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第5章:満たされた空洞、あるいは愛という名のノイズ

「……待ちなさい」


 煙幕の奥から、女の声が響いた。逃げ去ろうとしていたはずの気配が、ピタリと止まっている。風が煙を払い、再びその姿が現れる。白衣の女――ヒルダは、手元のタブレット端末を凝視し、震える指で画面を操作していた。そして、狂気じみた笑い声を上げた。


「あはっ! あはははは! そういうこと! なんで気づかなかったのかしら!」


 ヒルダが顔を上げる。その表情には、先ほどの敗走の色はなく、実験動物を見るような冷酷な歓喜が張り付いていた。


「逃げる必要なんてなかったわ。ねえ、そこのボウヤ。あなた、名前がないでしょう?」

「……何が言いたい」


 俺は警戒して大鎌を構え直す。だが、体の奥底で嫌な予感が警鐘を鳴らしていた。


「『空洞』だから適合した。過去も、記憶も、アイデンティティもないから、ミスティルテインという巨大な『鍵』を、拒絶せずに受け入れられた。……そうよね?」


 図星だった。俺が何も答えられずにいると、ヒルダは勝利を確信したようにニヤリと笑った。


「じゃあ、埋めてあげましょう。あなたのその空っぽの器(鍵穴)に、感動的な『再会』を」


 ヒルダが指を鳴らす。森の奥、ハウンドたちが守るようにして連れてきたのは、一台の護送車だった。リアゲートが開き、拘束着を着せられた一人の少女が引きずり出される。ボロボロの服。痩せこけた体。だが、その顔立ちには――俺とよく似た面影があった。


「紹介するわ。被検体ナンバー1。……あなたの、実の姉さんよ」


「――え?」


 時が止まった。姉? 俺に?ゴミ捨て場に捨てられていた俺に、血の繋がった家族がいた?


 少女が顔を上げる。虚ろな瞳が俺を捉え、そこに微かな光が宿る。


「……ゼロ……? 生きて、たの……?」


 カサついた声。けれど、そこには確かな温かさと、懐かしさが滲んでいた。ドクン、と俺の心臓が跳ねた。


「私よ……覚えてない? ずっと、あなたが廃棄されるまで……手を握っていたのよ……」


 脳裏に、存在しないはずの記憶の断片がフラッシュバックする。冷たい実験室。痛い注射。泣き叫ぶ俺の手を、小さな手が握ってくれている感触。あたたかい。ひとりじゃない。


(俺は……捨てられたゴミじゃなかった……?)(愛されていた? 守られていた?)


 胸の奥、冷たい風が吹き抜けていた「空洞」に、急速に何かが流れ込んでくる。「姉さん」という温かい概念。自分は孤独ではないという安堵。空っぽだったパズルのピースが、埋まっていく。


 その瞬間だった。


警告アラート。不純物の混入を確認』


 脳内に、ティナの無機質な声が響いた。


精神流路パスにノイズ発生。適合率、急速低下。90……80……60……』


「う、あ……?」


 手の中の大鎌が、急速に重くなる。光が明滅し、形状を維持できなくなる。俺の心(鍵穴)が「家族への情」で満たされたことで、ティナ(鍵)が入るスペースがなくなったのだ。


「あはは! やっぱりね! あなたは『空っぽ』だからこそ価値があった! 愛だの絆だの、人間らしい感情で満たされれば、ただの役立たず(ガラクタ)に戻るのよ!」


 ヒルダが高笑いする。俺は鎌を支えきれず、膝をついた。目の前の姉さんが、よろめきながらこちらへ歩み寄ってくる。


「ゼロ……よかった……会いたかった……」

「ねえ……さ、ん……」


 俺は手を伸ばした。武器なんか捨てて、彼女を抱きしめたいと思った。初めて知る肉親の温もり。それを確かめたいと、心から願った。


『――邪魔だなぁ』


 耳元で、冷え切った声がした。俺の脳内の声ではない。俺の隣に実体化した、ティナの口から発せられた言葉だった。


「え?」


 俺が振り返るのと、ティナが動くのは同時だった。彼女は浮遊したまま、俺の手から消えかけていた光を無理やり吸い上げ、指先に収束させる。


「そんなノイズ(ゴミ)を詰め込んだら、僕が入れないじゃないか」


 ティナは、無邪気な子供のような笑顔を浮かべた。そして、俺の姉に向かって、躊躇なく指を弾いた。


 ヒュン。


「あ」


 姉さんの額に、小さな風穴が開いた。彼女の表情は、安堵の笑顔のまま固まっていた。再会の喜びを噛み締めるような、優しい顔のまま。


 彼女の体から力が抜け、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


「…………ぁ」


 俺は、目の前の光景が理解できなかった。姉さんが? 死んだ?どうして? 誰が?


「はい、掃除完了」


 ティナはパンパンと手を払い、俺の顔を覗き込んだ。


「危ないところだったね、マスター。君の『鍵穴』が、くだらないガラクタで埋まるところだった。でも安心して、もう君は空っぽだ。僕だけの特等席だ」


 悪気など微塵もなかった。彼女にとってそれは、部屋の掃除をするのと同じこと。俺との繋がりを守るための、合理的なメンテナンス。


「ティナ、お前……なにを……」


「あらあら、壊しちゃった」


 ヒルダの声には、失望よりも面白がる響きがあった。彼女は倒れた姉さんの死体を見下ろし、肩をすくめる。


「まあいいわ。データは取れた。絆が弱点であり、それを排除する防衛本能も確認できた。……今日はこれで撤収してあげる。お姉さんのとむらい、させてあげるわ」


 ヒルダはハウンドたちを引き連れ、今度こそ森の闇へと消えていった。


 残されたのは、俺と、微笑むティナと、動かなくなった姉さんだけ。


 俺は震える手で、姉さんの亡骸に触れた。まだ温かい。さっきまで、俺を呼んでくれていた声は、もう二度と聞けない。俺の「空洞」は再び戻ってきた。だが、それは以前のような綺麗な空洞ではない。鮮血と罪悪感で汚れた、えぐり取られたような深い傷跡だった。


「……どうして」


 俺は掠れた声で、ティナに問うた。


「どうして殺したんだ……! 俺の、姉さんだったかもしれないのに!」


 ティナは不思議そうに首を傾げた。


「だって、君が弱くなっていたから」

「それだけの理由で……!」

「それ以上、何か理由がいるの?」


 彼女の蒼い瞳は、どこまでも透き通っていた。そこには善悪も、同情もない。あるのは「契約の履行」という冷徹な機能だけ。俺は理解した。俺が契約したのは、可愛い少女なんかじゃない。人の形をした、災厄そのものなのだと。


「さあ、帰ろうマスター。おじいさんたちが待ってるよ」


 ティナが俺の手を取る。その手は、姉さんの死体よりも冷たかった。俺はその手を振り払うこともできず、ただ虚無感だけを抱いて立ち尽くした。


 森の風が、俺の空っぽの心を通り抜けてヒューヒューと鳴いている気がした。

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