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第3章:適合率100%の不協和音(ディソナンス)

 翌朝。目を覚ました瞬間、俺は猛烈な吐き気に襲われた。トイレに駆け込み、胃液だけを吐き出す。何も食べていない胃は痙攣し、喉の奥がひりついた。


 鏡を見る。顔色が悪い。目の下には濃いくまができている。だが、それ以上に俺の目を釘付けにしたのは、右の手の甲だった。昨夜は淡く光っていた幾何学模様の《文様》が、今は黒いあざのように焼き付いている。


「……夢じゃ、なかった」


 冷たい水で顔を洗う。脳裏にこびりついているのは、マルコの頭が砕け散る音と、俺自身が切り裂いた職員の、肉を断つ感触。手を洗っても洗っても、見えない血が落ちない気がした。


「おはよう、マスター。ずいぶん顔色が悪いけど、昨日の今日じゃ仕方ないか」


 背後から、鈴を転がしたような声がかかる。振り返ると、狭い洗面所の天井付近に、ティナが逆さまに浮いていた。重力という概念が彼女には通用していないらしい。銀髪が垂れ下がることもなく、まるで水中にいるかのように揺蕩たゆたっている。


「……おはよう、ティナ。その浮くの、やめてくれないか。心臓に悪い」

「慣れてよ。これが僕の通常運転デフォルトだから」


 彼女はくるりと空中で回転し、床に音もなく降り立った。昨日のボロボロの服ではなく、ばあちゃんが若い頃に着ていたという、少しサイズの大きい白いワンピースを着ている。それが妙に、彼女の非人間的な美しさを際立たせていた。


「朝食の時間だよ。おじいさんたちが待ってる」


 食卓の風景は、残酷なほどいつも通りで、決定的に何かが欠けていた。スープとパンの焼ける匂い。薪が爆ぜる音。けれど、長テーブルの席は、その半分以上が空席のままだった。いつもなら、マルコがパンを奪い合い、ベンがそれを諌める声が響いていた場所だ。


「いただきます」


 俺の声だけが、虚しく響いた。じいちゃんとばあちゃんは、何も言わずに俺の皿に多めのベーコンを乗せてくれた。その無言の気遣いが、逆に胸を締め付ける。


「さて、オージ」


 食後のコーヒーを啜りながら、じいちゃんが切り出した。その目は、孤児院の主のものではなく、かつて「組織」を知っていた者の鋭さを帯びていた。


「これからどうするつもりだ?」

「……戦うよ。あいつらは、俺たちを放っておかないだろうし」


 俺は右手の甲をさする。


「それに、俺自身が何なのか……『被検体0号』ってのが何なのか、けじめをつけたい。このまま逃げ回って生きるのは嫌だ」

「そう言うと思ったよ」


 じいちゃんは重々しく頷き、ティナの方を向いた。


「ティナ。オージの力になってやってくれ。……あの子は、優しすぎる」

「もちろん。契約は絶対だもの」


 ティナはパンをちぎって口に運びながら、涼しい顔で答える。


「それに、マスターは僕にとって最高の『住処』だからね。こんなに居心地のいい鍵穴は初めてだ」

「……住処?」


 俺が聞き返すと、彼女はフォークを指揮棒のように振った。


「食事を済ませたら裏の森に行こう。君はまだ、自分の・・の使い方も、僕の受け入れ方も分かっていない。少し『慣らし』が必要だ」


 言い方はなんだかアレだが、要するに訓練ということだろう。俺は残りのスープを飲み干し、立ち上がった。


 孤児院の裏手に広がる森。かつて仲間たちと秘密基地を作って遊んだ場所だ。朝霧が立ち込める静寂の中、俺とティナは向かい合って立っていた。


「じゃあ、まずは基本講義から」


 ティナは浮遊したまま、人差し指を立てた。


「僕、ミスティルテインは『概念兵器』だ。持ち主の精神力をエネルギー源にして、物理法則を無視した干渉を行う。ま、簡単に言えば『思った通りに切れる剣』だね」

「思った通りに?」

「そう。硬いと思えば硬く、柔らかいと思えば柔らかく。遠くを切りたいと願えば空間ごと断つ。君のイメージ(想像力)と、僕へのエネルギー供給(精神力)がすべてだ」


 彼女はふわりと俺の胸元に近づき、心臓の上あたりをトンと突いた。


「で、君は『鍵穴』だ」

「……その呼び方、なんとかならないのか?」

「事実だから仕方ないよ。君は、生まれつき僕を受け入れるために精神構造が拡張されている。普通の人間なら、僕と接続した瞬間に脳が焼き切れるけど、君にはそれを受け流す『空洞』がある」


 ティナの顔が近づく。蒼い瞳が俺を覗き込む。


「君の空っぽの心。記憶のない過去。それ自体が、僕を収めるためのさやなんだ」


 空っぽであることが才能。皮肉な話だ。俺が自分探しをしていた空白は、兵器を収納するためのスペースだったなんて。


「御託はいい。どうすればいいんだ」

「簡単さ。僕を呼んで。君の中の『穴』を開いて、僕を招き入れるイメージで」


 俺は目を閉じ、意識を集中する。昨日の感覚を思い出す。恐怖と絶望の中で、何かにすがりついたあの瞬間。右手の甲が熱くなる。心臓の鼓動が早くなる。体の中にある「空洞」を意識する。


(来い……!)


了解ラジャー


 頭の中にティナの声が響いた瞬間。目の前にいた彼女の体が、光の粒子となって弾けた。


 ザワッ!


 全身の毛穴が逆立つような感覚。光の粒子が俺の右手に吸い込まれていくのではない。もっと直接的で、内側に入り込んでくる感覚。血管の中に沸騰した水銀を流し込まれたような、重く、熱く、そして異質な充足感。


「ぐ、あ……ッ!」


 俺は思わず膝をつきそうになるのを堪えた。右手に重みが生じる。光が収束し、あの蒼い刀身を持つ長大な剣が顕現していた。


『深呼吸して、マスター。拒絶しないで、もっと深く受け入れて』


 脳内に直接響くティナの声。普段よりも近く、甘く聞こえる。俺の五感が拡張される。風の音、葉の擦れる音、朝露が落ちる音が、手にとるように分かる。これが、ティナと一体化するということか。


「……重いな」

『物理的な重さは君の筋力次第だけど、精神的な重さはどう?』

「悪くない。……一人じゃないって感じがする」


 俺は剣を構えた。ずしりとくる重量感が、空っぽだった心を埋めてくれるようで、逆に心地よい。目の前にある手頃な岩を見据える。


「やってみろ」


 俺は剣を振りかぶった。ただの岩じゃない。ダイヤモンドだろうが鉄だろうが、バターのように切れるイメージ。一閃。


 カッ!


 蒼い閃光が走り、音もなく岩が両断された。それだけじゃない。その先にある数本の木々までもが、スパンと斜めに切り飛ばされている。


「すげぇ……」

『君の出力パス、良好だね。空っぽな分、抵抗なく力が流れる。最高の相性だよ』


 剣の状態のティナが、心なしか嬉そうに震える。俺は掌に残る痺れを見つめた。これなら戦える。この力があれば、もう誰も死なせたりはしない。


 その時だった。拡張された五感が、異質なノイズを拾ったのは。


『マスター、来るよ』


 ティナの声が鋭くなる。俺も感じていた。風の音に混じって聞こえる、人工的な駆動音。森の奥、木々の影から、複数の赤い光が灯る。


「……追っ手か」


 現れたのは、人間ではなかった。四足歩行の獣――の形をした、無機質な機械だ。黒いボディに、カメラアイのような単眼が赤く光っている。背中には小型の銃器のようなものがマウントされていた。その数、5機。


『「ハウンド」だね。施設の警備用自律兵器。鼻が効く厄介なワンちゃんだ』

「昨日ティナが破壊し損ねたやつか?」

『いや、違う。これは索敵特化型。……昨日僕が掃除した後に送り込まれた、鼻の効く別動隊だ。君の匂いを追ってきたんだよ』


 ハウンドたちが、低い駆動音を立てて散開する。包囲されている。


「やるぞ、ティナ」

『いつでも』


 俺は剣を構え直す。先ほどの岩斬りとは違う。今度は、明確な殺意を持った敵だ。心臓が早鐘を打つ。怖いか? いや。不思議と、頭は冷えていた。俺の・・にいるティナが、恐怖を冷却してくれているようだった。


『右、来るよ!』


 ハウンドの一体が、バネ仕掛けのように跳躍した。速い。昨日の魔物よりもずっと。だが、見える。空中で爪を展開し、俺の喉元を狙ってくる軌道が、光の線のように視界に描かれる。


「そこだッ!」


 俺は一歩踏み込み、カウンター気味に剣を振り上げた。金属が切断される甲高い音。ハウンドの胴体が真っ二つになり、火花を散らして地面に転がる。


「一匹!」


『後ろ!』


 振り返る間もなく、俺は体を低く沈めた。頭上を銃弾が掠める音がする。背後に回り込んでいた別の一体が発砲したのだ。


『射撃モードに移行。弾道予測、リンクするよ』


 視界に赤いライン(予測線)が浮かび上がる。まるでゲームの画面だ。ティナが俺の視覚情報に直接干渉して、敵の射線を可視化しているのだ。


「便利すぎるだろ、これ!」

『感謝してよね!』


 俺は赤いラインを避けるようにジグザグに走り、射撃してくるハウンドに肉薄する。距離にして五メートル。俺の剣の間合いだ。


「はあぁぁぁッ!」


 横薙ぎの一閃。二体まとめてスクラップに変える。


 残り二体。しかし、残りのハウンドは攻撃してこなかった。俺たちから距離を取り、赤いカメラアイを激しく明滅させている。


『……データ送信してる。まずい、この戦闘データが本部に送られてるよ』「止めなきゃ!」


 俺が駆け出そうとした瞬間。森の空気が、ビリリと震えた。


 ハウンドたちの背後から、拍手はくしゅの音が聞こえてきたからだ。


「ブラボー。素晴らしいわ、コソ泥さん」


 その声には聞き覚えがあった。背筋が凍るような、甘く、粘り気のある声。


 ハウンドたちが道を開ける。そこには、白衣の上に黒いコートを羽織った「女性職員」が立っていた。昨日は俺たちを見下していた彼女が、今日は興味津々といった様子で、熱っぽい視線を俺(正確には俺が持つ剣)に向けている。


「まさか、昨日侵入したただの子供ネズミが、ミスティルテインを起動させているなんてね。……あなた、一体何をしたの?」


 彼女――ヒルダ主任研究員は、不快そうに眉を寄せる。どうやら、俺の正体(被検体0号)には気づいていないようだ。無理もない。10年前にゴミとして捨てた赤ん坊が生きているなんて、夢にも思わないだろう。


「返して頂戴? それは私たちの悲願。世界のことわりを書き換えるための、大切な『鍵』なのよ。どこの誰とも知れないガキが触れていい代物じゃないわ」

「断る!」


 俺は切っ先を彼女に向けた。怒りが湧き上がる。こいつだ。こいつらが、マルコたちを殺した元凶だ。


「お前らが何を目論んでいるか知らないが、ティナは物じゃない! それに、俺はもう逃げない!」


「あら、生意気な口を利くようになったのね。昨日はあんなに震えていたのに」


 ヒルダはクスクスと笑い、指を鳴らした。森の奥から、ズシン、ズシンと、地響きのような足音が近づいてくる。ハウンドとは比較にならない、巨大な気配。


「交渉は決裂ね。なら、力ずくで回収するまで。……テストケースとしては最高よ。あなたの『鍵穴』としての性能、限界まで試させてもらうわ」


 木々をなぎ倒し、姿を現したのは、身長三メートルはある巨漢――いや、人間をベースに機械と筋肉を無理やり継ぎ接ぎしたような、醜悪な人造兵士サイボーグだった。その手には、俺の体ほどもある巨大なチェーンソーが握られている。


『マスター、あれは「強化被検体」。失敗作じゃない、完成された戦闘用個体だ』


 ティナの声に緊張が混じる。


『出力係数、上昇させて。僕を深く受け入れないと、あの装甲は抜けないよ』「……ああ。分かった」


 俺は剣の柄を強く握り直した。手のひらの文様が熱を持つ。俺の中の空洞を、もっと大きく広げる。ティナという強大な力を、余すことなく受け入れるために。


「行くぞ、ティナ。これが俺たちの、初陣だ!」


 俺は咆哮し、巨体へと突っ込んだ。昨日の俺とは違う。守るべき場所と、共に戦う相棒がいる。


廃棄物ゴミの意地、見せてやるよ!」

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