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第2章:優しい嘘の終わり

 日が沈み、空がどす黒い紫色に染まる頃、俺は孤児院の前まで戻ってきていた。足が重い。まるで鉛の靴を履いているようだ。いつもなら、この時間になれば煙突から夕食のシチューの匂いが漂ってきて、腹の虫が鳴いたものだ。マルコたちと「今日の飯はなんだろうな」「昨日の残りなら賭けに勝つぞ」なんて競うようにドアを開けたものだ。


 けれど今は、俺一人だ。


「……夕方には戻れたけど、俺だけだったな」


 俺は錆びついた門扉に手をかけ、指先の震えを抑え込んだ。服についた血は、帰る途中の川で必死に洗い流した。けれど、皮膚にこびりついた鉄の臭いが、どれだけ擦っても取れない気がする。俺だけが生き残ってしまった。あんなにもあっさりと、家族を失って。


(……入らなきゃ)


 じいちゃんとばあちゃんが待っている。俺は大きく息を吸い込み、肺の奥に溜まった慟哭どうこくを無理やり押し込めて、玄関のドアノブを回した。


 ギィ、という聞き慣れた蝶番ちょうつがいの音が、やけに大きく、そして寂しく響いた。


「ただいま……」


 声が掠れた。喉が張り付いて、うまく音が出ない。廊下の奥から、トトトと軽い足音が近づいてくる。小柄で背中の曲がった、白髪の老婆――ばあちゃんだ。


「おや、オージかい? 遅かったじゃないか。みんなもうお腹を空かせて……」


 ばあちゃんは笑顔で出迎えてくれたが、俺の後ろの闇に誰もいないことに気づくと、ピタリと足を止めた。そして、俺の蒼白な顔と、濡れた服を見た瞬間、その表情が凍りついた。


 俺は笑おうとした。いつものように、「あいつら、寄り道しててさ」なんて嘘をつこうとした。でも、ダメだった。ばあちゃんの優しい瞳を見たとたん、川で洗い流したはずの涙が、せきを切ったように溢れ出した。


「……ごめん。ごめん、ばあちゃん」

「オージ……?」

「俺だけなんだ。……帰ってきたのは、俺だけなんだよ……ッ!」


 俺はその場に膝をつき、子供のように泣きじゃくった。ばあちゃんは何も聞かず、ただ駆け寄ってきて、俺の頭を痩せた胸に抱き寄せてくれた。その温もりが、今は焼けるように痛かった。


 居間の暖炉には火が入り、パチパチと薪が爆ぜる音が静寂を際立たせていた。食卓には六人分のスープが並べられ、冷え切っている。俺は椅子に座り、向かいに座るじいちゃんとばあちゃんに、全てを話した。施設へ探検に行ったこと。黒服の男たちを見たこと。女の子を助けようとしたこと。そして、マルコやベンたちが、魔物に生きたまま食い殺されたこと。


 俺が話し終えるまで、二人は一度も口を挟まなかった。じいちゃんは愛用のパイプをふかし、紫煙の向こうで苦渋に満ちた顔をしている。ばあちゃんはハンカチで目元を押さえながら、静かにすすり泣いていた。


「……そうか。あの子たちは、逝ってしまったか」


 じいちゃんが、重い口を開いた。怒鳴られると思った。

「なぜ止めなかった」

「お前が連れて行ったせいだ」

 と責められると思った。けれど、じいちゃんの声にあったのは、深い悲しみと、それ以上の諦念ていねんだった。


「すまない。俺が……俺がもっと強ければ……あんな無茶なことを言い出さなければ」

「自分を責めるな、オージ。相手が悪すぎた。お前が生きて帰ってきたことだけでも、奇跡なんじゃ」


 じいちゃんはパイプを置き、食卓の上で組んだ手に力を込めた。


「それに……『鍵の子』と接触したとなれば、もう隠し通せんだろうな」


 隠し通せない?俺が顔を上げた時、窓の外からコンコン、とガラスを叩く音がした。振り返ると、窓枠に腰掛けるようにして、銀髪の少女――ティナが浮いていた。


「――お話中、失礼するよ」


 ティナは窓をすり抜けるようにして(実際に物質を透過したのか、鍵を開けて入ってきたのか分からないほど自然に)室内に入り込んだ。足は床についても音を立てない。その姿は、この古びた生活感のある家にはあまりにも異質で、幻想的だった。


「ひっ……」


 ばあちゃんが息を呑む。俺は慌てて立ち上がり、二人の前に立った。


「待ってくれ! 彼女は……ティナは、俺を助けてくれたんだ。怪しいやつじゃない!」

「分かっているよ、オージ」


 じいちゃんは動じなかった。むしろ、忌まわしい因縁を見るような目でティナを見つめている。


「まさか、生きている間に『ミスティルテイン』の起動形態を拝むことになるとはな」

「あら。私の名前を知っているの?」


 ティナは興味深そうに首を傾げ、宙に浮いたままじいちゃんに近づく。


「ただの孤児院の主にしては博識だね。その知識、まるで『内部』の人間みたいだ」


 場に緊張が走る。だが、じいちゃんは静かにティナを見返した。


「……昔の話だ。今はただの、しがない老人だよ」


 じいちゃんはそれ以上語らなかったが、その横顔には深い年輪と共に、過去の苦い記憶が刻まれているようだった。彼は立ち上がり、食器棚の奥から古びたボトルを取り出した。グラスを三つ並べ、琥珀色の液体を注ぐ。


「座りなさい、お嬢さん。……ティナ、と呼んでいいかね」

「いいよ。堅苦しいのは嫌いだからね」


 ティナは遠慮なく宙に浮いたままテーブルにつき、出されたグラスの匂いを嗅いだ。じいちゃんは俺にもグラスを押し付けた。


「飲め。今日は、子供扱いは終わりだ」


 強い酒の匂い。俺は一口だけ舐めて、咳き込んだ。喉が焼けるような熱さが、冷え切った体に染み渡る。


「オージ。お前はずっと、自分がどこから来たのか知りたがっていたな」


 じいちゃんの言葉に、俺は心臓が跳ねるのを感じた。俺には、ここに来る前の記憶がない。気がついたら、施設の近くの森をさまよっていた。それをじいちゃんたちが見つけてくれたと聞かされていた。


「ああ。……もしかして、今日の施設と関係があるのか?」

「大ありだ」


 じいちゃんはパイプを口にくわえ直し、煙を吐き出した。その煙が、過去の記憶を映し出すスクリーンのように揺らぐ。


「10年前だ。わしとばあさんが、あの施設のゴミ処理場……いや、『廃棄場』の近くを通りかかった時のことだ」


 廃棄場。その単語に、背筋が寒くなる。今日の惨劇の場所だ。


「そこには、実験で失敗した廃棄物が捨てられていた。壊れた機材、薬液のドラム缶……そして、黒い袋に詰められた『失敗作』たちだ」


 俺は息を呑んだ。今日の光景がフラッシュバックする。黒い袋。動く中身。


「ほとんどは既に息絶えていた。だが、一つだけ……微かに動いている袋があった。わしらは警備の目を盗んで、それを拾い上げた」


 じいちゃんは俺の目をまっすぐに見つめた。


「袋の中にいたのが、お前だ」


「……え?」


 言葉が理解できなかった。俺が、ゴミ捨て場に捨てられていた?失敗作として?


「お前は痩せ細り、体中に注射痕があり、言葉も話せなかった。身につけていた認識票には、名前の代わりにこう刻まれていたよ。『Subject Zero』……被検体0号、とな」


 被検体、0号。それが俺の正体。人間ですらない、実験動物のような扱いを受けていた過去。


「お前を拾った時、わしらは覚悟を決めたんだ。この子がもし、普通の人間として生きられるなら、精一杯愛して育てようと。だが、もし過去が追いかけてきた時は……真実を話さなきゃならんとな」


 ばあちゃんが、泣き腫らした目で俺の手を握った。


「ごめんね、オージ。もっと早く話すべきだったのかもしれない。でも、私たちは、あなたがただの優しい孫であってほしかったの……」


 俺は自分の手を見つめた。この手は、今日、人を殺した。そして、かつては「失敗作」として捨てられた手だ。


「……なるほどね。だからか」


 沈黙を破ったのは、ティナだった。彼女はグラスの中の氷を指先で回しながら、納得したように頷いている。


「なぜ、適合率が異常に高かったのか。なぜ、君の『鍵穴』に僕という『鍵』がピタリとハマったのか。君は、最初からミスティルテインを扱うために調整された、プロトタイプだったんだね」


 ティナの言葉が、パズルのピースのように嵌まっていく。俺が力を求めた時、彼女の声が聞こえたのも。初めて握ったはずの彼女(武器)が、手足のように馴染んだのも。すべては、俺がそのために作られた「部品」だったからだ。


「僕は古代兵器だ。人の精神力をエネルギーに変換して、物理干渉を起こす。普通の人間なら、僕と接続した瞬間に精神が焼き切れて廃人になるよ。でも、君は耐えた。……いや、耐えるように『作られていた』んだ」


 ティナは俺の胸、心臓のあたりを指差した。


「君の中は空っぽだ。記憶も、自分もない。だからこそ、僕という巨大なエネルギーを受け入れるスペース(鍵穴)がある」


「俺は……作られた、空っぽの人間……」


 ショックがないと言えば嘘になる。自分が、愛されて生まれたわけではなく、道具として作られ、そして捨てられたゴミだったなんて。けれど、不思議と絶望はしなかった。目の前にいるじいちゃんとばあちゃんの温かい手と、隣にいるティナの確かな存在感が、俺を現実に繋ぎ止めていたからだ。


「……ゴミ捨て場で拾われた俺が、古代兵器の『鍵穴』だった、ってことか」


 俺は自嘲気味に笑った。なんという皮肉だ。捨てられたガラクタ同士が、こうして巡り合ったのだから。


「オージ」


 じいちゃんが強い口調で言った。


「お前がどう生まれ、どう捨てられたかなんて関係ない。お前はこの10年、わしらの自慢の孫として生きた。弱いものを助け、仲間を思いやる、立派な男になった。……それだけは、誰にも奪えん真実だ」


 じいちゃんの言葉が、胸に染みた。そうだ。俺には記憶がある。マルコやベンと笑い合った日々がある。それは偽物じゃない。


「……ああ。分かってるよ、じいちゃん」


 俺は涙を拭い、顔を上げた。瞳に力が戻るのを感じた。


「俺は、被検体0号かもしれない。でも、今はオージだ。みんなの友達で、じいちゃんたちの孫だ」


 そして、隣に浮かぶティナに向き直る。


「そして、君の『マスター』だ。……そうだろ?」

「ふふっ。合格だよ、マスター」


 ティナは嬉しそうに目を細め、宙でくるりと一回転した。


「君がただの泣き虫なら、契約を破棄してどこかへ行こうかと思っていたけど。……その覚悟があるなら、僕は君の剣になろう」


 彼女の蒼い瞳が、暗い部屋の中で妖しく光った。


「でも、覚悟してね? 君が適合者だとバレた以上、施設あいつらは全力で回収に来る。これからは、今日みたいな戦いが日常になるよ」


「望むところだ」


 俺は拳を握りしめた。仲間を殺した連中。俺をゴミのように捨てた連中。許しておくわけにはいかない。それに、これ以上、じいちゃんたちや他の誰かが犠牲になるのは御免だ。


「俺が、終わらせる。このふざけた運命も、あの施設も」


 俺の手の甲に、ティナの胸にあるのと同じ、複雑な文様が淡く浮かび上がった。それは契約の証であり、俺がもう後戻りできない修羅の道へ足を踏み入れたことの証明でもあった。


「行こう、オージ。いや、マスター」

「ああ。頼むぞ、相棒ティナ


 俺たちの、反撃が始まる。ゴミ捨て場から始まった俺の人生は、ここから大きく動き出すのだ。

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