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第1章:名もなき少年と、鍵の巫女

 廃墟特有の、えた臭いが鼻腔にへばりつく。かつて研究施設だったというこの巨大なコンクリートの迷宮は、俺たちの足音を不気味に反響させては、奥底の闇へと吸い込んでいった。


「おいオージ、本当にこっちでいいのかよ?」


 背後から、仲間のひとりが不安げな声を上げる。俺――オージは、懐中電灯の光を彼らに向けないように気をつけながら、わざと明るく肩を竦めてみせた。


「ここまで来てビビってんのか? お宝が眠ってるって噂、あのお爺さんたちも言ってたろ」

「いや、そうだけどさ……なんか空気が重いっていうか、肌がピリピリするんだよ」


 仲間たちの顔には、好奇心よりも不安の色が濃く滲んでいる。マルコ、ベン、それに力自慢の数名を加えた計6人の探検隊。俺たちは捨てられた命だ。かつて記憶を失い、森をさまよっていた俺を拾い、育ててくれた老夫婦。彼らの教えである「弱きを助け、強く生きろ」という言葉だけが、俺の背骨を支えている。


 角を曲がった、その時だった。不快な笑い声と、何かが床に叩きつけられる鈍い音が、鼓膜を揺らした。


 俺は仲間たちを手で制し、壁際に身を寄せてその先の広場を覗き込む。そこには、黒いスーツを着込んだ男が二人。そして、彼らの足元には、麻袋のようなものが転がっていた。いや、違う。袋の中で何かが動いている。


「ったく、頑丈なガキだな。これだけ蹴ってもまだ泣き声一つ上げねぇ」

「丁寧に運べと言われてるが、少しくらい『しつけ』をしておかないとな」


 男の一人が、革靴のつま先で袋を蹴り上げた。ドスッ、という嫌な音がして、袋の中から押し殺したような呻き声が漏れる。袋の破れ目から、ボロボロの布切れと、泥にまみれた白い肌が見えた。――女の子だ。


 思考するよりも先に、血が沸騰した。


「なっ、なんだテメェらは!」


 黒服たちが振り返るのと、俺が飛び出すのは同時だった。俺は一番近くにいた男の鳩尾みぞおち目掛けて、全体重を乗せたタックルを食らわせる。「がはっ!?」不意を突かれた男が、空気を吐き出して体勢を崩す。


「やっちまえ!」


 俺の叫びに呼応して、隠れていた仲間たちも一斉に雪崩れ込んだ。喧嘩慣れなんてしていない。武器もない。あるのは数と、家族を守るための必死さだけだ。


「うおおおおッ!」マルコが男の足にしがみつき、他の3人が背中や腕に飛び乗る。「うわっ、なんだこのガキども! 離れろ!」


 重量差を数で埋める。男がバランスを崩し、無様に床へ倒れ込んだ。仲間たちがその上に覆い被さり、自由を奪う。


「今のうちに!」


 俺はその隙に、床に転がっている袋へと駆け寄った。紐を強引に引きちぎり、中身を露わにする。現れたのは、透き通るような銀髪の少女だった。年齢は俺より少し下くらいか。だが、その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。


「大丈夫か! 立てるか?」

「……?」


 少女は感情の抜け落ちた顔で俺を見上げた。まるで、精巧に作られた人形のように。


 その時、施設の奥から新たな足音が響く。軍靴の規則正しい音。そして、ヒールの鋭い音。


「――あーあ。ネズミが入り込んだと思ったら、随分と賑やかね」


 現れたのは、白衣を纏った男女だった。男の方は軍人のように屈強で、シャツの上からでもわかる分厚い筋肉が盛り上がっている。女の方は対照的に細身で、冷ややかな美貌に嗜虐的な笑みを浮かべていた。


「その『鍵の子』を返しなさい。部外者が触れていいモノじゃないわ」

「断る! こんな小さい子を袋詰めにするような連中に、渡せるかよ!」


 俺は少女を背に庇い、二人を睨みつける。屈強な男――男性職員が、面倒くさそうに首を鳴らした。


「交渉決裂だな。排除する」


 速い。巨体が弾丸のように迫る。俺が反応するよりも早く、仲間の一人が前に出た。


「オージ! 逃げろ!」


 マルコたちが壁となり、二人の職員に躍りかかる。だが、相手はプロだ。いや、プロ以上の何かだ。拳一発でマルコが吹き飛び、壁に激突して動かなくなる。ベンが腕を捻り上げられ、悲鳴を上げる。実力差は歴然だった。彼らはまるでゴミ屑のように扱われ、次々と床に叩きつけられていく。


「くそっ……!」


 俺は歯を食いしばり、少女の手を掴んだ。ここで全滅するわけにはいかない。


「走るぞ!」


 少女の手は氷のように冷たかった。俺たちは迷路のような廊下を駆け抜ける。後ろからは怒号と悲鳴。仲間たちが、その身を盾にして時間を稼いでくれている。一秒たりとも無駄にはできない。


 行き止まりの部屋に追い込まれた。背後には重厚な鉄扉。前には迫り来る追っ手の気配。


「ここまでか……!」


 俺は扉を背にして、少女を抱きしめるように守った。震える彼女の肩に手を回し、耳元で囁く。


「大丈夫だ。君は、俺が守るよ」


 それは、ただの強がりだったかもしれない。根拠なんてどこにもない。けれど、その言葉を口にした瞬間、彼女の体がビクリと震えた。


 彼女が顔を上げる。今まで焦点の合っていなかった瞳が、鮮烈な『蒼』に発光していた。


「――!」


 次の瞬間、世界が反転した。


 無機質なコンクリートの壁が、シャボン玉のように弾け飛ぶ。視界を埋め尽くしたのは、無限に広がる星空だった。重力が消失し、身体がふわふわと浮遊している。俺は見た。彼女の薄い胸の中央、心臓の真上あたりに刻まれた、見たこともない複雑な《文様》を。それは幾何学的でありながら、どこか植物の根のようにも見え、彼女の呼吸に合わせて淡く脈打っていた。


 このままずっと、この世界にいられたら――。痛みも、暴力もない、この静寂の中で。


 そう願った瞬間、空間にガラスにヒビが入るような亀裂音が走った。ピキキ、パリンッ。


「――あら。そんな無防備な姿で、お楽しみだったのね?」


 背筋が凍るような、甘く粘り気のある声。星空の空間に走った黒い亀裂から、あの「女性職員」が冷ややかな笑みを浮かべて見下ろしていた。


「幻想は終わりよ、ボウヤ」


 世界が、再び反転した。


 冷たいコンクリートの感触が頬に伝わる。意識が浮上すると同時に、全身を焼くような激痛が襲ってきた。


「がっ、は……ッ!」


 俺は咳き込み、血の混じった唾を吐き出す。両腕は鎖で吊り上げられ、足は床にギリギリつくかつかないかの高さだ。肩の関節が悲鳴を上げている。


「目が覚めたか」


 低い、地を這うような声。目の前には、あの筋肉質の男性職員が立っていた。手には鉄パイプのような棒が握られている。その先端は、俺の血で濡れていた。


「どこの国のものだ」

「しら……ない。俺らは、探検しに来た……だけだ」


 ドゴッ。腹部に重い衝撃。空気が肺から強制的に排出され、俺は苦悶の声を漏らす。


「どうやって入ったんだ、言え」

「しらねぇっつて……んだろ……!」

「……ふん。これでは、口を割らんようだな」


 男はつまらなそうに鼻を鳴らすと、部屋の隅にあるインターホンに向かって短く告げた。


「おい、連れて来い」


 重い扉が開く音。引きずられるような足音と共に、数人の人影が放り込まれた。


「オージ……ッ! 無事、だったか……」


 ボロボロの姿。腫れ上がった顔。それは、さっきまで一緒にバカ話をしていた仲間たちだった。全員、手枷を嵌められ、床に転がされている。


「みんな……! くそっ、てめぇら!」

「他人の心配をしている余裕はあるのか?」


 男性職員が冷淡に言い放ち、壁のレバーを下ろした。部屋の奥、暗闇に包まれていたおりが、ゆっくりとせり上がってくる。そこから漂ってくるのは、腐肉の臭いと、獣の荒い鼻息。


「グルルル……」


 暗闇から現れたのは、異形の魔物だった。狼を無理やり二足歩行させ、筋肉を肥大化させたような醜悪な姿。口からは絶え間なくよだれが滴り落ちている。


「はけ。さっさと言わないと、仲間たちが食われるぞ」

「やめろ……! やめてくれ! 本当に知らないんだ! 俺たちはただの孤児だ!」


 俺の悲痛な叫びなど、男には届かない。男が指を鳴らす。それが合図だった。魔物が鎖から解き放たれる。


「う、うわあああああ!」

「オージ! 助けてくれぇ!」


 仲間たちが逃げようと身をよじる。だが、手枷がそれを許さない。魔物が、一番近くにいた仲間の肩を、巨大な爪で掴んだ。


「あ、が……ッ!」

「やめろォォォォォ!!」


 俺の目の前で。魔物のあぎとが大きく開かれ、仲間の頭部を――。


 グシャリ。


 濡れた雑巾を絞るような、あるいは熟れた果実を踏み潰すような、生々しい音が響いた。鮮血が噴水のように舞い、俺の顔に降りかかる。生温かい。鉄の味がする。


「あ……あ……」


 思考が白く塗りつぶされる。さっきまで俺の名前を呼んでいた友人が。プロローグで笑い合った家族が。今はただの肉塊となって、魔物にむさぼられている。


「オージ……たすけ……」


 二人目。三人目。悲鳴が途絶え、咀嚼音だけが部屋に満ちていく。何もできない。俺には力がない。じいちゃんたちの教えを守るどころか、巻き込んで殺してしまった。


 俺の心の中で、何かがプツンと切れた。視界が暗転する。現実を受け入れることを拒絶した脳が、強制的に意識をシャットダウンさせたのだ。


「……おい」


 強い衝撃で、俺は現実に引き戻された。頬が熱い。殴られたのだと理解するのに数秒かかった。


「お前のせいで仲間たちは死んだのに、なぜ気絶して楽になろうとしているんだ?」


 男性職員が俺の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。そこには、地獄があった。床一面に広がる赤。散乱する衣服の切れ端。魔物は満足したのか、檻の奥で寝息を立てている。


 俺のせいで。俺がここに来ようと言ったから。俺が、弱かったから。


「わからないなら、殺すしかないな」


 男の太い指が俺の首に食い込む。気道が塞がり、酸素が遮断される。視界がチカチカと明滅する。首の骨がミシミシと悲鳴を上げる音が、内側から聞こえた。


 このまま、死ぬのか。何も成し遂げられず、大切なものをすべて奪われて。俺は、なんて無力なんだ。


(……嫌だ)


 力が欲しい。理不尽をねじ伏せる力が。誰にも奪われない力が。


(力がほしい?)


 頭の中に、直接響くような声。鐘の音のように澄んでいて、それでいてガラスのように硬質な響き。


 時が止まった。首を絞め上げる男の手も、舞い散る埃も、すべてが静止画のように固まる。あの星空の空間で感じた感覚だ。


(力がほしい?)


 もう一度、聞こえた。今度ははっきりと、言葉として認識できる。


「……ほしい」


 俺は掠れた声で、魂の底から答えた。


(君は、もう死のうとしている。僕と波長が合った稀有な人だ。死なせたくない)


 その声には、憐れみのような、あるいは共感のような響きがあった。そして、彼女はこう続けた。


(君の中は、悲しいくらいに空っぽだね)(記憶も、過去も、自分自身さえもない。……まるで、誰かが来るのを待っている『穴』のようだ)


 図星だった。俺には何もない。ただの抜け殻だ。


(でも、だからこそ――僕を受け入れられる)


(契約完了だ)(僕という『鍵』を、君の『鍵穴』に)


 カチリ。胸の奥で、硬質な音がした。俺の中にある空虚な穴に、熱くて巨大な何かがねじ込まれる感覚。埋まった。満たされた。俺というパズルに、最後のピースが嵌まったような衝撃。


(起動するよ、マスター)


 世界が色を取り戻す。男が俺の首をへし折ろうと力を込めた、その瞬間だった。


 カッ!


 俺の手の中から、まばゆい光の粒子が噴き出した。それは生き物のように渦を巻き、俺の意思とは無関係に形を成していく。


「なっ……なんだ!?」


 男が驚愕に目を見開く。光が収束し、俺の手には見慣れない、しかしどこか懐かしい感触の武器が握られていた。身の丈ほどもある長大な剣。その刀身は透き通るような蒼で、複雑な文様が脈打っている。


 俺が振ろうとするよりも早く、剣が勝手に動いた。一閃。


「――ぐアアアアアアアッ!!」


 絶叫。男がたたらを踏んで後退る。彼が俺の首を掴んでいたはずの右手が、手首から先ごときれいに消失していた。遅れて、切断面から血が噴き出す。


 俺は拘束が解け、床に崩れ落ちた。激しく咳き込む。酸素が肺に戻ってくる感覚にむせながら、俺は血まみれの男を見上げた。


(早く態勢を立て直して。ゆっくりしている時間はないよ)


 頭に響く声。それは、冷徹な指示だった。


「き、貴様……っ! 『鍵の子』の適合者だとぉ!?」


 男は失った手首を押さえながら、恐怖と驚愕に顔を歪めていた。その目には、先ほどまでの余裕も傲慢さも欠片もない。あるのは、理解不能な事象への畏怖だけだ。


「くそっ、このことを上に知らせないと……!」


 男がきびすを返し、出口へと走ろうとする。俺は動けない。まだ足に力が入らない。だが、脳内の彼女は淡々と告げた。


(逃がさない)


 俺の右手が、再び勝手に跳ね上がる。蒼い剣閃が空間を薙いだ。距離は十メートル以上離れていたはずだ。だが、剣から放たれた衝撃波のような光の刃が、男の背中を通り抜けた。


 男の動きが止まる。一瞬の静寂の後、男の体は無数の線で切り刻まれ、バラバラになって崩れ落ちた。悲鳴を上げる暇すらない、即死だった。


「う、おぇ……ッ」


 俺は床に手をつき、胃の中のものを吐き出した。酸っぱい胃液と共に、恐怖と嫌悪感が溢れ出す。人を殺した。俺の手で。あんなにもあっさりと。仲間を殺した奴だ。当然の報いだ。なのに、手が震えて止まらない。


「どうして……そこまでする必要があったんだ……」


 俺は震える声で問うた。誰にともなく。あるいは、俺の腕になっている彼女に対して。


「さっきまで殺されかけていたのに、優しいね」


 不意に、手元の重みが消えた。光の粒子が集束し、俺の目の前に人の形を結ぶ。そこには、あの銀髪の少女が立っていた。蒼い瞳には知性的な光が宿り、口元にはシニカルな笑みを浮かべている。


「まあ、老夫婦の教育の賜物なのかもね」


 彼女は浮遊したまま言った。俺はハッとして顔を上げる。


「どうして、じいちゃんたちのことを知っている……?」

「だって、契約完了したじゃないか。『僕という鍵を、君の鍵穴に』」


 彼女は自分の胸の文様を人差し指でつつく。


「僕らはもう繋がっている。僕が君の中に入り込んだから、君の記憶も、感情も、全部流れ込んできているよ」


 彼女はふわりと近づいてきて、俺の顔を覗き込んだ。


「君が仲間たちをどれほど大切に思っていたか。そして今、どれほど悔しいと思っているか。……全部わかる」


 彼女の視線が、部屋の隅にある無惨な肉塊――仲間たちのなれの果てに向けられる。その瞳が一瞬だけ、悲しげに揺れたように見えた。


「まだ、解き放たれた魔物が施設内にいるみたいだから、先に処置しておくよ」

「待て、君は一体……」

「ティナ。正式名称はミスティルテイン。……まあ、好きに呼んでよ」


 ティナと名乗った少女は、ふわりと宙に浮き上がる。


「あとで孤児院で落ち合おうじゃないか、マスター」


 彼女は俺に背を向け、壁をすり抜けるようにして飛び去っていった。後に残されたのは、俺と、血の海と、静寂だけだった。


 俺は拳を握りしめる。爪が食い込み、てのひらから血が滲む。仲間たちのかたきは取った。だが、失ったものはあまりにも大きい。それでも、俺は生きている。彼女が、生かしてくれた。


「……生きなきゃ」


 俺はよろめきながら立ち上がる。仲間たちの亡骸に、深く頭を下げる。「ごめん。……必ず、この借りは返す」何に対しての借りを、誰に返すのかもまだわからない。けれど、このまま犬死にするわけにはいかない。俺はふらつく足取りで、出口へと向かった。

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