新殺法開眼
どんなことにも技はあるはず。
とかね。
何でも極めることが大事です。
自ブログ用記事の転載です。
それは半分まどろみの中で、耳元に一瞬届いたわずかな音から始まった。
ふとんに潜り込んでからおそらく三十分ぐらいは経った頃合いだったと思う。
部屋の電気は消し、月明かりも窓から差し込んではおらず、ほぼ漆黒の闇に部屋は覆われているはずだった。
やれやれ、厄介だな。
その音を聞いた時、最初に思ったことだ。
ようやく眠気に身を委ねられそう、となった中で、聞かされる音としては、これほど忌々しいものは無いだろう。
プーーンッ
最後はまるで闇に溶けたかのように消えた。
蚊である。
どうする?
しばらく耳を澄ます。
このままどっかに消えてくれればいいのに。
なんて思いながら時を過ごす。
が、こういう期待はだいたいにおいて裏切られるものだ。
やや違う方向から弱々しくも、だがハッキリと、
プーーーーーンと、
自らの飛行の自由を謳歌するような音が再び届く。
くそっ。
電気蚊取りのセットは確かキッチンの納戸にしまっていたはず。あれを取ってくるか。いや面倒だな。
まあそれをやれば蚊を撃退できるかどうかはともかく、安眠を保証してくれる保険ぐらいにはなりそうだ。
が、目を開けるのも億劫だし、だいたい電気を点けて、目を開けたら折角の眠気がどっかいきそうなのがもったいない。
そんな脳内議論の最中にも時折り聞こえる。
プウウウウウウン。
なんか、楽しんでないか?
だんだん腹が立ってきた。
ここはやっぱり確実に相手を仕留めないことにはこの怒りは収まりそうにない。
でもどうやって?
とりあえず部屋の電気を点けるか?
いや電気点けたら蚊を見つけるまでが大ごとだぞ。だいたいこっちの眠気だって消えちまう。
プウウン。
どうも蚊はこっちとの距離を詰めてきているようだ。
待てよ。蚊ってどうしてこんな人を苛つかせるような飛び方をするんだ?
そうか、蚊にとっても光が無いと獲物を目視できないということか。
呼気の二酸化炭素で獲物の存在を感知しても、具体的にここに針をぶっさして血にありつけるかどうかという判断をすることはできない。となると……体温か。
人間の体温を頼りに餌場になりそうな場所を探して、たぶん俺の身体にギリギリ近づいてホバリングしているということなんだろう。
ってことは、動きは極端に鈍くなっているはず。電気を点けたら、その時点で回避行動を取られるから、蚊の撃退が難しくなるのは経験的に分かる。ならば暗い中で的確に滅殺できるかどうかが勝負ということだな。
戦略は見えた。
問題はその戦略が実行可能かどうかである。
改めて音に向かって全神経を向けるべく、まず身体の向きを天井に向かって正対させた。
そう、両耳の機能をフルに使うことで、蚊の方向と距離を掴めるようにするためだ。
身体を大きく動かしたことで、一度遠くへと離れたらしく、しばらくの間羽音は聞こえなくなった。
無音の状態が続く。
が、何か音とは違う圧力を身体が感じていた。
絶対にこの空間にいる。その圧力が身体に訴えていた。
やがて
ププーン
聞こえた。
分かる。
左9時方向から11時方向。仰角40度ぐらいだろう。距離は……よくわからないが遠ざかっている?
いや方向を変えたか。今度は近づいて……いない、気ままに方向を変えてるのか。
ひょっとしたら向こうもこっちの迎撃態勢に感づいたのかもしれない。
野性の勘は侮れない。
これはしばらく我慢比べだな。
音の大小を繰り返しているが、その大きくなるピークが徐々に大きくなってきた。
そう、呼気に含まれる二酸化炭素に惹かれて頭に近づいているのだろう。
が、先ほどから音を聞いていると左方向だけを遊弋しているようだ。
たぶん口や目がある真正面は蚊にとっての危険が大きいという本能があるのかもしれない。
つまりヤツの狙いはこっちの左耳から顔半分辺りにあるのだろう。
音の大きさから判断すると最接近時の距離は30センチよりもずっと近いはずだ。
こちらの手の大きさは長手方向で20センチはあるはず。
ピークで両手をパーンとやれば、圧殺できる可能性は高い。
問題は、パーンとやる一歩前の予備動作で相手に感づかれてしまうことだ。
また手を動かす動作で、羽毛布団で軽いとはいえ、それが蚊を逃がすバリアになってしまうことも考えられる。するとその動きを回避するにはどうしたらいい?
私は徐々に両腕を動かし、静かに掛け布団の脇から布団の上側へと腕を移した。
これで掛け布団によって腕が制約を受けることは無くなる。
また顔の左斜め上、近辺で正確に手を合わせられるように叩くことができるかどうかもイメージトレーニングした。
大丈夫、問題無い。
こんな準備をしていても、蚊の音の強弱は一定のリズムで続いていた。
ヤツはまだ気づいていない。
後は、いつ仕掛けるかだけだ。
音から蚊の姿を頭の中でイメージする。
そのイメージに従って、高速で合掌させるイメージを作る。
これなら行ける。
大相撲の中継で、「制限時間いっぱい」の声が掛かった時の力士の気持ちってのはたぶんこれと同じなんだろうな。
次の、ピーク音。と見切った瞬間、両手を動かした。
自分でも驚いたが、手応えがあった。
そう、手の平に間違い無くその残骸と思しき感触が残ったのである。
いや、気のせいかもしれない。と気を取り直し、また聞き耳を立てる作業に戻る。
どうやら気のせいでは無かったようだ。
羽音は消えたのである。
暗闇の中で蚊をたたき落とせる、確かな自信を得た日となった。
おしまい




