水底への帰還
あれから何度か夜が来て、同じ数だけ朝が来た。小さな部屋の中で座って目を閉じていると、カタッと、扉が開いた。
眼前に広がるのは、岩場と、青く広がる水面。――見慣れた現場の景色だった。
「あれ……」
俺は部屋から足を踏み出した。慣れた水の匂いと、湿度。
「戻ってきちまったみたいだな」
知らない狭い部屋に閉じ込められるところまでは、行けたみたいだったのだが。
「愚かね」
頭上から声がした。見ると、そびえる岩の上に、あの黒髪の女がいた。薄い琥珀の瞳が、俺を見据えている。
「知らなくてもいいのだから、知ろうとしなくていいのに。余計な真似をして怪我をするなんて、それこそ、世界を知らない甘えた愚者のすることだわ」
「なんなんだよ、あんた」
「本来なら、全部、自己責任。怪我を負えば、世界の仕組みに負けるだけ。安心して茶番の喧嘩なんかできるのは、あなたが安全圏にいる証拠よ」
風が黒髪を撫でる。女はどこか、俺を嘲笑うように続けた。
「羨ましい限りだわ。これ以上はくだらない真似はやめて、あるがまま、与えられるままに生きることね」
「今日はよく喋るんだな」
「ふっ。あなたの馬鹿らしい行動を、見ていたから。久しぶりに復帰したあなたを見たら、説教したくなっただけ。じゃあね」
女はそう言い残すと、岩場を越えて、消えていった。
相変わらず変な女だ。なにを言いたいのか分からないし、ミステリアスぶっていてムカつくし。
そこへ、うるさい声が飛んできた。
「カイ先輩!」
部屋から出た俺に、いきなりドカッと飛びかかってくる。
「カイ先輩、本当に帰ってきてくれた!」
ユーリだ。こいつは律儀に、俺を待っていたみたいだ。
しかしあの茶番のあとだ、部屋の扉を開けた監視者は、咄嗟にユーリの前に手を翳し、彼を阻んだ。
「下がれ!」
監視者から凄まれても、ユーリは夢中で頭を上下左右に動かして、監視者の手を避ける。俺が動揺しないのを見ると、監視者はそっと、ユーリに翳した手を下ろした。
ユーリは俺に歩み寄ると、ほっと安堵のため息をついた。
「無事だったんですね。先輩、ごめんなさい。僕に殴られて、痛かったでしょ」
「本気でやんねえと監視者は欺けないからな。あれくらいでちょうど良かった」
小声でやりとりする俺たちを、監視者はしばらく眺めていた。数秒の観察を終えると、彼は扉の向こうへと消えていった。
ユーリが問いかけてくる。
「それで……外の世界、行けたんですか?」
「いや、途中までだ。ユーリが言ってたような、同じ活動をしてる別の現場には行けなかった。なにが足りなかったんだろうな」
「途中って、どこまでなら行けたんです?」
「あんたが言ってた、狭い部屋には入った。今まさに、入れられてきた小部屋だな」
俺はそう答えてから、付け足した。
「それから、ビクターが言ってた実験室にも行った。監視者どもに囲まれて、押さえつけられて、隅々まで身体検査を受けた」
あの場所には、俺たちと同じ白と黒の格好の者はいなかった。その代わり、監視者はたくさんいた。少なくともあそこは、俺が世界だと思っていたこの現場の、裏側だ。
あそこまで行けただけでも、一旦は良しとする。
ユーリが俺の顔を覗き込んだ。
「怪我は?」
「治った。実験室で傷口をじっくりチェックされた。多分、あそこで治療されたんだ」
やはり監視者たちは、俺たちの身体管理をおこなっている。俺は現場に戻されるために、怪我を治されたのだ。
「世界の果てはまだ見てねえけど、現場の外を見てきた。ここに戻ってくるって約束も、守った」
「流石です、カイ先輩!」
ユーリが興奮気味に、ぱたぱたと手を振る。俺はこそばゆくなって、彼から目を背けた。広がる青い水面を、ゆっくりと見渡す。
「まだだ。あんたが言ってたような、別の現場にはまだ行けてない」
世界の果てを知らない俺に、ユーリはちょっと、辟易した顔になった。
「でも先輩。先輩がいない間、僕、ずっと心配してたんですよ。やっぱりいなくならないでほしいです」
「甘えてんじゃねえぞ。あんたはさっさと、ひとり立ちしろ」
「前にも言ったけど、他所もやること同じですよ。そんならここでいいじゃないですか。ここにいてください」
ユーリがむくれる。俺は彼の不満げな顔を見て、小さく息を吐いた。全く、面倒見がいい性分のつもりはなかったんだが。
「分かった、脱走を試みるのは、一旦これで終わりにする。ここに不満があるわけじゃねえ。だから別に、ここで今までどおりに過ごすのも、悪かねえし」
俺は水底に視線を落とした。
「でも、俺がもしこの先、また監視者にどこかへ連れて行かれても、騒ぎ立てるな。寂しがったり心配したりしないで、『カイは夢を叶えたんだ』って祝福してくれよ」
「先輩……」
ユーリはじっと俺を見つめ、それから頷いた。
「分かりました。それまでは、ここにいてくださいね」
「そうだな。でも、あんた、さっきも言ったがひとり立ちはしろよ? いつまでも俺に付き纏うな」
「まあまあ、いいじゃないですか。ほら、今日も行きましょう、水底へ!」
ユーリに促されて、俺は、きらめく水面に向かって歩き出した。
同僚が水の中へ飛び込んだ。ひとり、またひとりと、同僚たちが水の中へ消えていく。ユーリも、息を吸い込んで、水面へと身体を投じた。
陽の光を浴びた水飛沫は、まるで星の光が砕けたみたいだ。青い水の奥へと溶けていくユーリに、俺もいざなわれるようにして、飛び込む。
久々の水の感覚に、身体が吸い込まれていく。重力を忘れる、青く澄んだ層の中へ。俺も、冷たく透き通った水と、ひとつになる。
いつかこの現場を出るときが来たら、俺はきっと、この瞬間を思い出すだろう。




