嘘つき少年とスズメバチ
門限を過ぎたころ、隆一は亮と浩志と別れ、自転車をこいでいた。夕日はまだ家々の合間に見え隠れしている。川沿いの道を急ぐ人は隆一だけだ。彼は自分の門限がほかの二人より早いことに日頃から不満を覚えていた。
門限を延ばしてもらえるにはどう切り出せばいいか考えていたとき、道路工事の継ぎ目を踏んだ。前かごに突っ込んだリュックサックに乗せていたボールが弾み、ガードレールの向こう側へ落ちてしまった。
川を覗くと、ボールはコンクリートの隙間から芽吹いたエノキの若木に引っかかっている。
ボールを川に落としてなくした話と、門限を延ばしてほしい話、これは同時にするには都合が悪かった。
エノキの近くまでは深い凹凸のあるブロックでできていて、全体が斜めに傾いていた。隆一はリュックサックを自転車のかごに残してガードレールをまたいだ。
「川に入ってはいけません」ガードレールに結びつけられた看板のなかでは、水に落ちそうな少女を、飛び出すほどに目を見開いた鯉が見上げている。だとしても、四年生の男には危ない場所ではないと隆一は考えた。
実際、ボールを脇に抱えたまま、隆一は簡単に道路に戻ってくることができた。自転車のリュックサックも誰にも盗られていなかった。ほんの十分かそこらで済んだことなのだ。
前かごのリュックサックを強く押しこんでしっかりとボールを安定させた。
「ねえちょっと、キミ」
隆一が振り返るとサンバイザーを顎の近くまで下ろしたおばさんが、大きなエコバッグを乗せた電動自転車にまたがっていた。
彼女はサンバイザーをぐいと持ち上げた。知らない顔だ。口を斜めに曲げているのが見えた。
「どこの小学校?」
「えっ……」
「どこの小学校?」
「……やまぶき、です……」
「何年生?」
隆一は押し黙った。
「何してたの、今」
おばさんは声が大きい。通り過ぎる高校生が何事だろうかと隆一たちを見ながら通り過ぎていった。夕日を背にしたおばさんの目元はサンバイザーの陰になっていてよく見えない。
「ボールを、落として」
ようやく絞り出した声に被せるように次の言葉が飛んでくる。
「入ったらだめでしょう!」
おばさんは今にも自転車から降りてきそうだった。
隆一は学校で先生に怒られるようなことはこれまでしたことがなかったので、強い言葉をかけられることに慣れておらず、頭の後ろが冷たくなってきた。片手は自分の自転車のハンドルを強く握っては弱めてを繰り返していた。
「あの……すみません」
「やまぶきの先生におばさん言わないといけんわ」
「すみません!」
隆一は素早く自転車のスタンドを蹴飛ばし、自転車にまたがって逃げ出した。
「まあ!」と背後からおばさんの大声が聞こえた。
隆一の顎は勝手にひくひく動いた。いつもと違う角で曲がり、何度も後ろを振り返った。
隆一はでたらめに町を走り抜け、とっくに門灯がついた門扉を開けながら「うう」と唸った。目から涙がにじんできて、鼻をすするだけでは間に合わなくなった。唇からこぼれかかった鼻水をティッシュで乱暴にぬぐいながら鍵を開けると、台所の母親が「隆一、遅すぎ!」と叫んだ。
しかし母親は隆一の様子を見てすぐに怒りを引っこめた。
「どうしたの? 何かあった?」
「蜂が」
隆一は母親から見えるであろう自分の姿を想像してしまい、思わず口からでまかせを言った。
「公園から帰ろうとしたら大きいスズメバチが、ふっ、ふう、ここに留まって、全然飛ばなくて……下敷きで飛ばせようとしたら、飛んだんだけど、耳のところに飛んできて、逃げて、スーパーの中で暗くなるまで待ってた」
もう一度目から涙があふれてきて、隆一は本当にそんな蜂がいたような気にさえなった。
「ええ!」
隆一はおばさんの曲がった口元を思い出して恥ずかしさと悔しさで泣きながら、母親に促されるままにリュックサックを肩から下ろした。その日の母親は優しかった。
次の日の下校前、担任の桑田先生が言った。
「けやき遊園近くの川沿いでスズメバチが飛んでいたそうだ。スズメバチは強い毒をもっている蜂で、刺されたら死んでしまうこともある」先生は指でスズメバチの大きさを示してみせた。
「こんなに大きな蜂だ。見かけたら近づいたり、刺激したりしないように」
隆一の母親が学校に連絡したらしい。
桑田先生はちらりと隆一を見たが、隆一のほうでは気づかないふりをした。
駿が手を上げながら、指名を待つそぶりもなく言った。
「そんなの絶対ゲジ寺じゃあん」
「ゲジ寺」「ゲジ寺」ささやきが広まる。
隆一の二つ前の席で薫が耳を赤くしていた。
けやき遊園の近くには木々の茂った寺があって、裏手は森に続いている。ギンヤンマやオニヤンマがよく捕れたが、駐車場に隣接する待合室の壁にゲジゲジがいるのでゲジ寺と呼ばれている。薫はその寺の子どもだった。
桑田先生はみんなを静かにさせた。
「どこに巣があるかわからん。いいか、巣を見つけたら先生かおうちの人に必ず言うこと。石なんか投げてみろ、病院で泣く羽目になるからな。わかったな、駿」
「俺だけえ?」
「みんなだ」
放課後、駿は早速蜂の巣を探す仲間を募っていた。
隆一は胸のあたりがうっすらと気持ち悪くなってきて、亮たちの誘いを断って家に帰ることにした。見回すと薫の姿はもうなかった。
子どもたちはめいめいの家に帰って晩ごはんを食べながらスズメバチの話をした。隆一の嘘の中に作り出された蜂なのに、親たちは我が子がスズメバチに刺されないか心配になった。
数日後、隆一は寺に蜂を駆除する会社の人が来たという噂を聞いた。
薫は学校を休みがちになり、次の週は一日も来なかった。
薫の机に虫の落書きが見つかり、桑田先生は本気になって怒った。教室は桑田先生の声がするほかはひどく静かだった。
次の土曜日、隆一は長袖のシャツと長ズボンを履いて町をさまよった。行き交う人々の多くは半袖で、リュックサックと背中のあいだでシャツはじっとりと湿った。
スズメバチがどんな場所にいるのかすらよく知らなかった。
蛇口のしまりが緩くていつも水が垂れている水飲み場、幽霊屋敷と呼ばれている空き家、開業前の市民プール、水草が増えてきた田んぼ、草が生い茂った空き地。思いついた順に自転車でまわり、空を見渡した。
昼になり、隆一は一度家に帰って今年初めてのそうめんを食べた。
「結局お寺にはスズメバチの巣、なかったんだって。気をつけなさいよ」
隆一は「ふうん」とだけ答えた。
「あんなに泣いてたくせに」
母親がからかうような調子で言うので隆一は「もういいって」と席を立った。
「ごちそうさまは?」
「ごちそうさま!」
氷が浮いた麦茶を飲み干す。底に残った氷が涼しげな音をたてて隆一を引き留めたが、彼は部屋で汗だくのシャツを着替えると、またすぐに出て行った。
一日で一番暑い時間だった。
隆一はもう朝から三時間も外にいたが、まだカラスの巣をひとつ見つけただけだった。
上を見ていると角から飛び出してきた自転車にぶつかりそうになったり、歩道の段差で滑りそうになったりするので段々と疲れてきた。
そのとき、ツツジの植え込みが続く坂道を横切ろうとした隆一の目に、一匹の蜂の姿が映った。大きい。スズメバチだ。橙色の体に脚をぶらりと下げて、今隆一がやって来たほうへと飛んでいく。
隆一は大急ぎで自転車の向きを変えた。決して見失うまいと思った。
スズメバチが向かったのは住宅地の外れにある小さな運動公園だった。懸垂をするための背の高い鉄棒めいた器具や腹筋をするときに足を掛けることができるようになったベンチは大人用だったので、この公園のことはすっかり忘れていた。
公園の前の道路に自転車を倒し、蜂を追う。奥へ進んでいくと錆びかけたフェンスがあり、その先は雑木林になっている。向こう側は急な斜面になっていて、下には信号がない道路を制限速度を無視した車たちがいつもどこかへと急いでいる。
そんな場所だからか、フェンスは定期的に点検されていて、雑木林のほうへ通り抜けられる場所はない。
スズメバチがフェンスをすり抜けていったとき、隆一は諦めきれず、フェンスに手を当てた。
すると、ほんの一メートルほど先に一本のクヌギが見えた。幹から樹液がしみ出していて、ハナムグリが押し合いへし合いそれを舐めている。スズメバチはそこにいた。
隆一はそっとしゃがみこんだ。自転車の鍵は抜いていない。あの蜂がここを離れたらきっと次は巣に戻ると思った。もう一息でスズメバチの巣が突き止められる。その道のりはもう終わりに近いように感じられた。たくさんのハナムグリが樹液の染みを取り囲んで体の向きをあっちへこっちへ変える様子は見飽きない。とはいえスズメバチがいつまでも広い場所を占有して飛び立つそぶりが見られないのはじれったかった。
足がしびれてきたころ、ふと、帽子のつばの隅に何かが見えた。
虫の脚だ。
とっさに帽子の後ろをつかんで放ると、そこにはもう一匹のスズメバチがいた。声が出ない隆一の前で重たい羽音が鳴る。
隆一の脳裏に浮かんでいたのは、彼を叱ったおばさんのサンバイザーの陰と、赤い自転車の後ろかごに積まれたエコバッグからはみだした食パンの袋の頭だった。
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