01.夜会にも出られません……
本作は、作者自身の重度の乗り物酔い経験から生まれた物語です。
乗り物酔いの酷い方もそうでない方も、楽しんで読んでいただけると嬉しいです。
「はあぁ……」
グラウス伯爵家の娘である私は、今日も領地の自室の窓辺でため息をついていた。
外では、隣領の馬車が砂利道を駆け抜けていく。窓を閉めても、車輪の音が聞こえるたびに胃が痛くなる。
「お姉様、本当に行かれないのですか?」
「行かない勇気も必要なのよ」
私の名前はセレスティア。夜会への誘いを、今日も華麗にお断り中だ。そもそも、ドレスの着用は、自家の集まりを除いて遠慮したい。私には負担が多すぎる。
コルセットで身体を締め付け、首元に大きな石のネックレス。想像しただけで吐ける……。
「でも、王都まで三十分くらいで着きますよ?」
「その三十分が命取りなのよ……。酔わない人にはわからないから、気にしないでちょうだい」
妹のディエールが、まるで壊れた人形でも見るような目を向けてくるけれど、仕方ない。体質なのだ。
三十分も馬車に揺られたら、あっという間に吐き気と頭痛が私を襲う。酷いときには耳鳴りが加わり……会場に着く頃には視界が真っ暗。休憩室を独占する羽目になる。
「よくもまぁ、それで学園に通えましたわよね?」
妹は、わざとらしく肩をすくめた。
「意地悪ね。学園へ通うのにだって、勇気がいったのよ?」
「まさか、学生寮なんて裏技を使うと思いませんでしたわ」
妹が茶化す。
「その学生寮だって、睡眠薬で寝ている間に寮になんとか運んでもらったのよ?」
ため息をつきながら扇を閉じる。
入学試験で一位を取って、学生寮を使う権利を得た。
馬車酔いしない子なら、そんなものと平民に譲ってしまう小さな権利。それが私にとっては、唯一学園に毎日通える手段だった。
「あなたに社交を押し付けて、ごめんなさいと言えば気が済むかしら?」
「そうですね。私は社交が好きではありませんし――
お姉様に勝てるのは、馬車酔いしないことくらいですもの」
ふんっ、と鼻を鳴らしそっぽを向く妹が愛らしい。
「まぁ、でも……」
妹が、窓の外を見て目を丸くした。
「お姉様。あれ、誰か運ばれてません?」
「――え?」
私もつられて窓の外を覗く。
執事や使用人たちが慌ただしく駆け回り、馬車を引く馬が玄関前で嘶いていた。その傍らには、若い男性が担架に乗せられている。
「なぜ我が家に……?」
私と妹は顔を見合わせた。
意識を失った男性を寝台に移し、侍女たちが慌ただしく動く。
私はその場に立ち尽くしていた。
——この人を癒すのは、私。
それが分かっているのに、手が動かない。
「お嬢様、どうか……お力を」
侍女が縋るような目を向ける。
私はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
冷たい声が、自然と口をついて出る。
「なぜ、私が治療をしなければならないのでしょうか?」
部屋の空気が一瞬で凍った。
誰もが私を見つめる。
彼は、私の天敵。フルネス侯爵家の次男、アーネスト様だ。
「彼は……この方は、私を見下ろしてこう言ったの。
“平民の居場所を奪って楽しいか”と。
どれだけ謝罪されても、あの頃の私が傷ついた心は戻ってきません」
私が学生寮を使うことで、平民が使える寮の部屋が一つ潰れる。
わかってはいたけれど、実際に非難されると辛い。ちなみに費用は本来無料だけれど、我が家は寄付という形で支払った。
震える手で扇を握りしめる。
唇が、かすかに苦く笑った。
「……どれほど図太い神経をお持ちなのかしら。
人を傷つけたことすら、もうお忘れなのでしょうね」
誰かが息をのむ音がした。
けれどその瞬間、寝台の上から、かすかな声が漏れた。
「……忘れて、ない……」
顔を上げると、彼がゆっくりと目を開いていた。
虚ろな瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
「……忘れるわけ、ないだろう……セレスティア……」
彼は痛みに顔を歪めながらも、ゆっくりと息を継いだ。
私は何も言えず、そのまま立ち尽くす。
「卒業のあと、社交パーティーで何度も同級生たちに会った」
「……そう。だから何?」
冷たく言い返す私に、彼は微かに笑った。
それでも、その笑みには痛みが滲んでいた。
「お前だけ……どの会にもいなかった。
はじめは、ただ忙しいのだろうと思った。
でも、何年経っても姿を見ない。……不審に思って、調べたんだ」
胸の奥が、ひゅっと音を立てる。
「……調べた?」
「お前が……馬車に乗れないほどの酷い乗り物酔いだと知った。
それで初めて、自分がどれほど愚かなことを言ったか気づいた」
その声には、嘘のない後悔が滲んでいた。
私はただ、指先に力を込める。
「……そんなこと、今更知ってどうなるというの?」
「だからこそ……俺はここに来たんだ。
君ならここにいて、癒せる。そう思ったのは、事実だ。
——ただ、罵られ、癒されなくても、謝罪だけはしたかった」
その言葉に、心臓が一瞬止まった。
息をするのも忘れて、彼の顔を見つめる。
「……愚かだわ、本当に」
そう言っても、声は震えていた。
癒しの光が指先からこぼれ、彼の胸に触れる。
それは彼の傷を癒すためなのか、自分の心のためなのか、もう分からなかった。
「今なら——ここで俺が朽ち果てても、不敬には問われないぞ……。
お前は、抹消された聖女だからな」
「ふふっ、そうですね……」
自嘲を込めて、冷たく笑う。
私は、乗り物酔いが酷すぎて、聖女をクビになっていた。
「今ではいい思い出です」なんて言えないとても重い過去だった。
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
セレスティアは“酔いに負けない未来”を選ぼうとしていますが、私は学生時代、第一志望の高校を――
「電車とバスで1時間」という現実にあっさり負けて諦めてしまいました。
見学には行ったんですけどね……。
乗り物酔いって、夢や行きたい場所すら遠ざけてしまうことがありますよね。
皆さんにも、酔いが理由で断念した経験はありますか?
この物語が、そんな「諦めた気持ち」に、ほんの少しでも寄り添えたら嬉しいです。
続きも楽しんでいただけますように。




