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真空の夜

 翌日、私は思い切って学校へ行ってみた。教室に入るなり物珍しそうな目を向けられ、一部生徒からはくすくす笑われた。

 月の景色を思い浮かべる。亨おじさんと見たあの場所で、歓迎してもらえたときの気持ちを思い起こす。大丈夫、私にも、居場所はある。それが、この教室ではないだけ。


 授業が始まって、一時間目を乗り越えたけれど、その一時間の内に私の心は消耗した。授業に集中したくても、クラスの皆の視線が気になる。手紙を回してくすくす笑われているのが、すごく嫌だった。

 逃げるように保健室に行ったものの、保健の先生に「折角登校できたのに」と面倒くさそうに苦笑いされて、また教室に戻った。


 休み時間に図書室に行ってみる。件の図書委員の先輩は、気まずそうに席を外した。そうか、先輩だって迷惑しているのか。


 月は、心の居場所だ。現実に戻っても、私を支えてくれる。

 でも、それはただの空想でしかない。今目の前にある現実を直視すると、気づいてしまうのだ。

 居場所が、見つからない。


 結局私は耐えられなくなって、午前中の内に早退してしまった。

 下校してすぐ、鞄も置かずにおばあちゃんの家の敷地へ駆け込んだ。インターホンは鳴らさない。玄関の前に設置された、シャッターの閉まったガレージへと急ぐ。


「おじさん! おじさん!」


 頭の中はもう、現実から逃げることしか考えていなかった。私の声と足音を聞いて、亨おじさんがシャッターを開ける。


「来たか」


 亨おじさんのガレージ――もとい、ラボの扉が開かれると、中にあの黄色い軽自動車が見えた。ふっと、心が軽くなる。


「月に行きたい」


「分かった分かった。行こう」


 逸る私を宥めるように言って、亨おじさんは、アポロ軽11号の運転席に乗った。私も隣に乗り込み、昨日と同じように目を閉じた。視界が真っ暗にして、嫌な現実の全てをシャットアウトする。


「あのね、亨おじさん」


 私はふうと、浅い息を吐いた。


「学校、つらかった。早く月に行きたくて、私、途中で帰ってきちゃった」


 我ながら情けない。亨おじさんに呟くと、彼は言った。


「前にも話したとおり、この宇宙船は現実逃避の力を推進力にする。逃げたい気持ちが強いほど、すぐに月に行ける」


「そう? じゃあ、学校から逃げてきた私なら、一瞬かな」


 黄色い車体が空に浮く、そんなイメージを膨らませる。


「今日は天気がいい。風もなくて、気持ちのいいフライトになりそうだ」


 亨おじさんの言葉で、空中の空気をよりリアルに想像できた。


「昼間の空にも月が見えるね」


「月はいつもそこにあるからな。夜よりも薄く見えるけど、ちゃんと飛んでいけば、届く」


「近づいてきてる。あっという間だね」


 学校でひとりで空想していたときとは、全く違う。この軽自動車に座って、亨おじさんと会話を交わすと、本当に飛んでいるみたいな気分になれる。


「もう着くぞ。着陸の振動に備えろ」


「うん。到着だね」


 会話で、空想のシーンを進めていく。亨おじさんが言う。


「月は静かだね。音がなくて、心臓の鼓動だけが響いてる」


「そうだ。月面は真空だ。けれど、静けさが音になる」


 亨おじさんの不思議な言葉が、私を現実の外へと連れ出してくれる。

 月の住民たちが各々、自由に過ごしている様子が見える。私は想像の中で車を降りた。足元は灰色で、粉っぽくて、そして光る花が咲いていた。


「月面は月の粉が広がってるんだね。歩くと足跡が残って、消えない」


「それは、歩いてきた証だ。逃げてきた跡も、それは絶えず前に進んだ証ってことだ」


「光る花が咲いてる」


「道標だ。進んだ先の道を照らす光」


 空想に浸り、心を解放していく。体が溶けていくようだ。

 全部空想、嘘の世界。でも、その嘘の中では、知らない世界が私を優しく迎えてくれる。亨おじさんも邪魔をしない。くだらない妄想ではしゃぐ私を、冷笑したりしない。ここでは、私は自由だ。


「空が真っ黒で、星が大きく見える」


「月は地球よりも星に近い。だから孤独じゃない。星々が仲間になる」


 没入感が増していく。現実が、遠くなる。

 こうしていると、逆に、家や学校での出来事のほうが夢だったみたいな気持ちになる。


 もっと月を探検しよう。そう思ったとき、ダンッと音がした。思わず目を開けてしまった。視界が一気に、ガラクタ部屋のガレージに染まる。

 ガンガンガン、と、シャッターが叩かれている。


「亨! 亨、話し声が聞こえるんだけど? 誰かいるの?」


 おばあちゃんだ。そうだ、おばあちゃんは同じ家に住んでいながら、鍵のかかった亨おじさんのガレージには入ったことがない。それなのに、ここから亨おじさんが誰かと喋っている声が聞こえれば、不審がっても不思議ではない。

 亨おじさんが、鬱陶しげにゆっくりと目を開いた。


「地球に戻されちまった。アポロ軽11号は現実逃避をエネルギーにする宇宙船だからな、現実味の強い存在が介入してくると、強制的に帰還してしまう」


「なに? 亨!」


 ぼそぼそと喋る亨おじさんの声は、シャッターの向こうのおばあちゃんにははっきりとは聞こえていない。私はシートに縮こまった。


「ごめんね、亨おじさん。私が押しかけたせいで。今出て行ったら……このラボの中、おばあちゃんに見られちゃうよね」


「ほっとけばいなくなる。そしたら隙を見て帰るんだな」


 やっぱり、現実なんて嫌いだ。どこまでも逃げて、逃げて、月に逃げ切れたらいいのに。



 その夜、私は深夜に目が覚めた。水を飲みにダイニングに向かい、扉を開けようとして、手が止まった。電気がついている。


「ねえ、ちゃんと聞いて」


「疲れてると言ってるだろう。澪のことは全部お前に任せたはずだ」


 お母さんとお父さんの会話が聞こえる。


「お義母さんから言われたの。あの子、どうもお義母さんの家の……亨さんのところへ行ってるみたいで」


 お母さんのその言葉で、私はびくっと、体が固まった。お父さんの声に棘が増す。


「亨!? なんで澪が亨のところへなんて行くんだ!」


「分からないから相談してるの!」


「澪があんな出来損ないと、なにをしてるんだ? 気持ち悪い」


 お父さんの軽蔑した言い方が、私の全身を冷たくしていく。お父さんがお母さんを責めた。


「お前、母親だろ? なんで把握してないんだ。分からないじゃ済まされないぞ」


「そっちだって澪のことを私に押しつけて、自分はなにも面倒見てないじゃない!」


 お母さんのヒステリックな声が響く。私は廊下で凍って、動けずにいた。

 お父さんがまた、低い声でお母さんを威圧する。 


「そもそもあいつが学校に行かないのは、お前が子育てに失敗したせいだ」


「私のせいにばかりしないで! あんな扱いにくい子、私ひとりで見切れるわけないでしょ」


 自分の中で、ぷつんと、なにかが切れた気がした。


 私はお父さんにとって失敗作で、お母さんにとって厄介者。

 分かっていた。分かりきっていた。けれど、本人たちの口からはっきり聞いてしまったら、自分でも驚くくらいしっかり傷ついた。


「う……」


 私は拳を握って、パジャマのまま駆け出した。靴を足に突っかけて、玄関から外へと飛び出す。

 静まり返った夜の闇を見上げると、銀色の満月が、煌々と輝いていた。


 このまま家にはいたくない。でも、どこへ行けばいいのだろう。

 一周回って冷静になってしまったのだろうか。感情が溢れ出すというより、呆然と立っている自分を客観視しているような、変な気分だ。心が凍りついて、涙も凍ったのだろうか。悲しいのに、泣けない。


 夜の冷たいアスファルトに立ち尽くしていた、そのときだった。


「おい」


 聞き慣れた声がした。振り向くと、コンビニの袋を持った、亨おじさんがいる。


「こんな時間になにしてんだ」


「亨おじさん……」


 襟ぐりの伸びたシャツに、よれたハーフパンツ、整えていない髪。不摂生を物語る体型と肌。亨おじさんのだらしない姿が、夜の街路灯の下で浮かび上がっている。それを見ると、なぜだが胸がきゅうっと、苦しくなった。


「亨おじさん。私、もう地球のどこにも居場所がないみたい」


「そうか」


「どうしたらいいの? 私、どうしたらよかったの?」


 吐息とともに、弱く震えた声が出る。亨おじさんの手元で、コンビニの袋がカサリと鳴った。


「そうか。まあ、月にでも行くか?」


「冗談言ってる場合じゃないの」


 満月の下で、私は叫んだ。叫んだつもりだったが、掠れて声が出なかった。


 空にぽっかりと穴があいたように、満月が浮かんでいる。

 手を伸ばせば、届きそう。でも本当はずっとずっと遠くにあって、行けるはずもない。そんなこと、ずっと、最初から分かっていた。


 月になんて行けやしない。分かっているのに、私は自分と同じように現実逃避ばかりしている亨おじさんに甘えて、逃げた気になっていた。本当はこの現実から、一歩も進んでなんかいないのに。


「月になんて行けないの。逃げ場なんかないの。私の居場所は、どこにもない」


 声にならない声が、冷たい夜の闇にしんと吸い込まれる。亨おじさんは、しばらく黙っていた。

 数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと口を開いた。


「……そうか」


 亨おじさんは、ゆっくりと、ガレージの方へと足を向けた。


「夜中に外で騒ぐのは、良くない。落ち着くまで、ガレージにでもいようや」


 私ははっとした。ああ、私は今、亨おじさんが作ってきた月の幻想の世界を、否定してしまった。

 この人はいつも、今も、一度たりとも、私を否定しなかったのに。

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