神話
かつて、空を翔けようとした若者がいた。名はイカロス。
人は光を夢見る。
イカロスもまた、太陽を目指して羽ばたいた。
鳥の羽根を蜜蝋で固めた翼で、彼は大空を自由に舞った。
どこへ行くかは、彼次第。彼の心が決める。
乱気流も大嵐も、飛べない不安も、墜落の恐怖も、背中の翼で乗りこなす。
勇気を持って飛び立った者だけが、天空を知るのだ。
*
音を聴いて、旋律と一体になって。リズムに体を任せて、でも流されないで。
意識は指先にまで集中して、全身の筋肉を使って、靭やかに、軽やかに。小鳥から離れた羽毛が、風に吹かれてくるくると、自由に舞い踊るように。
光と、音と、ひとつになる。僕を含めた全てが、芸術なのだと。
「第――回、全国高校生ダンスコンテスト、優勝は……」
薄暗いホールに響くアナウンスが、僕の心臓を締めつける。ほんの数秒の溜めの隙に、息が詰まりそうだ。
「――高等学校、ダンス部一年、大田翼!」
名前が呼ばれた瞬間、周辺がわっと沸いた。周りに座る同級生たちが一斉に僕に注目し、歓声を上げる。僕をここまで育ててくれた講師の先生は、満足げに拍手をした。
全国大会のために会場まで足を運び、観覧していた母さんが、泣きそうな顔で僕に飛びつく。
「すごいわ翼! あなたなら全国を獲れると信じていた!」
あの日のあの場所では、僕は舞台の主役だった。
あの瞬間が、僕の人生のピークだった。
*
「うわああー! もう嫌! なにもかも嫌!」
ガシャンと、食器の割れる音がした。その音と悲鳴に近い大声で、僕は目を覚ます。
ああ、しまった。少し寝てしまった。おかげで懐かしい夢を見た。
鏡の前で、髪を最低限、整える。畳の跡がついた顔をひと睨みして、不織布のマスクで顔の下半分を隠す。部屋を出て、キッチンに見えた人影に向かって、僕はひと声かけた。
「母さん、仕事に行ってくるね」
「黙れ黙れ黙れ! お前も私に不幸になれと言いたいんだろう! 来ないで! あの人そっくりの顔なんて見たくもないの! うわああん」
母さんがこちらにコップを投げてきた。幸い、プラスチックのコップだった。包丁を投げられたときに比べれば、かわいいものである。
喚き散らしたあとに今度は子供みたいに泣き出す母さんを、僕はそのままおいて出かけた。母さんがああなるのは、いつものことだ。
今日は臨時で入った昼の引っ越し会社の仕事のあと、ひと眠りしてしまった。夜のコンビニバイトに間に合う時間に起きられて、良かった。
バイト先の店に着くと、シフトが重なっていた先輩が笑顔で僕を呼び寄せた。
「来たな、伊狩」
「はい。今日もよろしくお願いします」
「お前、いつもマスクつけてるよな。目元きれいだし、イケメンっぽいのに」
この先輩は業務中も話しかけてきて、苦手だ。僕はあまり、自分のことを深掘りされたくない。
自動ドアのセンサーが反応して、来客を知らせるチャイムが鳴る。僕はここぞとばかりに、先輩を振り払った。
「お客さん来たんで、あとにしてください」
「素っ気ないなあ。よくシフト被るから、仲良くなろうと思って声かけてんのに」
それが迷惑だというのが分からないのだろうか。
無視をする僕の前に、先程の客がやってきた。初老のおじさんだ。彼は煙草の棚を指差す。
「✕番、お願い」
「はい。……あ」
改めてその客の顔を見て、気づく。彼はにこっと、僕に笑いかけた。
「よう、お疲れさん。頑張ってんな、伊狩」
彼の細い目が、ちらっと、制服の胸のネームプレートを見た。僕はマスクと前髪の隙間から覗く目で、ひとつ、まばたきをする。
「こんばんは、羽鳥先生」
彼に背を向けて、煙草を取り出す。客、羽鳥先生は、カウンターに軽くもたれかかって、僕の仕草を観察していた。
「今夜のバイトは何時までだ?」
「零時までです」
「そんなに遅いのか。まあいい、駅前のファミレスなら、二時まで開いてるからな」
先生はいたずらっぽく笑い、僕から煙草を受け取った。
「飯、奢ってやるよ」
「要りません」
「そうかい。来なくても、二時までファミレスで待ち続けてやるからな」
羽鳥先生は、以前からこうだ。飄々としているようで頑固で、世話焼きで、僕を放っておかない。
先生は代金を支払うと、煙草片手に店を出ていった。僕は少しマスクを引っ張って、位置を直した。斜め後ろにいた先輩が、ちらっと、僕の顔を覗き込む。
「あ、やっぱイケメンだ」
「やめてください」
「なんかあれだよ。誰かに似てる。最近ネットで見た気がするんだよな」
先輩がそう言って指をくるくる回しだしたのを見て、僕は漠然と思った。
このバイト、もう続けられない。次を探そう。
*
午前零時を少し過ぎた頃、僕は駅前のファミレスに顔を出した。夜中の店内はすっからかんで、テーブル席で手を振る羽鳥先生は、すぐに見つかった。
「伊狩、こっちだ。お疲れさん」
先生の様子を見て、店のスタッフが僕を彼の元へと案内する。先生はすでに、コーヒーを飲んでいた。彼はメニューを開いて、僕に差し出す。
「なに食う? こんな時間まで働いて、腹減ったろ」
「まあ、はい」
メニューを見ている僕を、先生はじっと見つめている。
「あのな。今日はお前さんに、見てほしいものがあってな」
先生はそう前置きして、鞄から、クリアファイルに入ったチラシを取り出した。
「これ、市内のダンススタジオにあったんだ。東京の舞台芸術会が、芸術祭に出演する新人ダンサーのオーディションを……」
「ダンスはもうやりません。何度も言ってます」
僕は先生の発言を遮って、ぴしゃっと言い切った。先生は一瞬言葉を呑み、数秒後、出しかけたチラシを鞄に戻した。
「そうか。そうだったな。好きなもん食え。どうせ家じゃ食ってねえんだろ」
先生の皺の寄った口が笑う。僕はメニューをぱらぱらと流し見て、とりあえず、オムライスを選んだ。
先生はコーヒーをひと口啜った。
「まだ十七なのに、子供がこんな時間まで働くもんじゃねえぞ」
「でも、母さんが働けないから」
「俺が紹介した、行政の福祉サービスは?」
「ありがたく頼ってますよ。それで全部は解決しないってだけ」
スタッフが僕の分のお冷を持ってきた。僕は小さく会釈して受け取り、その水で渇いた喉を潤す。
「今日のバイト先のコンビニは、もう辞めます」
「ほう。深夜まで働く必要がないから、じゃなさそうだな」
先生の微笑みが強張る。僕はお冷のグラスを、両手で包むように支えた。
「先輩に、顔を見られたんで」
「そうか。でも、そのくらい大丈夫だと思うぞ」
「だめです。『誰かに似てる』って言われた。ネットで見た顔とも言ってたし、今は気づいてなくてもそのうちバレる」
はあ、と僕がため息をつくと、先生はぴくりと眉を寄せた。
「神経質しすぎやしねえか? そんなに勘の鋭い先輩かよ」
「先生には他人事だから、そんなこと言えるんです」
「他人事って。俺にとってお前さんは……」
「他人事だろ。先生の親は、人を殺してないんだから」
一瞬、店内の空気が凍った気がした。はっと顔を上げる。よそのテーブルで皿を下げていたスタッフが、こちらを見ずにすっと厨房へ入っていった。
聞かれたかな。聞かれただろう。
僅かな沈黙のあと、先生は頷いた。
「そうだな。他人だよ。だけど俺は俺なりに、お前さんを支えたいと思ってる。お前さんの近くにいる、大人のひとりとして」
そしてゆっくりと、目を閉じる。
「これは、俺の一方的なエゴである前提で聞いてくれて、構わないんだけどな。お前さんは、俺の中で特別な生徒だったんだ。本気で、お前さんに期待してた」
微睡みの中で見たあの夢が、ふっと、脳裏をよぎる。
「舞台で踊る伊狩は、芸術そのものだった。この才能の塊を、表舞台に羽ばたかせたい。俺はそれひとつで、あの頃、全力だったんだよ」




