永遠の透明
亨おじさんのラボは、電球のふんわりした光に包まれていた。鎮座するアポロ軽11号も、優しく照らされている。
亨おじさんは、おもむろにラボの床に座り込み、持っていたコンビニの袋を開けた。中からお弁当を取り出し、割り箸を割って、食べはじめた。
「こんな時間にご飯食べるんだね」
話しかける私を、亨おじさんは一瞥もしなかった。
「引きこもりには、時計なんてあってないようなものだからな。外に出なければ、昼が夜かすら気にならない」
割るのに失敗して斜めに欠けた箸が、玉子焼きを摘む。私は亨おじさんと向かい合って、座った。
「おばあちゃんの言うとおりなんだろうな。私はバカなんだ。バカだから、いつも間違えてばかり」
間違えずに正しい道を選べる、賢い娘だったら、お母さんとお父さんから邪険にされることもなかった。今だって不用意な言葉で亨おじさんに八つ当たりしてしまった。
頭が悪いから、どうしたらいいのか、どうすればよかったのか、分からない。
「学校に、行けたらよかったのかな」
答えは分からない。ただ届かない月に向かって空を掻くように、思い描いてみる。
「そうすれば少なくとも、不登校よりは『普通』の枠に収まる。普通なら、お母さんに『扱いにくい』なんて言われなくて済んで、扱いにくくなければ、お父さんに『失敗』って言われることもなくて」
亨おじさんは、無言でお弁当を食べ進めている。私はそれを、ぼうっと見ていた。
「他の子は、つらいことがあっても我慢して学校に行く。私も、行かなきゃいけなかったんだ」
きっとそこから、間違えた。
亨おじさんが、おひたしを口に入れた。もぐもぐと咀嚼して、飲み込み、そしてふいに口を開いた。
「死ぬほどつらいなら、無理していく必要はない」
亨おじさんの箸が、漬物に伸びる。
「なんて、無責任なことは言えねえや。つらさから逃げた、その先のあんたの人生を、俺が保証してやれるわけでもない。あんたが欲しがる言葉をかけてやろうなんて、残酷で傲慢なだけだと思う」
社会的責任を放棄して引きこもっているくせに、亨おじさんはそう言った。いや、逆か。「責任」を重く受け止める人こそ、社会の重圧に耐えきれない。軽弾みに動けなくて、この人はこうなったのか。
「どうしたらいいのか。どうすればよかったのか。そんなの、俺だって知りてえや」
亨おじさんだって、答えを探していた。
「分かってたら、こうはなってねえ」
探すのを、諦めてしまったかもしれない。
亨おじさんは、顔を俯けて食事をしている。床で小さくなっていると、ぼさぼさの髪とみすぼらしい格好が、より貧相に見えた。
亨おじさんの箸が、弁当箱の中の白米を掻き集める。
「全然関係ない話だが、一応、あんたには言っておく」
最後のひと口を口に入れ、飲み込み、亨おじさんは箸を弁当箱の中に収めた。
「実は、月に永住することが可能なんだ」
「月に……永住?」
「おお。そうすれば何度も地球に戻ってくる必要がなくなる」
また空想の話だ。私が真剣に相談しているのに、しれっと話を変えられた。でも今度は私は、大人しく聞いていた。
亨おじさんは食べ終えたお弁当のパッケージをゴミ袋に突っ込んで、立ち上がった。
「月に行ってくる」
「えっ、わ、私も」
アポロ軽11号に乗り込む亨おじさんを、私も追いかける。助手席に座って、硬いシートに体を預けると、すうっと、リラックスできた。
目を閉じて、頭の中に月を思い浮かべる。直前に外で本物の月を見たおかげか、くっきりとリアルに思い描けた。お母さんとお父さんのやりとりは、忘れる。悲しかった気持ちは、地上に置き去りにするのだ。
黄色い車体がガレージを飛び出して、月に向かって飛んでいく。家が小さくなって、町が小さくなって、悩みも悲しみも、小さくなるようなイメージを重ねて。星空へと飛び込んだら、現実から切り離されて、どこまでもどこまでも高く上がっていく。
月は、遠くて手が届かない理想。
そして、誰もが見上げる共通の場所。
逃げた先に居場所があるのだと、私に少しの希望をくれた、近くて、遠い星。
「着いた」
亨おじさんのひと言で、景色が月面に変わる。少し泣きそうになる。心の傷は、きっと癒やされてはいない。ただ、痛みを忘れられる。
月の住民たちがのんびりと、こちらに集まってきた。ふわふわのウサギの姿だったり、幽霊みたいに透明だったり、皆、それぞれがそれぞれの姿をしている。
亨おじさんが、少しだけこちらに顔を傾けた。
「覚えてるか。月では、誰だって好きな自分になれる。なににだってなれると、話したこと」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
「月は本来、無人の星だ。この人たちは、皆、もとは地球人だった。俺と同じように逃避衝動エネルギーを発見して、月に逃亡できると知った人たちだ」
「えっ……!」
「地球から逃げてきて、月に永住することを選んだから、好きな姿になれたんだ」
亨おじさんの夢物語が続く。
「好きな姿になって、自由に暮らせる。その代償に、二度と地球には帰れなくなる」
「そう、なんだ」
不思議な姿をした月の住民たちが、ふわふわと、各々が好きに行動している。他の住民と関わっているようで関わっていない。関わっていないようで、無視はしていない。ひとりぼっちだけれど孤独ではない、そんな距離感を保っている。
亨おじさんは、そんな彼らの姿をどこか遠い目で見ていた。
「俺も何度も、こっちに住みたいと思っちゃあいた。だが地球に生まれた以上、なかなか踏ん切りがつかねえんだ」
「そうだよね。地球の現実はもうたくさんだけど、帰ってこられなくなると思うと……」
これは、ただの空想の話だ。本当に月に行ってしまうわけではないはず。だから亨おじさんのこの言葉が、なにを意味するのかは、分からない。
「それは、なんていうか、その」
「だよな。あんたはまだ若い。未来がある。今を乗り越えれば、まだなにかが変わるかもしれない」
「そうかな?」
「そうだ。例えばあんたが、その感性を生かして、天才科学者になる。別にバカじゃねえから、勉強しまくればなれる思う」
面白い発想だ。遠い理想の、夢物語だけれど。
「そして宇宙船でも開発してやれば、両親も婆さんも、意地悪を言う学校の奴らも、全員見返してやれる。他人を見下して上に立った気になってる、本当はなんにもできないお前らとは違って、こっちは天才なんだよ。ってな」
「それだったら亨おじさんもでしょ?」
「俺はあんたとは違う。若くないからじゃねえ。やる気の問題だ。この年になるまで、変わろうとしなかったんだから、この先もこのまま変わらないつもりでいる」
亨おじさんが、浅く長く息を吐いた。
「さっき、引きこもりには、昼が夜かすら気にならないと話したな。あれは嘘だ」
もさもさと冷えたお弁当を食べていた、数分前の亨おじさんの顔が思い浮かぶ。亨おじさんが、淡々とした口調で言う。
「本当は、明るい時間に外に出られないんだ。他人の目が怖い。深夜にしか外出できない。それも、何度か行って、店員に慣れられてるコンビニだけ」
初めて、この人の胸の内を聞いた気がした。
「昼も夜も気にならないどころか、気になって仕方がない。明るい時間に外に出て、他人から見られて、どう思われるか。気にならないわけがない。夜中なら、少しは息をしやすい」
ああ、そうか。
私は自分のことばかり亨おじさんに訴えていたけれど、亨おじさんだって、いろいろ抱えていたはずだ。毎日のように現実逃避をして、理想の世界に浸って過ごすほどに。
考えたら分かる。あのおばあちゃんがこの人のお母さんで、長男と比べられて、邪険にされて生きてきた人だ。
幸せも不幸も本人が決めるものだ。他人の人生を、勝手に辛いものだと決めつけてはいけないとは思う。思うけれど、亨おじさんの立場を自分に置き換えると、息ができなくなる。
どうせ息ができないなら、酸素のない月にいたい。悲しみのない、優しい場所で、呼吸をやめたい。
「いっぱい嫌な思いしたよね。でも私は、少なくとも私は、亨おじさんに、もうこれ以上傷つかないでほしい」
この人は、外に出るのが怖くなるほど、たくさん傷ついてきたのだ。そのくらいは想像できるのに、経験が浅くてものを知らない私には、こんな陳腐な言葉しかかけられない。
「自分のことをはみ出し者って言ってたけど……私にとっては、唯一居場所をくれた人だったんだよ」
どこにも隠れられなかった私を、このガレージに招いてくれた。亨おじさんだけの秘密の隠れ家だったのに、そこに、私を入れてくれた。他人が怖かったはずだ。それなのに、ほぼ他人の私に、勇気を出して手を差しのべてくれた。
そのひとつの優しさに、どれだけ助けられたことだろう。
亨おじさんは、辟易した顔でため息をついた。
「そんなに美化すんなや。俺はただの引きこもりのおっさんだろうが」
「そうだけどさあ」
「俺がこんなだから、母さんは俺と兄貴を比べて、兄貴に執着するようになった。母さんがそうだから、兄貴が他人を見下すようになった。そんな男と結婚したから、あんたの母さんは消耗して、あんたに当たってる。元はと言えば、あんたを苦しめてる元凶は、俺だ」
そんなことを思っていたのか。私がつらいと嘆く度に、亨おじさんは、自分を責めていたのだろうか。
「違うよ。仮にそうだとしても、亨おじさんは、私にとっては特別な人だよ。私に逃げ場をくれた人」
社会から外れた人だとしても、彼の価値はなににも代えられない。
亨おじさんは、そうか、と呟いた。いつも顔が硬い亨おじさんが、少しだけ、頬を緩ませる。それから彼は、ゆっくりと顔を俯けた。
「……ああ。現実の話なんかしたから、アポロ軽11号の逃避衝動エネルギーが減衰してる。このままじゃ、現実に引き戻されるぞ」
「そうだった。月にいるには、ずっと空想をしていないといけないのに」
私が言うと、亨おじさんはまた、先程の夢物語を繰り返した。
「あんた、科学者を目指してみないか。まずは宇宙工学の知識をつけな。それがついたら、俺のこのアポロ軽11号のメンテナンスは、あんたに任せる」
「できるかな?」
「やるんだよ。そんで、バカ共を見返せ」
と、亨おじさんが言ったときだ。
ガンガンッと、ガレージのシャッターが叩かれる音がした。思わず瞼を上げる。目の前に、雑然としたガレージの中の秘密基地が呼び戻された。
ガシャンと、また、シャッターが揺れた。
「澪! 澪、ここにいるの!?」
お母さんの声がする。私が家からいなくなったことに気づいたのだ。
「澪!」
お父さんの声も続いた。そうか。ふたりで来たか。流石にこのまま無視はできないけれど、亨おじさんの秘密のラボを見られてしまうのも嫌だ。
ちらっと、運転席に目をやった。亨おじさんの反応を確認しようとして、え、と私は声を漏らした。
そこには、誰も座っていないからっぽのシートがあるだけ。
亨おじさんの姿は、まるで初めからなかったかのように、忽然と消えていた。




