表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

明日へ、息をして/一ノ瀬明里、深夜0時の救難ライブ

作者: スドタケ
掲載日:2026/07/10

錆びたシャッターの下から、泥で黒く汚れた小さな指が滑り出てきた。



雨に濡れた舗道を爪が掻き、そこで力尽きたように止まる。


明里は膝をついたまま、スマートフォンから流れていた自分の歌を止められずにいた。



「……うた……」



鉄板の向こうから、子どもの声がした。



「息を、してって……聞こえた……」



その声を聞いた瞬間、一ノ瀬明里は、今日で消すはずだった名前をまだ消せなくなった。




◇ ◇ ◇



三時間前、明里は真っ白なスタジオの中央に立っていた。



壁も床も白く、余計なセットは何も置かれていない。目の前には一本のスタンドマイク。


耳を覆うヘッドホンの奥で、ピアノの音が静かに確認されている。



派手な演出も、街を歩くカットも、夕焼けに振り返る場面もない。


最後だからこそ、何も飾らず、歌っている姿だけを残そうと決めた。



「準備、大丈夫?」



「はい」



答えた声が少し硬かったが、荻野は何も言わなかった。



一ノ瀬明里という名義で活動を始めて、もうすぐ一年になる。



最初から期限のある企画だった。


一年で四曲、それぞれのミュージックビデオと短い告知動画を作り、次の制作費へ繋がる反応が得られなければ、そこで一区切りにする。


荻野を中心にした小さなチームが、持ち出しを重ねて始めたプロジェクトだ。


夢だからという理由だけで、誰かの時間や金を削り続けるわけにはいかなかった。



来週からは正社員として働く。


歌をやめるのではなく、一ノ瀬明里名義の更新を止めるだけだった。



公開した曲は四つ。



最初の『明日へ、息をして』は、うまく笑えなくなった頃に、自分の弱さを初めてそのまま書いた歌だった。



二曲目の『Glass Heart』は、大丈夫な顔を何度も作り直すうちに、胸の奥で何かが砕ける音を聞いた夜の歌。



三曲目の『背中の向こう』は、送り出す側の人間の気持ちを書いた歌で、自分にはまだ早いと言われた。


それでも公開後、離れて暮らす父から初めて「聴いた」とだけ連絡が来た。



四曲目の『光のその先へ』は、一番明るく、幾つもの声を重ねて未来へ進むことを歌った曲だった。



けれど、その映像を作る頃には、チームに残った時間も費用もほとんどなかった。


明里が歌う姿を十分に撮る余裕はなく、用意できた短いカットと簡素なアニメーションを繋ぎ、どうにか一本の映像に仕上げた。


粗い画面を見るたび、もっと良い形で届けたかったと思う。


それでも、未来を歌った一曲を捨てることはできなかった。



四曲とも、再生数はほとんど二桁のままだった。


短い動画に切り抜いたサビも、数秒だけ流れては、すぐ別の映像へ押し流されていった。



だから今夜撮るのは新曲ではない。始まりの曲、『明日へ、息をして』のLIVE TAKE。


それを最後に残して終わる。



「回します」



赤いランプが点いた。明里は深く息を吸い、スタンドマイクへ顔を上げる。



「一ノ瀬明里。『明日へ、息をして』、LIVE TAKE」



カメラの前でこの名前を名乗って歌うのは、これが最後になるはずだった。



ピアノが静かに始まる。



「うまく笑えない日も


 理由もなく泣いた夜も


 全部わたしの時間だと


 思えたならいいのに――」



ヘッドホンの中で、自分の声が近すぎるほど返ってくる。逃げ場のない白だった。


息が震えればそのまま残るし、目を伏せれば、その理由まで映ってしまいそうだった。



「明日へ息をして


 何度でも立ち上がる


 消えそうな光でも


 離したくない



 不器用な夢でも


 この手で守りたい


 私は行くよ


 心のまま――」



最後のピアノが消えても、明里はスタンドマイクの前を離れられなかった。



ヘッドホンの奥にはもう何の音も流れていないのに、胸の内側だけがまだ震えている。


伏せたまつ毛の際に、薄く涙が滲んだ。



「……よかったよ」



明里がようやくヘッドホンを外した時、荻野が言った。



「最後だから、ですか」



「最後だからって、駄目なものをよかったとは言わない」



明里は少しだけ笑った。大丈夫に見せるための笑顔ではなかった。



「映像は仕上げる。公開するかは明里が決めればいい」



「公開します。そこまでやって、終えるって決めていたので」



白いスタジオを出た時、外では細い雨が降っていた。




◇ ◇ ◇



終電間際の駅前は、雨のせいで人が少なかった。



傘を持っていなかった明里は広場の庇へ駆け込み、スマートフォンを開いた。


荻野から、さっき撮ったLIVE TAKEの確認用映像が届いている。



『冒頭だけ。明日、音と明るさ調整する』



再生を押すと、白いスタジオで歌う自分が映った。思ったより頼りない顔をしている。


けれど嫌ではなかった。終わることを受け入れきれないまま、それでも逃げずに歌った顔だった。



小さなスピーカーからサビが漏れる。



「明日へ息をして――」



ガン、と鉄を内側から叩いたような音がした。



明里は顔を上げた。広場の端に、黄色い規制テープで塞がれた地下通路の入口がある。


錆の浮いたシャッターは下ろされ、その先の階段は見えない。



半年前、漏水事故の確認に入った作業員が一晩行方不明になり、翌朝、三つ先の駅の非常口で保護された。


男は、同じ階段を何度上っても外へ出られなかったと繰り返したという。


その後も閉鎖された入口付近で失踪が続き、いつからか、そこは《迷い口》と呼ばれるようになっていた。



もう一度、ガン、と鳴る。



「……誰か、いるんですか」



明里は規制テープの前まで近づいた。



返事はない。雨が庇を叩く音だけが、サァァと続いている。



けれど、シャッターの下のわずかな隙間で何かが動いた。



小さな指だった。泥で黒く汚れた、子どもの指。



「誰か! 駅員さんを呼んでください! 中に人がいます!」



タクシー乗り場にいた女性が駅舎へ走った。明里は膝をつき、隙間へ声を送る。



「聞こえる? 今、人を呼んだから。もう少しだけ待って」



闇の向こうで、何かが擦れる音がした。



「……うた……」



「え?」



「さっきの……うた……もう、いっかい……」



明里の手の中には、白いスタジオで撮ったばかりの映像が開かれたままだった。



どうして、こんな小さな音が閉じた通路の奥へ届いたのかは分からない。


ただ、隙間から出ていた指が、もうほとんど動かなくなっている。



明里は映像を最初へ戻し、音量を最大まで上げた。


スマートフォンから流れるピアノは雨に消されそうなほど頼りない。



足りない。



そう思った瞬間、明里はその音へ自分の声を重ねていた。



「うまく笑えない日も


 理由もなく泣いた夜も


 全部わたしの時間だと


 思えたならいいのに――」



こんなことに意味がある保証など、一つもなかった。


けれど、隙間から伸びていた指が、歌に触れるようにわずかに動いた。



駅員と警備員が駆けてくる。指先を見た警備員の顔色が変わり、鍵を回す手が滑る。


ガチャ、ガチャと焦った金属音が続いた。



明里は歌を止めなかった。



「明日へ息をして


 何度でも立ち上がる


 消えそうな光でも


 離したくない――」



ガラガラとシャッターが上がり、地下の冷気が流れ出した。



階段の五段目に、小さな女の子が倒れていた。黄色いパーカーは泥で黒く汚れ、片方の靴がない。


明里は駆け寄り、細い身体を抱き起こした。



「大丈夫。もう外だよ。聞こえる?」



女の子は薄く目を開けた。



「ずっと……同じ、かいだんで……声が、いっぱい聞こえて……」



「うん」



「でも、お姉ちゃんの歌は……ひとつの方から、ずっと聞こえたの……」



警備員が息を呑んだ。



「昨夜から捜していた子だ。篠宮美央ちゃん、八歳……!」



救急車の音が近づいてくる。明里の腕の中で、美央の小さな胸は確かに上下していた。



歌で帰ってきたなど、まだ信じられなかった。


たまたま出口の近くへ出ていて、スマートフォンの音に気づいただけかもしれない。



けれど、担架へ乗せられた美央は、うわごとのように何度も繰り返した。



「お母さんの声も、駅の音も……いろんな方から聞こえたの……」


「でも、歌だけ……ずっと同じところから聞こえた……」


「歌の方に行ったら……シャッターがあった……」



誰も返事ができない。明里も理解したくなかった。


終わらせるはずだった歌が、少女の呼吸に触れていた。


その感触だけが、冷たい雨の中で指先に残った。




◇ ◇ ◇



翌日の昼、明里のスマートフォンは壊れたように震え続けていた。



拡散されていたのは、白いスタジオで撮ったLIVE TAKEではない。


駅前にいた誰かが撮った、三十秒ほどの縦長の動画だった。



雨の中、閉鎖されたシャッターへ向かって明里が『明日へ、息をして』を歌い、その直後、行方不明だった女の子が救い出される。



《一ノ瀬明里の『明日へ、息をして』らしい》


《過去曲、四つある。なんで今まで見つからなかったんだろ》


《『Glass Heart』、高音キーが刺さった》


《『背中の向こう』、母親に送るか迷ってる》


《『光のその先へ』まで聴いた。声がずっと残る》


《この子の歌で、本当に帰ってきたの?》



昨日まで、再生数の二桁という数字の向こうに、誰がいるのか明里には分からなかった。



四曲とも、どこへも届かないまま沈んでいくのだと思っていた。


画面の中で流され、忘れられ、自分たちだけが覚えている歌になって、そのまま終わるのだと。



それが今、知らない誰かの言葉になっている。胸に刺さった、誰かに送りたい、最後まで聴いた。


ほんの短い書き込みなのに、そこには初めて、数字ではない人の気配があった。



嬉しくないわけではなかった。



けれど、その入口になったのは、美央が暗い地下で助けを待っていた夜だ。


もしあの子が戻れなかったら、明里はこの反応を喜ぶことなどできなかっただろう。



画面を見つめる指先には、まだ昨夜の冷たさが残っていた。



荻野から電話が入った。



『美央ちゃんは命に別状なし。脱水と擦り傷だけで済んだらしい』



「よかった……」



明里はようやく息を吐いた。


昨夜、警察に聞かれるまま、シャッターの前で何があったのかを話した。


歌が聞こえたと言われたことも、自分がその場で歌ったことも。


けれど、それで何かが解決したわけではないと思っていた。



『それで、昨日来ていた警察の人から、追加で確認したいことがあるって連絡が来た。できれば、捜索に関わっている人たちとも一度会ってほしいらしい』



「捜索に……?」



『美央ちゃんが、病院でも同じ話をしてる。普通の呼び声や駅の放送は、奥では色んな方向から聞こえた。でも、明里の歌だけは、一つの場所から続けて聞こえたって』



「そんなこと……」



『俺だって分からない。ただ、同じ通路で、まだ見つかっていない子がいるらしい。何かを強制される話じゃない。嫌なら断っていい。俺も一緒に行く』



また歌えば戻るかもしれない、と期待されても困る。



一曲歌っただけで、閉じた通路の中の何かが変わるなど、信じられるはずがない。


昨日の救出だって、偶然が重なっただけなのかもしれない。



それでも、美央が何度も繰り返したという言葉が、頭から離れなかった。



歌だけは、同じ場所から聞こえた。



「……話を聞くだけなら、行きます」



警察から指定されたのは、駅構内の小さな会議室だった。



閉鎖通路の管理資料を確認するため、駅側が場所を提供したらしい。


室内には、昨夜現場に来ていた警察官と、消防の救助隊員、駅施設の責任者がいた。



そして一番奥の椅子に、髪を乱したまま両手を握りしめている女性が座っていた。



「佐伯由佳さんです。三日前から、娘さんがあの通路付近で行方不明になっています」



女性は立ち上がり、明里へ頭を下げた。



「突然、申し訳ありません」



警察官が、明里に椅子を勧めた。



「昨日は遅い時間までご協力いただき、ありがとうございました。今日来ていただいたのは、昨夜のお話を疑っているからではありません。保護された美央さんの証言と、現在継続している捜索に関して、確認したいことがあります」



消防の救助隊員が、机の上へ地下通路の図面を広げた。閉鎖前の構内図らしい。


奥の一帯には赤い線が幾つも交差し、大きな疑問符が書かれていた。



「昨夜、美央さんを保護した後、入口から音を流して確認しました。母親の録音音声、非常ベル、案内放送、一定間隔の電子音。地上では一方向から流した音が、中では複数の位置から同時に聞こえるようです。音を頼りに進めば、かえって迷う可能性がある」



「私の歌は?」



「分かりません。曲そのものに何かあるのか、生の声だったからなのか。音程や息継ぎのように絶えず変化する音は、あの中でも一本の流れとして聞き分けられるのかもしれない。仮説です」



「私が歌えば救える、という話ではないんですね」



「もちろんです。救助は我々が行います。捜索が手詰まりの中で、入口から生の歌声を届けることに、補助的な意味があるかもしれないというだけです」



明里は由佳を見た。



「歌えば娘が帰ると信じたわけではありません」



由佳は、自分を納得させるようにゆっくり言った。



「三日間、何をしても見つからなかったんです。私の声を録音して流しても、届かなかった。でも、あの子が暗い場所にいるなら、知っている歌だけでも届けてやりたい。もう、お願いできるものが何もなくて……」



「……私には、できません」



明里の口から出た声は、自分で思っていたより固かった。



「昨日のことは、偶然かもしれません。美央ちゃんが戻れたのは、本当にたまたまだったのかもしれない。私が歌えば誰かを連れ戻せるなんて、思えません。それなのに期待させて、もし戻らなかったら……」



最後まで言えなかった。戻らなかった時に怖いのは、由佳だけではない。


自分の歌が届かなかったと、はっきり知ることも怖かった。



由佳が震える手でスマートフォンを差し出した。



「娘が、あなたの歌を送ってきていたんです」



娘の名は凛。十六歳。



『明日へ、息をして』のリンクには、



『明日へって言ってるのに、急かされない曲。今はこれだけ聴ける』



由佳の返事は、勉強中ならスマホを閉じなさい、だった。



『Glass Heart』には、



『これ、今の私みたい』



返っていたのは、翌日の模試の時間だった。



『背中の向こう』には、



『お母さんには、いつかこうやって言ってほしかった』



返事はない。



「凛は音楽の学校へ行きたいと言っていました。夫が亡くなってから一人で育ててきて、不安定な道へ行かせるのが怖かった。現実を見なさいと、そればかり言って……三日前、また喧嘩になりました」



最後のメッセージには、『光のその先へ』のリンクが表示された。



『これを聴いても、まだ無理だと思うなら、もういい』



明里の胸が詰まった。



四本の中で、一番満足に映像を作れなかった歌だった。


時間も費用も足りず、もっと違う形で届けたかったと、公開してからも悔やんでいた。


その一曲を、凛は母親へ聞いてほしい最後の言葉として選んでいた。



届いていないと思っていた歌を、一人の少女が、自分の言葉の代わりに使っていた。



「……歌えば、凛さんが戻るとは思っていません」



由佳は黙って頷いた。



「私の声にそんな力があるとも、まだ信じられません。でも、凛さんが聴いていた声を、暗い場所へ届けることはできます」



由佳の目から涙が落ちた。



「救助の方がいて、私が入口から歌うだけなら……やります。ただ、戻ってくるとは約束できません」



「それでもいいんです。あの子が一人なら、せめて知っていた歌を届けてやりたいんです」



明里は膝の上で握っていた手を解いた。



誰かを救える歌姫になるためではない。


今それを待っているかもしれない一人へ、声を届けるために歌う。それだけだった。




◇ ◇ ◇



午後十一時四十分。


明里が案内されたのは駅前広場ではなく、封鎖通路のシャッター裏へ繋がる管理用の作業区画だった。



表側は設備点検の名目で塞がれ、今夜の試行は公表されていない。


中にいるのは由佳と明里、荻野、駅と救助側の数人だけで、離れた搬入口には救急車が一台待機していた。


撮影機材はない。



「今日は、撮らないんですね」



明里が言うと、荻野は当たり前のように答えた。



「撮る夜じゃないだろ」



その一言で、張りつめていた胸の奥が少し緩んだ。



救助隊員がシャッターを腰の高さまで上げる。


奥から冷たい湿気が流れ、照明を向けても階段は十五段ほど先で闇に溶けた。



「一ノ瀬さんは、この線より前へ出ないでください。反応があれば我々が入ります。歌が届かなかったとしても、あなたの責任ではありません」



「……はい」



分かっていても、マイクを持つ手は冷たかった。



由佳は凛の写真を胸に抱いている。


制服姿の凛は、片耳に白いイヤホンを入れ、少し不機嫌そうにカメラを見ていた。



「最初に、どの曲を歌いますか」



「『光のその先へ』を。凛さんが最後に送った曲だから」



荻野が小さなスピーカーを準備する。伴奏は最小限の音量に絞った。



午前零時。明里は息を吸った。



「光のその先へ


 声を重ねて進もう


 まだ見ぬ未来が


 ここから始まる



 この歌が


 道になる


 今ここで


 響きあう――」



声が暗い階段へ沈んでいく。



普段なら幾つも重ねた声が広がる曲を、今夜は明里一人で歌っている。


一番を終えても、救助隊員のヘッドセットから返るのは、サアア、と砂を流すような雑音だけだった。



明里はもう一度、サビを歌う。



「一人じゃない


 この歌がある


 未来は


 ここから――」



何も返らない。



喉がひりついた。やはり、自分にできることなどなかったのかもしれない。



「……違うのかもしれません」



由佳が掠れた声で言った。



「あの子は、前へ進ませてほしかったんじゃなくて、私に聴いてほしかっただけなのかもしれない。『Glass Heart』を送られた時も、『背中の向こう』の時も、私は聴かなかった。娘は歌で話していたのに、私は声を聴かなかったんです」



明里は暗い階段へ目を戻した。



光の先へ進めと歌えば、誰でも歩けるわけではない。


凛が欲しかったのが励ましではなく、壊れそうになっている自分を見つけてもらうことだったなら、先に届けるべき歌は別にある。



「順番が、違ったんです」



明里は荻野を見た。



「『Glass Heart』、出せますか」



低い音が、冷えた床へ落ちた。



「Glass Heart――


 胸の奥で 砕けた音がした



 強がりの笑顔を


 何度も貼り直して


 『大丈夫』って言葉で


 自分を守ってた――」



声を張らずに歌った。遠くから無理に手を引くのではなく、同じ暗い踊り場に座るように。



「でも気づいたんだ


 壊れそうなほど ちゃんと生きてる


 涙がこぼれるのは


 光をまだ探してるから――」



救助隊員が片手を上げた。



「待ってください」



全員が息を止める。ヘッドセットの向こうで、ガリ、と何かが床を擦る音がした。



「接触音。内部からです」



「凛! 聞こえる? お母さん、ここにいる!」



返事はない。けれど、ガリ、ともう一度音が返った。



明里はサビへ進む。



「Glass Heart, Glass Heart


 それでもまだ 鼓動してる


 Glass Heart, Glass Heart


 痛みさえ抱いて 進んでいく――」



「呼吸音らしきもの、入っています」



由佳の顔が歪んだ。写真を胸へ押しつけたまま、闇へ向かって声を上げる。



「凛、ごめんね。私、怖かった。あなたが音楽を選んで、私の知らない場所へ行ってしまうのが怖かった。でも、だからって、あなたの歌を聴かない理由にはならなかった」



由佳は泣きながら続けた。



「『背中の向こう』、聴いたよ。遅くなって、ごめん。背中の向こうにどんな明日が待っていても、振り向かなくていい。そのまま行っていい。だから今は、一度だけ帰ってきて。今度は私に、あなたの歌を聴かせて」



ガタン、と集音機の奥で何かが倒れる音がした。



「反応、止まりました!」



「凛!」



明里はマイクを握り直した。



凛は聞いた。けれど、三日間も暗い場所にいた身体で、帰りたいと思うだけでは歩けない。



必要なのは、未来へ進めと押し出す歌ではない。もう一度だけ息をしていいと伝える声だった。



「『明日へ、息をして』を歌います。伴奏は止めてください」



「アカペラで?」



「はい。今度は、映像じゃないから」



音楽が消えた。



明里は、白いスタジオで撮った時より深く息を吸う。喉は乾き、綺麗な声は出ないかもしれない。


それでも、今は綺麗に歌う必要などなかった。



「うまく笑えない日も


 理由もなく泣いた夜も


 全部わたしの時間だと


 思えたならいいのに――」




◇ ◇ ◇



凛は、暗い踊り場の床に横たわっていた。



スマートフォンの電池は切れ、片方だけの白いイヤホンが床に落ちている。


何度階段を上っても、結局そこへ戻ってきた。



駅の放送も母の呼び声も、右から聞こえた次の瞬間には左や足元から響いた。


声を信じるほど、自分がどこにいるのか分からなくなる。



母は変わらない。自分も、もう頑張れない。いつしか、帰ろうと思うことまでやめていた。



遠くから『光のその先へ』が聞こえた時、その歌だけは一本の糸のように同じ方向から届いた。


母へ送った最後の歌だった。


それでも、未来はここからと言われても、帰った先の未来を信じられなかった。



やがて歌が変わった。



「胸の奥で 砕けた音がした――」



『Glass Heart』。大丈夫ではないと誰にも言えず、部屋で声を殺して泣いた夜、何度も聴いた歌だった。



「……ずるいよ……」



涙が頬を流れた。歌の向こうから、母の声がする。


『背中の向こう』を聴いた、振り向かなくていいと言ってくれた。



遅い。遅すぎる。そう思うのに、凛は壁へ指をついて身体を起こそうとした。



脚に力が入らない。膝が床へ落ち、ゴン、と鈍い音が響く。そのまま息が詰まり、倒れ込んだ。



帰りたい。ようやくそう思えたのに、身体が動かない。



伴奏のない声が、闇の中へ届いた。



「明日へ息をして


 何度でも立ち上がる


 消えそうな光でも


 離したくない――」



「……息、してるよ……」



掠れた声が床へ落ちる。



歌声は分かれなかった。震えた息も、少し擦れた声も、ずっと一つの場所から聞こえている。



あそこへ行けばいい。



凛は手すりへ腕を伸ばした。指が滑っても、もう一度掴む。立てないなら、膝で進めばいい。



一段。もう一段。



「凛、ここにいるから。ゆっくりでいい。帰ってきて……!」



歌の先で、母が呼んでいる。



階段の上に、初めて白い光が見えた。



凛は泣きながら、その光へ手を伸ばした。




◇ ◇ ◇



二度目のサビの途中で、集音機へ荒い呼吸が入った。



「入口付近まで来ています!」



明里は震える声のまま、最後まで歌った。



「不器用な夢でも


 この手で守りたい


 私は行くよ


 心のまま――」



暗い階段の奥で、白い指が光へ触れる。次の瞬間、制服姿の少女が階段の上へ崩れ落ちた。



「凛!」



由佳が叫ぶ。



救助隊員が飛び込み、少女の身体を引き上げる。腕は擦り傷だらけで、髪も頬も泥に汚れていた。


それでも凛は、確かに息をしていた。



酸素マスクを当てられながら、凛がゆっくり目を開ける。



「……ほんとに、聴いた?」



「聴いた。全部、聴いたよ。今度は何度でも聴く」



「遅い……」



「うん。遅くなって、ごめん」



凛は泣きながら、母親の指を握った。



撮影する者も、歓声を上げる者もいない。


狭い作業区画で、救助隊員の指示と無線の音だけが動いていた。



明里はマイクを下ろした。膝が震え、その場に座り込みそうになった身体を荻野が支える。



「……戻ったな」



「はい」



「明里の歌で」



明里は首を横に振った。



「分かりません。歌が道を作ったのか、凛ちゃんが声を頼りに歩いただけなのか、私にはまだ分かりません」



担架へ乗せられた凛が、母親の手を離さないまま運ばれていく。



「でも、凛ちゃんが戻ろうと思うまで、歌がそばにいられたのなら……それで十分です」




◇ ◇ ◇



朝の四時を過ぎた頃、凛は命に別状はないと連絡が入った。



あの通路で何が起きているのか、なぜ歌声だけが一つの方向として届いたのか、答えはない。


救助隊員は、生の歌に含まれる息継ぎや音の揺れが、反響の中でも一本の流れとして残ったのかもしれないと言った。


けれど、それも仮説だった。



荻野が紙カップを手渡し、隣に腰を下ろした。



「昨日撮ったLIVE TAKE、どうする」



明里のスマートフォンには、活動終了のお知らせが下書きのまま残っている。



一年で四本の映像を届け、次へ繋がらなければ区切る。その判断は間違っていなかった。


動画が少し広がったからといって、明日から歌だけで暮らせるわけではない。


来週からの仕事も、辞めるつもりはなかった。



けれど、制作を区切ることと、声の届く場所を閉じることは同じではない。



「公開してください」



「終わりの映像として?」



明里は首を振った。



「ここから残す、最初の歌として」



荻野がノートパソコンを開いた。



公開画面には、白いスタジオでスタンドマイクの前に立つ明里が映っている。


その上に、小さく表示されたチャンネル名。



Cinematic MV Project。



閉鎖地下通路も、救出の瞬間も、そこには映っていない。



それでも、あの暗闇へ届いたのは、この歌だった。



『明日へ、息をして――LIVE TAKE』



明里は公開ボタンを押した。



ほどなく、由佳から連絡が届いた。



『凛が目を覚ましました。最初に、LIVE TAKEを聴きたいと言っています』



明里はスマートフォンを胸へ寄せ、朝の冷たい空気を吸った。



歌を仕事にできるのかも、次の映像を作れるのかも分からない。


それでも、歌わないと決める理由だけは、もうなかった。



その呼吸は、白いスタジオで終わるはずだった歌の続きのように、静かに胸の奥へ満ちていった。

【関連楽曲】

本作に登場する一ノ瀬明里の楽曲は、

YouTube「Cinematic MV Project」にてミュージックビデオを公開しています。


『明日へ、息をして』

『Glass Heart』

『背中の向こう』

『光のその先へ』


また、本作の結末と繋がる

『明日へ、息をして』LIVE TAKEも公開中です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ