた格好になったが、アルファの白いローブが乱れ、レオの手が彼女の背の薄い布地に触れる形になった。


「……ごめんなさい」とアルファは顔を上げた。近距離で金色の目がレオを見ている。「千年、歩いていなかったので少し不慣れです」


「……わかりました」とレオは言いながらそっと離した。「とにかく、話を聞かせてください」


 エメラルドがシャルロットに小声で言った。「また増えた」


「……あなた、千年前からいたのなら年齢はいくつですか」とシャルロットがアルファに聞いた。


「記録上は、二十二歳で封じられました」とアルファは答えた。「今もそのままです」


「……ならメンバーとして問題なしです」とレオは言った。


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EPISODE 14

千年の記録者が語る世界の均衡


アルファが加わり、五人プラス一人の研究所になった。彼女は話せることと話せないことがあると最初に言い、全員が了承した上で、語れる範囲で状況を説明してもらうことになった。


「千年前、この世界の魔力均衡が崩れ始めました」とアルファは一階の居間で言った。眼の前にお茶が置かれているが、飲み方を思い出しているらしく、カップを眺めている。「魔力は属性ごとに偏り、干渉が起き、地域によっては魔力暴走で集落が失われた」


「それは今の歴史書にも書かれています」とフローレンスが言った。「千年前の魔力大乱期」


「はい。その収束のために、ある術者が現れました。全属性を干渉なく内包する存在——均衡の者と呼ばれた人です。彼は独力で世界の魔力を調律し、封印陣を設置して次の均衡者が来るまで維持する仕組みを作った」


「それが地下の陣ですか」とシャルロットが言った。


「そうです。私はその陣の番人として記録を保持するよう命じられた。次の均衡者が来たとき、状況を伝えるために」アルファはレオを見た。「あなたが三年前に一度来て、陣に触れた。その時、私は起きかけましたが、あなたは陣を再び眠らせた。なぜ?」


 レオは少し考えた。「記憶がありませんが……多分、まだ準備ができていないと判断したんだと思います。一人では何もできないと」


 アルファが小さく頷いた。「賢明です。均衡者一人では均衡は保てない。傍らに力ある者たちが必要です。あなたは三年かけてそれを揃えた」


「揃えたというより、勝手に来た」とレオは正直に言った。


 エメラルドが笑った。「それ、めちゃくちゃ正確だな」


 アルファがカップを手に取り、ようやくお茶を一口飲んだ。目が少し大きくなった。「……甘い」


「蜂蜜を入れました」とイリスが言った。「千年ぶりならそちらの方が」


「……ありがとうございます」とアルファは言った。その表情が、わずかにほぐれた。


「それで」とレオは言った。「今の世界の均衡状態は?」


 アルファの表情が戻った。「再び、ずれ始めています。今は小さなずれですが、このまま放置すれば——千年前と同じことが起きます。時間はあります。でも、急いだ方がいい」


 居間が静かになった。全員が顔を見合わせた。


「では」とレオは言った。「研究を続けましょう。ただし順番に、丁寧に」


 誰も反論しなかった。


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EPISODE 15

エメラルドの限界と、もう一度感動回


アルファが提供した記録の中に、六属性同時干渉の実験データが含まれていた。それを解析するのはエメラルドの仕事になったが——三日目の夜、彼女が実験室から出てこなくなった。


 夕食の時間になっても現れないので、レオが様子を見に行くと、エメラルドが机に突っ伏していた。ノートと計算式が広がり、計算用紙が床に散乱している。


「エメラルド」


「……ちょっと待って」と彼女は言った。顔を上げると、目が赤い。「もうちょっとで解けそうで……でも全然解けない」


 レオは部屋に入って床の紙を拾い上げた。ざっと眺める。エメラルドの計算は正確で美しいが、ある一点で必ず止まっている。六属性が干渉するポイント——そこで計算が破綻する。


「これ、六属性を分けて考えようとしているから詰まっているんじゃないですか」とレオが言った。


「……どういうこと」


「干渉ゼロで共存する状態では、属性を別々に見ることができない。全部を一つの流れとして扱わないと式が成立しない」


 エメラルドが頭を上げた。「……それ、属性魔術の根本を否定してる」


「否定じゃなくて、より大きい視点です。属性という分類は人間が作った枠組みで、魔力そのものには区別がない——アルファのデータも、そう示してる気がします」


 長い沈黙。エメラルドがノートを見つめた。


「私……六属性を操れることが自分の全部だと思ってた」と彼女は静かに言った。「だからここに来たのも、あなたの六属性を研究すれば自分の限界を超えられると思って。でも……私の限界は属性の数じゃなかった。考え方だったんだ」


 レオは何も言わなかった。


「悔しい」とエメラルドが言った。「でもなんか……すごく前が開けた気がする」


「それは本物の限界じゃなかったってことです」とレオは言った。「本物の限界の手前で止まれたのは運がいい」


 エメラルドが笑った。目がまだ赤いまま、でも笑った。「レオって、慰め方下手だよね」


「そうですか」


「でも……なんか刺さる。ありがとう」


 彼女はノートを新しいページに開き、「属性統一場理論」とタイトルを書いた。その夜、エメラルドはまた朝まで起きていたが、今度は顔が違った。


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EPISODE 16

宮廷からの使者と、決裂ラッキースケベ


ある朝、研究所の前に馬車が止まった。降りてきたのは宮廷魔術師団の正式使者——団長・グラン・ヴァルトその人だった。六十代の白髭の大男で、宮廷の実権を長年握っている人物だ。


「マルスフィールド」とヴァルトは研究所の玄関前で言った。「シャルロット・フォン・エルデン、エメラルド・クロス、フローレンス・ベルクマン、イリス・ノワール——五名全員に宮廷復帰を命じる。均衡の件は我々が引き継ぐ」


「情報が漏れましたね」とシャルロットが静かに言った。「アルファのことを誰かが報告した」


「命令だ」とヴァルトは繰り返した。「この研究所の知見はすべて国家に帰属する」


「帰属しません」とレオは言った。


 全員がレオを見た。ヴァルトが眉をひそめる。


「我々は正式に登録された民間研究所です。研究内容の所有権は研究所にある。強制収用するなら評議会の決定が必要です」とレオは続けた。「それより——均衡の問題を宮廷が引き継いで、何ができますか?」


「何?」


「均衡者の魔力がなければ陣は動かせない。宮廷にその魔力を持つ者がいますか? いないなら、私たちが続けるしかない。引き継ぐというなら、具体的にどう解決するか聞かせてください」


 ヴァルトが押し黙る。


「……それは検討する」


「検討している間に均衡がずれます」とレオは言った。「今は邪魔をしないでください」


 使者が帰った後、玄関に残った全員が沈黙していた。やがてエメラルドが「……レオ、かっこよかった」と言った。


 その後、ヴァルトの立ち去り際に放った魔力の余波で玄関石段が揺れ、上にいたイリスが転倒してレオにぶつかった。咄嗟に受け止めたレオの手がイリスの細い腰にまわり、黒髪が顔にかかる。


「……すみません」とイリスは赤い顔で言った。「記憶します……このこと」


「できれば忘れてください」とレオは言った。


「私は忘れられません」とイリスは静かに言った。「……でも、大事な記憶として保管します」


 シャルロットが「研究に戻りましょう」と言いながら、その視線が一瞬レオに向いた。


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EPISODE 17

フローレンスの秘密と、花束


フローレンスが毎朝早く起きて、研究所の裏庭に出ていることにレオが気づいたのは、彼女が来て一ヶ月が経った頃だった。ある朝、レオが早起きして裏庭を見ると、彼女が小さな花壇を手入れしていた。魔術書の権威が土で手を汚している姿は、なんとも意外だった。


「……知りませんでした、花が好きなんですか」


 フローレンスが振り返る。眼鏡の奥の目が少し驚いている。「……見ていたんですか」


「偶然です。朝の水を取りに来ただけです」


「……はい、好きです」と彼女は少し間を置いてから言った。「封印魔法の文様は、花の構造から着想を得ているものが多いんです。花びらの配列、茎の維管束、根の分岐——全部、魔力の流路と似ている」


 レオは花壇を眺めた。種類はバラバラだったが、全体の配置が何かの紋様に見える。「……この配置、魔法陣ですか?」


 フローレンスが少し顔を赤くした。「……地下の陣の縮小図です。花で再現できるか試していました。馬鹿みたいでしょうか」


「全然」とレオは言った。「アイデアを別の形で試す。研究の基本です」


 フローレンスが泥のついた手で眼鏡を直そうとして、レンズに泥がついた。小さく「あっ」と言う。レオが懐から布を取り出して「貸してください」と眼鏡を受け取り、拭いて返した。


 フローレンスがかけ直して、しばらく黙っていた。


「……マルスフィールドさん」


「はい」


「宮廷では、私の研究を面白いと言ってくれた人が一人もいませんでした」


「そうですか」


「……ここでは、みんなが聞いてくれます。あなたも」彼女は小さな声で言った。「それだけでも、ここに来てよかった」


 レオは花壇を見た。「来年は別の区画も使えるようにします。もっと大きい陣が作れる」


 フローレンスが笑った——普段はほとんど見せない、照れたような笑顔だった。「……楽しみにしています」


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EPISODE 18

魔力暴走事件と、レオの全力感動回


事件は突然起きた。


 地下の第二層封印を解析中、フローレンスが誤って封じ込めていた古代の余剰魔力を解放してしまった。膨大な無属性の魔力が地下室から噴き出し、建物全体を揺さぶる。実験器具が吹き飛び、壁にひびが入る。


「全員、退避——!」とシャルロットが叫んだ。


 エメラルドが属性安定化を試みるが、余剰魔力が強すぎて逆に飲まれかける。フローレンスが封印術式で押し返そうとするが、圧力が上回る。イリスが魔力の流れを読んで経路を把握しようとするが、情報量が多すぎて処理が追いつかない。アルファが何か言おうとしたが、千年ぶりの大量魔力に身体が対応できず膝をつく。


 レオが地下室の中央に立った。


「全員、動かないでいてください」


「レオ!」とエメラルドが言った。「この量、飲み込まれる——」


「大丈夫です」


 レオが両手を広げ、全身の魔力を展開した。それまで誰も見たことのない規模の魔力が彼から放出される——六属性が干渉せずに共鳴し、噴き出した余剰魔力を包み込む。光が渦を巻き、地下室が満ちていく。


 数分後、魔力が静まった。地下室に沈黙が戻る。レオが床に片膝をついた。


「……消費しすぎましたね」と彼は言った。「少し休みます」


 シャルロットが真っ先に駆け寄った。エメラルドが「レオ!」と叫ぶ。フローレンスが青ざめた顔で「すみません、私のミスで——」と言う。イリスがレオの状態を読み取ろうと手を重ねる。アルファがゆっくり立ち上がり、無言でレオを見た。


「全員、無事ですか」とレオは全員を見た。


「あなた以外はね」とエメラルドが言った。目が赤い。「……心配させないで」


 フローレンスが声を出さずに頭を下げた。


「フローレンス」とレオは言った。「あなたのせいじゃない。第二層は想定外のトラップを持っていた。むしろ気づけた」


「……でも」


「研究に事故はある。次の手を考えましょう」


 シャルロットがレオの肩に手を置いた。言葉はなかったが、その手が何かを伝えていた。


 アルファが小さく言った。「……均衡者とは、こういう存在なのですね」


 誰も否定しなかった。


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EPISODE 19

アルファの涙と、千年分の孤独感動回


魔力暴走の翌日、アルファが一人で地下室にいるのをレオが見つけた。彼女は魔法陣の前に座り、膝を抱えていた。


「アルファ」


「……来てしまいましたか」とアルファは振り返らずに言った。「一人でいたかったのですが」


「出ましょうか」


「……いてください」


 レオは陣の端に腰を下ろして、黙っていた。しばらくして、アルファが口を開いた。


「昨日、あなたが倒れかけたとき——初めて怖いと思いました」


「千年いて初めてですか」


「人の心配をするのが、千年ぶりだったので」とアルファは静かに言った。「番人は感情を持ちすぎてはいけないと言われていました。ただ記録して、待って、伝える。それだけの存在だと」


 レオは何も言わなかった。


「……でも昨日、あなたたちを見ていて、わかりました。私は千年間、ずっと怖かった。誰も来ないかもしれないと。記録を伝えられずに終わるかもしれないと。誰かに会いたかった」


 アルファの金色の目に、光がたまった。千年の重さを持つ涙が、静かに頬を伝う。


「来ましたよ」とレオは言った。「遅くなりましたが」


 アルファが声を出さずに泣いた。レオは何もしなかった——ただそこにいた。地下室の静けさの中で、千年分の孤独が少しずつ溶けていくように、アルファは泣き続けた。


 やがて泣き止んで、アルファは目を拭いた。「……みっともないところを見せました」


「いいえ」とレオは言った。「千年待ったなら、それくらい泣いていいです」


 アルファがまた少し泣いた。今度は少し、笑いながら。


 上からエメラルドの声がした。「夕ご飯できたよー! 早く来ないとフローレンスが全部食べるよ!」


「食べません!」とフローレンスの声がした。


 アルファが地下室を見回して、ゆっくり立ち上がった。「……行きましょう」


「はい」とレオは言った。


 二人で石段を上がっていく。上から光と声と食事の匂いが降りてくる。アルファはその一つ一つを確かめるように、ゆっくりと歩いた。


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EPISODE 20

評議会の調査と、シャルロットの選択ラッキースケベ


王立評議会から正式な調査員が二名、研究所に派遣されてきた。魔力暴走事件の影響が周辺に観測されたためだという。調査員は中年の男性二名で、感じは悪くないが形式的だった。


「施設の全区域を確認させていただきます」と調査員が言った。「特に地下部分を重点的に」


 レオが案内しようとすると、シャルロットが先に立った。「私が案内します」


 調査中、アルファのことをどう説明するかが問題だった。シャルロットは彼女を「長期滞在の研究協力者」として紹介し、詳細は一切語らなかった。調査員が問いただそうとすると、シャルロットは涼しい顔で「機密研究内容の開示には評議会長の承認書が必要です」と返し、調査員を黙らせた。


 問題は調査の終盤に起きた。地下室を出る際、調査員の一人が持っていた測定器が誤作動し、強い魔力波を放出した。建物が揺れ、シャルロットが石段で足を取られる。レオが後ろから支えようとしたが、石段が狭く、シャルロットの背中にレオが密着する形で両者がもたれかかった。


 調査員二名が振り返って、気まずそうに目を逸らした。


「……マルスフィールド」とシャルロットは前を向いたまま言った。「早く離れなさい」


「石段が」


「わかってる。でも離れなさい」


 なんとか全員が上に出た後、調査員がぎこちなく報告書を書き始めた。シャルロットがレオに小声で言った。「……調査結果には影響しません。心配しないで」


「そちらより別のことが気になっているんですが」


「聞きません」とシャルロットは即座に言った。顔が少し赤かった。


 調査員が帰った後、エメラルドが「シャル、顔赤いよ」と言い、シャルロットは「研究室に戻ります」と言って立ち去った。イリスがそっとメモを取った。


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EPISODE 21

均衡の鍵、開く


フローレンスが第二層の封印を安全に解除する術式を完成させた。エメラルドの属性統一場理論が補助として機能し、イリスの記憶読取が術式の順序確認を担う。シャルロットが全体の魔力安定化を行い、アルファが古代の記録から手順を照合する。


「準備が整いました」とフローレンスが言った。「先週より安全に進められます」


「全員で確認を」とシャルロットが言い、全員が手順をもう一度声に出して確かめた。


 地下室に六人が集まった。レオが中央に立ち、四人が四方、アルファが奥で記録を行う。


「はじめます」とレオは言った。


 魔力を流す。フローレンスの術式が発動し、封印の第二層がゆっくりと開き始める。エメラルドが六属性の統一場を展開し、干渉を抑える。イリスが陣の状態を読み続ける。シャルロットが全体に保護の術式を張る。


 光が広がり、第二層の内側が見えてきた——そこには小さな空間があり、中心に水晶の球体が浮いていた。


「……均衡の核」とアルファが言った。「千年前、初代均衡者が世界の魔力の流れを圧縮して封じたものです。これを解放することで、現在の均衡ずれを補正できます」


「どうやって解放するんですか」とエメラルドが聞いた。


「均衡者が手で触れるだけです」とアルファは言った。「ただし、それは均衡者の魔力を核と同調させることを意味する。一時的に……かなり消耗します」


「どのくらい」とシャルロットが聞いた。


「初代は三日間、意識を失いました」とアルファは言った。「あの方は一人でしたが。今は——」彼女がレオを見た。「傍らに五人います。負荷は分散できる」


「やります」とレオは言った。迷いがなかった。


 全員が頷いた。シャルロットが「始まったら離れません」と言った。エメラルドが「当たり前」と言った。フローレンスが「術式は維持します」と言った。イリスが「記録します、全部」と言った。アルファが「……任せます」と言った。


 レオが水晶の球体に手を触れた。光が爆発するように広がり、研究所全体が輝いた。


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EPISODE 22

三日間と、傍らにいた人たち感動回


レオが目を開けたとき、天井が見えた。自分の部屋のベッドだ。窓から朝の光が差し込んでいる。


「……おはようございます」


 声の方を向くと、イリスが椅子に座って本を読んでいた。目が合うと、彼女は本を閉じた。「三日です」


「そうですか」


「全員、交代で傍についていました」とイリスは言った。「今は私の番でした」


 レオは体を起こそうとして、思ったより力が入らないことに気づいた。イリスが素早く背中を支える。


「無理をしないでください」


「ありがとうございます」


 ドアが開いて、エメラルドが飛び込んできた。「レオ! 起きた!?」と叫んで、廊下に向かって「起きたよー!!」と声を張り上げた。


 どたどたと足音がして、フローレンスが来て、シャルロットが来て、アルファが来た。全員が部屋に入り、全員がレオを見た。


「……迷惑をかけました」とレオは言った。


「迷惑じゃない」とエメラルドが言った。「むしろ三日間、ここにいられてよかった。研究の話もたくさんした」


「私のせいで皆さんの研究を止めてしまった」


「止めていません」とフローレンスが言った。「レオさんの傍で各自進めました。ノートが少し増えました」


「私は記録を十七ページ書きました」とイリスが言った。


「アルファは?」とレオが聞くと、アルファは少し考えてから言った。「……ずっと見ていました。初代均衡者のそばにいた人たちも、こうだったのかと、思いながら」


 シャルロットが全員を代表するように言った。「均衡の核は正常に解放されました。世界の魔力均衡は補正を開始しています。あなたの仕事は成功しました」


「私たちの仕事ですよ」とレオは言った。


 シャルロットが少しだけ微笑んだ。「……そうね。私たちの」


 部屋に朝の光が満ちていた。五人がレオの周りにいて、研究所の日常がゆっくりと再開されていく。それはひとつの結末であり、ひとつの始まりだった。


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EPISODE 23

宮廷からの正式申し入れと、研究所の答えラッキースケベ


均衡の核解放から二週間後、王立評議会から正式な文書が届いた。内容は「マルスフィールド魔術研究所を王立特別研究機関として認定し、国家の支援を提供する」というものだった。条件として、研究内容の定期報告と、必要に応じた協力要請への対応が求められている。


「どうしますか」とシャルロットが全員に問いかけた。


「報告はする。でも指示は受けない」とエメラルドが言った。


「研究の自律性が保証されるなら、支援は有難い」とフローレンスが言った。


「私は皆さんに従います」とイリスが言った。


 アルファは「……私には立場がありませんが、記録としてはここの方が正確な研究ができると思います」と言った。


 全員の視線がレオに向く。彼はしばらく文書を読んでいた。


「受けます。ただし条件を付け加えます——研究内容の最終判断権は研究所にある、研究員の身分は研究所が保証する、宮廷の人事介入は認めない。この三点を明文化してもらえれば」


「交渉するんですか」とエメラルドが言った。「相手は評議会ですよ」


「だからこそ文書で残します」とレオは言った。


 返答の文書を書く作業を始めた夕方、書き物机で背伸びをしたレオの腕が、隣で資料を持っていたアルファの手に当たった。アルファが驚いて資料を取り落とし、二人が同時に床の紙を拾おうとして頭をぶつける。


「……いたい」とアルファが言った。


「すみません」とレオが言った。


 二人が顔を上げると至近距離で目が合った。アルファの金色の瞳が瞬きした。「……頭突きは、千年ぶりです」


「喜ばしくないですね」とレオは言った。


「いいえ」とアルファは言った。「……生きているという感じがして、嫌いではありません」


 エメラルドが机の向こうから「何か言った?」と覗き込んできた。二人が同時に「何でもないです」と言った。


 評議会への返答文書は、三日後に送られた。一週間後、評議会はすべての条件を受け入れた。


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EPISODE 24

それぞれの理由で、ここにいる ── 第1期 終幕


王立特別研究機関の認定証が額に入れられ、研究所の玄関に飾られた。エメラルドが「地味すぎる」と言い、シャルロットが「これでいい」と言い、フローレンスが「少し花を添えましょうか」と言い、イリスが「記録に残します」と言い、アルファが「……良い額縁です」と言った。


 その日の夜、珍しく全員が食卓に揃った。フローレンスが作った夕食で、シャルロットが食後のお茶を淹れた。エメラルドが「今日はなんか感慨深いな」と言い出したのが始まりだった。


「レオが辞表出してから、もう四ヶ月か。なんか全然違う人生になった」


「それはあなたが突然押しかけてきたからでは」とシャルロットが言った。


「シャルが最初でしょ! 私はシャルの後!」


 フローレンスが少し笑った。「私は四番目です。でも来てよかったと毎日思っています」


「私は五番目でした」とイリスが言った。「宮廷では居場所がありませんでした。ここは……全員が違う、でも誰も排除しない。それが嬉しかった」


 アルファが静かに言った。「私は番外ですが」


「番外じゃない」とエメラルドが即座に言った。「全員メンバーです」


 アルファが少し目を細めた。「……では、私もここにいていいんですね」


「当然です」とレオは言った。「全員が揃っているから研究ができる」


 窓の外に夜風が吹いて、裏庭のフローレンスの花壇が揺れた。地下室の陣は今も静かに世界の魔力を調律している。第二層は開いたが、アルファによればまだ先がある——第三層、そして第三層の奥に何があるかは、次の段階で調べることになっていた。


「来期の研究計画、立てましょうか」とシャルロットが言った。


「今日くらいはいいじゃないですか」とエメラルドが言った。「休みましょうよ」


「珍しいことを言う」


「たまにはね」


 お茶の湯気がゆっくりと昇って、食卓の上で消えた。全員が静かに、それぞれのカップを手にしていた。


 レオは窓の外を見た。四ヶ月前、一人で辞表を持って歩いていた廊下のことを思い出した。あの時は静かな研究生活を想像していた。今は五人がいて、毎日うるさくて、実験は爆発して、地下には千年分の謎があって——


「……研究を続けましょう」とレオは言った。「来期も、その次も」


 全員が頷いた。


 マルスフィールド魔術研究所の夜は、まだ長い。


── 第1期 完 ──


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