黒髪の女
俺たちはなんのために、水底へ沈むのか。
なにかを探し求めているのか。なにか掴める気がしたからなのか。
いや、自分でも自分の行動の理由なんて、分からない。
そこに広がる水面に吸い寄せられるように、俺は今日も、深い深い水の層の底へと潜り込んでいく。水の中を切り裂いて、ぷくぷくと浮かぶ泡沫に体を包まれて、そして息が苦しくなって、呼吸のために浮上する。
水面から見上げた景色は、いつも変わり映えしない。
それで、いいと思っていた。
そんな俺を、彼女はじっと見つめていた。
「なんだよ」
俺が声を掛けるも、彼女は無言だ。黒髪を風に靡かせ、色素の薄い瞳でこちらを観察している。
どうせなにもしてこない、放っておこう。再び水の中に潜ろうとした矢先、彼女は急に口を開いた。
「いい生活してるわね。平和ボケして、世界を知らなくて、幸せそう」
「世界を知らない……?」
「なんでもない。あなたたちは、監視者によって管理されている。自由の制限は、安全の担保。だからあなたは、その箱庭から出なくていい」
そう言って、謎の女は青灰色の背を向けた。涼しげなその色に、一瞬、目を奪われる。その一秒後には、もう彼女の姿はなかった。
なにを言いたいのか、意味が分からなかった。世界を知らない?
世界なんて、ここが全てだ。俺が生きて暮らす、この場所。登れるいちばん高い場所と、潜れるいちばん深い水底が、世界の果て。
そうだろう?
俺は、世界を隅々まで知っているはずだった。




