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魔術

「すみません、蜜井さん。本当にオーディションに受かると思ってなかったから、先のこと全然考えてなくて」


 あれから一週間。僕は一旦先生とともに地元へ帰ったあと、また、蜜井さんのいる東京へと戻ってきていた。


「事務所に所属するとこっちで暮らすことになるとか、その場合母さんをどうするかとか、分かってませんでした」


「いいんだ。それよりも君がうちに所属してくれる嬉しさが上回っているからね」


 蜜井さんは僕に甘い。それほどまでに僕のダンスを求めてくれていたのだと、痛感する。


 フェニックスステージの所属アーティストは、若手のうちは事務所の寮に住む決まりがあった。母さんを置いては引っ越せないから、やはり辞退すると言ったのだが、蜜井さんは退かなかった。


「我が事務所のアーティストは、他にも複雑な事情を抱えた人は多い。そういう人のために、福利厚生は手厚い自信がある」


 母さんは、事務所の計らいで、母さんみたいな人が入所できる施設に入った。母さんは最初は暴れたけれど、適切な療法を取ってくれるスタッフに囲まれ、徐々に落ち着いてきた。大人しくテレビを観て過ごしている。

 僕の暮らす寮は、家具家電備え付け、家賃は格安で、これまた恵まれた環境だった。お金があったらいつか引っ越したいと思ってはいたが、こんな形で、地元を離れることができるとは思わなかった。


 羽鳥先生とはお別れになってしまったが、ここへ送り出してくれた先生への感謝は忘れない。

 これからは僕は、自分の足で立つ。自分の翼で、羽ばたく。


 オーディションで勝ち取った芸術祭への出演は、一ヶ月後だ。

 蜜井さんのプロデュースで、僕はイカロスとしてのダンスレッスンを受けた。基礎ができているから、振り付けを覚えるだけだった。


 不織布マスクで顔の半分を隠して、レッスンをこなす。レッスン中も、寮で過ごすときも、マスクは外さない。他の所属アーティストやスタッフと会うとき、なるべく、親父との関係性に気づかれないためだ。

 僕があの男の息子であると知っているのは、今のところ、蜜井さんをはじめとする事務所の重役ポジションだけである。他の人に知られれば、どんな反応をされるか分からない。素性を隠させてほしいと、僕から頼んだ。


 実際のステージに近づけたセットで、僕は一連の振りを終えた。蜜井さんがよし、と腕を組む。


「それじゃあ、次は照明を合わせよう」


 僕の舞台は、僕ひとりでは完成しない。蜜井さんの照明――太陽の演出ありきで、初めて形になる。


 彼は舞台の上に太陽を呼び、月を沈める男だった。

 観客が目にする光と影は、すべて彼の指先から生まれる。照明機材を自在に操り、光を布のように折り畳み、影を彫刻のように刻む。

 その演出は、踊る者の顔を覆い隠し、時に夢を照らし、時に真実を焼き尽くす。


 人々は彼を「照明の魔術師」と呼んだ。


 彼の照明は、強い光で照らして暈し、影で真っ暗に、光のコントラストで錯覚を起こし、僕の顔を隠す。


 最初は、照明を利用して全身シルエットにしてしまう案も出された。顔が見えるリスクがゼロになるから、安心ではあった。

 だが、肉体の立体感や衣装まで見えなくなって、表現の幅が減る。ただでさえ目線や表情という表現を封じてしまうのだから、残せる武器は残したい。舞台のあらゆる表現を尽くして完成させる、ひとつの形にするためには、シルエットでは物足りなかった。

 だから僕は、蜜井さんの演出を信頼して、光の加減を利用した表現に任せることにした。


 蜜井さんは僕を手放したくないようだし、事務所のサポートは手厚い。母さんのことは、見ていてくれる人がいる。イカロスを名乗る僕は、顔も名前も晒さない。親父とは完全に切り離されている。

 今なら、僕はダンスにだけに集中できる。



 振り付けを繰り返すごとに、完成度が高まっていく実感があった。僕のダンスが極まれば、蜜井さんもますます乗ってきて、彼の照明ワークにも一層磨きがかかった。

 芸術祭の当日には、研ぎ澄まされた舞台が完成していた。


「続いての演目は、初披露の期待の新星、『イカロス』です」


 真っ暗な広いステージに立ち、僕はアナウンスを聞いていた。暗闇の中では、観客からは僕がいることすら見えていない。

 数秒の静寂ののち、ぱっと、舞台が急に明るくなった。強い光に照らされる。僕は観客席に向かって真正面を向いているが、顔は誰にも見られていない。光で白飛びして、見えないはずなのだ。


 音楽が流れはじめる。序奏に合わせて一歩踏み出すと、照明も、その一歩の幅に合わせて角度を変えた。

 顔を横に向けると照明は反対向きに動き、今度は顔が影になり、横顔のシルエットだけが観客に晒される。

 腕を広げると空気が震え、足を蹴り上げると、まるで宙に浮かんだような感覚が走る。


 体幹、神経、筋肉、体の全てが僕の思うままに動く。一歩の幅も、跳ぶ高さも、指先の角度も、そのひとつひとつの動作が、蜜井さんとのレッスンで数ミリ単位で決められた。

 僅かな誤差も許されないのは、全て、照明とのバランスを崩さないためだ。正確に踊ることで、ちょうど顔に光と影が当たる。

 蜜井さんが太陽と呼ぶ、舞台の照明。太陽が、僕を守ってくれる。誰も父の面影を見つけられない。

 この瞬間だけは、僕は僕自身だ。

 どれほどの数の観客がいても、緊張しない。心が解き放たれている。光と影の中で、僕はただ空を追うイカロスになっていた。


 その芸術祭のあと、舞台芸術界隈はイカロスの話題で持ちきりになった。

 あの大物演出家が繰り出した、奇跡の新人。照明を利用した顔を見せない舞台。明かされない素顔。舞台芸術ファンたちは、僕の演技に注目しはじめた。


「いいぞ。話題になると思ったんだ。ならないわけがない」


 芸術祭の感想をまとめられたWeb記事を見て、蜜井さんが、拳を握った。


「このまま一気に売り出すぞ。と言っても、顔は出さずに、な」


 顔を見せないアーティスト自体は珍しくない。だが、光と影を使った曖昧な方法で、見えそうで見えない隠し方をしているのは、珍しい。「あと少しで見えそうだ」と感じさせ、観客の視線を釘付けにする。でも、こんなに曖昧な隠し方なのに、素顔は万が一にも見えない。それが余計に、観客の心を掴む。

 蜜井さんは、この表現と僕のダンスの組み合わせに、たしかな手応えを感じていた。


「照明の使い方が特殊だから、話題になったんじゃない。イカロスのダンスの実力があってこそだ」


「そんな……僕は、蜜井さんが確実に顔を隠してくれるから、堂々と踊れるんです」


「ははは。お互いの能力に支えられて、この舞台ができたんだよな。これからもお互い、実力を全力でぶつけ合って、舞台を作っていこう」


 照明の魔術師は、僕に魔法をかけた。

 翼を手に入れたイカロスは、勇気を胸に、空へと飛び立つ。蜜井さんが作る、照明という太陽の光を借りれば、僕も空を舞うイカロスになれるのだ。

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