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神話

 かつて、空を翔けようとした若者がいた。名はイカロス。


 人は光を夢見る。

 イカロスもまた、太陽を目指して羽ばたいた。

 鳥の羽根を蜜蝋で固めた翼で、彼は大空を自由に舞った。


 どこへ行くかは、彼次第。彼の心が決める。

 乱気流も大嵐も、飛べない不安も、墜落の恐怖も、背中の翼で乗りこなす。


 勇気を持って飛び立った者だけが、天空を知るのだ。





 音を聴いて、旋律と一体になって。リズムに体を任せて、でも流されないで。

 意識は指先にまで集中して、全身の筋肉を使って、靭やかに、軽やかに。小鳥から離れた羽毛が、風に吹かれてくるくると、自由に舞い踊るように。

 光と、音と、ひとつになる。僕を含めた全てが、芸術なのだと。


「第――回、全国高校生ダンスコンテスト、優勝は……」


 薄暗いホールに響くアナウンスが、僕の心臓を締めつける。ほんの数秒の溜めの隙に、息が詰まりそうだ。


「――高等学校、ダンス部一年、大田翼!」


 名前が呼ばれた瞬間、周辺がわっと沸いた。周りに座る同級生たちが一斉に僕に注目し、歓声を上げる。僕をここまで育ててくれた講師の先生は、満足げに拍手をした。

 全国大会のために会場まで足を運び、観覧していた母さんが、泣きそうな顔で僕に飛びつく。


「すごいわ翼! あなたなら全国を獲れると信じていた!」


 あの日のあの場所では、僕は舞台の主役だった。

 あの瞬間が、僕の人生のピークだった。



「うわああー! もう嫌! なにもかも嫌!」


 ガシャンと、食器の割れる音がした。その音と悲鳴に近い大声で、僕は目を覚ます。

 ああ、しまった。少し寝てしまった。おかげで懐かしい夢を見た。

 鏡の前で、髪を最低限、整える。畳の跡がついた顔をひと睨みして、不織布のマスクで顔の下半分を隠す。部屋を出て、キッチンに見えた人影に向かって、僕はひと声かけた。


「母さん、仕事に行ってくるね」


「黙れ黙れ黙れ! お前も私に不幸になれと言いたいんだろう! 来ないで! あの人そっくりの顔なんて見たくもないの! うわああん」


 母さんがこちらにコップを投げてきた。幸い、プラスチックのコップだった。包丁を投げられたときに比べれば、かわいいものである。

 喚き散らしたあとに今度は子供みたいに泣き出す母さんを、僕はそのままおいて出かけた。母さんがああなるのは、いつものことだ。


 今日は臨時で入った昼の引っ越し会社の仕事のあと、ひと眠りしてしまった。夜のコンビニバイトに間に合う時間に起きられて、良かった。

 バイト先の店に着くと、シフトが重なっていた先輩が笑顔で僕を呼び寄せた。


「来たな、伊狩」


「はい。今日もよろしくお願いします」


「お前、いつもマスクつけてるよな。目元きれいだし、イケメンっぽいのに」


 この先輩は業務中も話しかけてきて、苦手だ。僕はあまり、自分のことを深掘りされたくない。

 自動ドアのセンサーが反応して、来客を知らせるチャイムが鳴る。僕はここぞとばかりに、先輩を振り払った。


「お客さん来たんで、あとにしてください」


「素っ気ないなあ。よくシフト被るから、仲良くなろうと思って声かけてんのに」


 それが迷惑だというのが分からないのだろうか。

 無視をする僕の前に、先程の客がやってきた。初老のおじさんだ。彼は煙草の棚を指差す。


「✕番、お願い」


「はい。……あ」


 改めてその客の顔を見て、気づく。彼はにこっと、僕に笑いかけた。


「よう、お疲れさん。頑張ってんな、伊狩」


 彼の細い目が、ちらっと、制服の胸のネームプレートを見た。僕はマスクと前髪の隙間から覗く目で、ひとつ、まばたきをする。


「こんばんは、羽鳥先生」


 彼に背を向けて、煙草を取り出す。客、羽鳥先生は、カウンターに軽くもたれかかって、僕の仕草を観察していた。


「今夜のバイトは何時までだ?」


「零時までです」


「そんなに遅いのか。まあいい、駅前のファミレスなら、二時まで開いてるからな」


 先生はいたずらっぽく笑い、僕から煙草を受け取った。


「飯、奢ってやるよ」


「要りません」


「そうかい。来なくても、二時までファミレスで待ち続けてやるからな」


 羽鳥先生は、以前からこうだ。飄々としているようで頑固で、世話焼きで、僕を放っておかない。

 先生は代金を支払うと、煙草片手に店を出ていった。僕は少しマスクを引っ張って、位置を直した。斜め後ろにいた先輩が、ちらっと、僕の顔を覗き込む。


「あ、やっぱイケメンだ」


「やめてください」


「なんかあれだよ。誰かに似てる。最近ネットで見た気がするんだよな」


 先輩がそう言って指をくるくる回しだしたのを見て、僕は漠然と思った。

 このバイト、もう続けられない。次を探そう。



 午前零時を少し過ぎた頃、僕は駅前のファミレスに顔を出した。夜中の店内はすっからかんで、テーブル席で手を振る羽鳥先生は、すぐに見つかった。


「伊狩、こっちだ。お疲れさん」


 先生の様子を見て、店のスタッフが僕を彼の元へと案内する。先生はすでに、コーヒーを飲んでいた。彼はメニューを開いて、僕に差し出す。


「なに食う? こんな時間まで働いて、腹減ったろ」


「まあ、はい」


 メニューを見ている僕を、先生はじっと見つめている。


「あのな。今日はお前さんに、見てほしいものがあってな」


 先生はそう前置きして、鞄から、クリアファイルに入ったチラシを取り出した。


「これ、市内のダンススタジオにあったんだ。東京の舞台芸術会が、芸術祭に出演する新人ダンサーのオーディションを……」


「ダンスはもうやりません。何度も言ってます」


 僕は先生の発言を遮って、ぴしゃっと言い切った。先生は一瞬言葉を呑み、数秒後、出しかけたチラシを鞄に戻した。


「そうか。そうだったな。好きなもん食え。どうせ家じゃ食ってねえんだろ」


 先生の皺の寄った口が笑う。僕はメニューをぱらぱらと流し見て、とりあえず、オムライスを選んだ。

 先生はコーヒーをひと口啜った。


「まだ十七なのに、子供がこんな時間まで働くもんじゃねえぞ」


「でも、母さんが働けないから」


「俺が紹介した、行政の福祉サービスは?」


「ありがたく頼ってますよ。それで全部は解決しないってだけ」


 スタッフが僕の分のお冷を持ってきた。僕は小さく会釈して受け取り、その水で渇いた喉を潤す。


「今日のバイト先のコンビニは、もう辞めます」


「ほう。深夜まで働く必要がないから、じゃなさそうだな」


 先生の微笑みが強張る。僕はお冷のグラスを、両手で包むように支えた。


「先輩に、顔を見られたんで」


「そうか。でも、そのくらい大丈夫だと思うぞ」


「だめです。『誰かに似てる』って言われた。ネットで見た顔とも言ってたし、今は気づいてなくてもそのうちバレる」


 はあ、と僕がため息をつくと、先生はぴくりと眉を寄せた。


「神経質しすぎやしねえか? そんなに勘の鋭い先輩かよ」


「先生には他人事だから、そんなこと言えるんです」


「他人事って。俺にとってお前さんは……」


「他人事だろ。先生の親は、人を殺してないんだから」


 一瞬、店内の空気が凍った気がした。はっと顔を上げる。よそのテーブルで皿を下げていたスタッフが、こちらを見ずにすっと厨房へ入っていった。

 聞かれたかな。聞かれただろう。


 僅かな沈黙のあと、先生は頷いた。


「そうだな。他人だよ。だけど俺は俺なりに、お前さんを支えたいと思ってる。お前さんの近くにいる、大人のひとりとして」


 そしてゆっくりと、目を閉じる。


「これは、俺の一方的なエゴである前提で聞いてくれて、構わないんだけどな。お前さんは、俺の中で特別な生徒だったんだ。本気で、お前さんに期待してた」


 微睡みの中で見たあの夢が、ふっと、脳裏をよぎる。


「舞台で踊る伊狩は、芸術そのものだった。この才能の塊を、表舞台に羽ばたかせたい。俺はそれひとつで、あの頃、全力だったんだよ」

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