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第8章:死への逃避、あるいは拒絶された安息

 野宿のために焚き火を起こした。パチパチという音だけが、静寂の中で響いている。街道から外れた森の中。木々の枝葉が月明かりを遮り、辺りは濃密な闇に包まれている。


 俺は自分の手を見つめる。今日、野盗を殺した手。姉さんを救えなかった手。そして、ばあちゃんのパイの味すら感じられなくなった手。


(……壊れる)


 恐怖があった。このまま心が摩耗していけば、俺は本当にただの「鍵穴」になってしまう。痛みも、悲しみも、愛も忘れて、ただティナを挿入するための肉の器に成り下がる。そうなったら、俺は姉さんの死さえ悲しめなくなるんじゃないか。


 それだけは、嫌だ。人間として死にたい。まだ俺の中に「俺」が残っているうちに。


 ティナは少し離れた場所で、夜空に浮かんで星を眺めていた。彼女に睡眠は必要ない。俺が眠るまでの間、こうして番犬のように周囲を警戒するのが、彼女なりの「役割」らしい。


「……ティナ」


 俺は震える声で呼んだ。


「なぁに、マスター?」


 彼女がふわりと降りてくる。その無邪気な顔を見ると、吐き気がした。同時に、すがりつきたくなるような依存心も湧く。俺はそんな自分自身が一番許せなかった。


「ナイフになれ。……小さいやつだ」


 ティナは不思議そうに首を傾げたが、素直に従った。「了解。フルーツでも剥くの?」彼女の体が光の粒子になり、俺の手のひらに収まるサイズの、鋭利なダガーへと変化した。蒼く輝く刃。その美しさは、死を誘う灯火のようだ。


「……ごめんな」


 俺は誰にともなく呟いた。じいちゃん、ばあちゃん。約束を破ってごめん。姉さん。今、そっちへ行くよ。


 俺は逆手でダガーを握りしめ、その切っ先を自分の頸動脈に宛がった。ドクン、ドクンと脈打つ血管。ここを一突きすれば、数秒で意識は飛び、永遠の静寂が手に入る。


(これで、終わる)


 力を込める。刃が皮膚に食い込み、鮮血が吹き出す――はずだった。


 ガチンッ!


 硬質な音が響いた。俺の手が止まったのではない。刃が、止まったのだ。


 俺の首の皮一枚手前で、ダガーが目に見えない壁に阻まれたように静止している。見えない障壁バリアが、刃と皮膚の間で展開されているのだ。いくら力を込めても、両手で押し込もうとしても、ピクリとも動かない。


「……え?」


『――何をしてるの、マスター?』


 脳内に響く声は、氷点下の冷たさだった。


『自傷行為は推奨できないな。君という「鍵穴」に傷がつくと、僕の挿入リンク効率が落ちる』


「う、動け……! 刺されよ……ッ!」


 俺は悲鳴を上げて、全身の力を込めた。死なせてくれ。頼むから。このまま生きていたら、俺は本当におかしくなる。


『ダメだよ』


 次の瞬間、ダガーが手の中で液状化した。ドロリとした冷たい感触になり、俺の手から滑り落ちる。そして地面で再び光の粒子となり、人の形を結んだ。


 ティナが、俺を見下ろしている。怒ってはいない。呆れてもいない。ただ、壊れかけたおもちゃを見るような、無機質な瞳。


「君は僕の『住処』だと言ったはずだよ。大家さんが勝手に家を壊したら、僕が困るじゃないか」


 彼女は俺の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。その手は死神のように冷たい。


「君の命は、もう君だけのものじゃない。契約したでしょう?」


 逃げられない。死ぬことさえ、この悪魔は許してくれない。俺は生きて、戦って、こいつを受け入れ続けなければならない。地獄の果てまで。


「……あ、ああぁぁ……」


 俺はその場に崩れ落ち、子供のように嗚咽おえつした。みっともなく泣いた。涙が枯れるまで泣いた。


 ティナは、泥にまみれた俺の顔を両手で包み込み、覗き込んだ。その表情は、慈愛に満ちた聖母のように優しく、そして悪魔のように残酷だった。


「泣かないで、マスター。どうして泣くの?」


 彼女は俺の涙を親指で拭う。


「僕がいるじゃないか。君が憎む施設も、研究員も、世界中だって。僕が全部壊してあげる」


 彼女は甘く囁く。


「君の望むことは、何でもしてあげるよ」


 その言葉に、俺はすがるように声を絞り出した。


「……なら」

「うん?」

「……殺してくれ。俺を」


 ティナは、困ったように眉を下げて、ふわりと微笑んだ。


「それ以外で、お願いね」


 絶望が、音を立てて蓋をされた気がした。俺のたった一つの願いは、聞き入れられない。それ以外のすべてが叶ったとしても、俺が欲しいのは「終わり」だけなのに。


 俺は力なく項垂れた。ティナは満足そうに、俺の頭を胸に抱き寄せた。まるで、聞き分けのない子供をあやす母親のように。


 夜風が冷たい。俺の心の中にある空洞は、冷たい「生」で満たされていた。

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