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第16章:錆びついたオアシスと、熱を帯びる夜

 狩りを終えた俺たちは、重い足取りで闇の中を進んでいた。戦いの興奮アドレナリンが切れかけ、麻痺していた左肩の激痛が、鋭利な刃物で抉られるような感覚から、鈍く重い鉛を埋め込まれたような不快感へと変わっていく。一歩踏み出すたびに、脂汗が滲み出る。だが、立ち止まるわけにはいかない。まだここは死地の中腹だ。


「……マスター、あ、つい……」


 俺の右肩に掴まるティナが、うわごとのような声を漏らす。彼女は自分の足で歩こうとしているが、その足取りは千鳥足で、俺が支えていなければ今にも崩れ落ちそうだ。この渓谷特有の磁場異常は、彼女のような精密なエネルギー回路を持つ存在にとっては猛毒に等しい。

 体内を循環する冷却システムがエラーを起こし、放熱が追いつかなくなっているのだ。人間で言えば、40度を超える高熱を出して意識が混濁している状態に近い。


「我慢しろ。……水の匂いがする」


 俺は痛む感覚を叱咤し、鼻を利かせた。血と硝煙の臭いに混じって、わずかだが湿った土と、冷たい水の匂いが漂ってくる。亀裂の奥、さらに地下へと続く横穴を見つけ、俺たちはそこへ滑り込むように侵入した。


 そこは、かつてこの谷がまだ「死の谷」と呼ばれる前、何らかの施設か集落の生活用水を賄っていた痕跡――地下貯水槽の跡地だった。天井を這う配管は朽ち果てて落ちているが、コンクリートの壁面には結露した水滴が宝石のように光り、床の窪みには澄んだ地下水が溜まって、小さな泉を作っていた。灼熱と乾燥の地獄における、奇跡のような錆びついたオアシスだ。


「……ここなら、休める」


 俺はティナを抱え、乾いたコンクリートの上に座らせた。彼女は荒い息を吐き、虚ろな目で宙を見つめている。焦点が合っていない。その肌に触れると、火傷しそうなほど熱かった。衣服越しでも伝わる異常な体温。


「警告……内部温度、臨界点へ……。冷却システム、応答なし……」

「クソッ、どうすればいい」

「……水。冷やして……コアを、直接……」


 ティナが胸元を弱々しく押さえる。俺は傭兵から奪ったヘルメットを水たまりに浸し、水を汲んだ。手を入れると、指先が痺れるほど冷たい。地下深くから染み出した純粋な水だ。俺は手持ちの布を水に浸し、絞らずにティナの額に当てた。


「ん……ぅ……」


 冷たさに、彼女がビクリと体を震わせ、安堵の吐息を漏らす。ジュッ、と微かな音がして、布から湯気が上がった。焼け石に水だ。それだけでは足りない。

 彼女の命そのものである「コア」がある胸元を中心に、全身が発熱している。このままでは熱暴走で回路が焼き切れ、彼女は二度と目覚めなくなるかもしれない。


 俺は覚悟を決めた。


「……服を脱ぐぞ。全身を冷やす」

「うん……お願い……マスター……」


 俺は彼女のボロボロになったローブの留め具を外し、その下の衣服に手をかけた。羞恥心など入り込む隙間もない。これは医療行為であり、兵器の整備メンテナンスだ。月明かりもない完全な暗闇だが、彼女自身の体が内側からの熱で微かに発光しているため、その輪郭はぼんやりと浮かび上がっていた。


 露わになった白磁のような肌。だが、今は赤く上気し、汗のような粘性のある冷却液が滲み出し、全身を濡らしている。俺は冷たい水を含ませた布で、彼女の首筋、鎖骨、そして熱の源である胸元を丁寧に、しかし手早く拭いていった。


「あ……冷たい……」


 ティナが俺の腕にしがみつく。熱い吐息が俺の首筋にかかり、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。彼女の体は華奢で、壊れ物のように脆く見えた。これが、数日前まで無表情で人を殺していた兵器だとは信じられないほどに。


「……マスターの手、ゴツゴツしてて、冷たくて……気持ちいい」

「俺の手は、お前の敵を殺した血で汚れてるぞ」

「ううん……。誰よりも、優しい手だよ」


 ティナは熱に浮かされた潤んだ瞳で、俺をじっと見つめた。その瞳の奥には、以前のような無機質な光はない。弱々しく、頼りなげで、誰かに縋らなければ生きていけない「少女」の色があった。


「ねえ、マスター。……僕、また役に立たなかったね」


 彼女の声は、水滴が落ちる音よりも小さかった。


「最強の兵器なんて偉そうなこと言って……磁場が狂っただけで、まともに歩くこともできない。君に守られて、怪我させて、血まみれにさせて……ただのお荷物だ」


 彼女の目から、光の粒のような涙がこぼれ落ちる。それは悔しさか、それとも俺を傷つけた申し訳なさか。あるいは、自分が「不完全」であることへの絶望か。


 俺は布を水に浸し直し、冷たさを確かめてから、彼女の背中に回した。


「……そうだな」


 俺は否定しなかった。慰めもしなかった。


「お前は今、ただの鉄屑だ。重いし、熱いし、手間がかかる。ここに置いていけば、俺一人の生存率は跳ね上がるだろうな」

「うぅ……」

「だが」


 俺は布を彼女の胸元、複雑な文様が刻まれたコアの上に押し当てた。彼女の心臓の鼓動が、俺の手のひらに直接伝わってくる。早くて、弱々しいリズム。


「お前がいなきゃ、俺はここに来る前に死んでた。……あの野盗に殺されてたか、あるいは自分でのたれ死んでたか。毒を飲んだ時だってそうだ」


 俺は自分の左肩――包帯をきつく巻いた傷跡を見た。ズキズキと脈打つ痛み。だが、この痛みこそが、俺が「誰かを守るために動いた」という証明であり、俺がまだ生きているという実感だった。もしティナがいなければ、俺はこの痛みを抱えてまで生きようとは思わなかっただろう。


「俺とお前は、どっちも欠陥品だ。一人じゃまともに生きられない。俺には生きる目的がなくて、お前には生きる機能が足りない」


 俺は彼女の濡れた髪をかき上げ、額の汗を拭った。


「だから、背負うんだよ。お前が動けない時は俺が運ぶ。俺が戦えない時はお前が殺す。……そうやって、二人で一人のふりをして、無理やり前に進むしかないんだ」


 それが俺たちの契約であり、呪いの形だ。美しい絆なんかじゃない。泥沼の中で互いの足を掴み合いながら、沈まないようにもがいているだけの関係。


「……共依存、だね」

「ああ。最高にタチの悪いな」


 俺は苦笑した。ティナも、熱っぽい顔でふにゃりと笑った。その笑顔は、今まで見たどの表情よりも人間らしく、そして魅力的だった。


「……マスター」

「ん?」

「キス、して」


 唐突な要求に、俺の手が止まった。エネルギー補給のためか?いや、今の彼女に必要なのはエネルギー供給ではなく、過剰な熱の放出だ。理論的には逆効果ですらある。なら、これは――ただの甘えだ。不安を埋め、孤独を癒やすための、人間的な求愛行動。


「……調子に乗るなよ、ガラクタ」


 俺は悪態をつきながらも、拒否しなかった。いや、拒否できなかった。俺自身も、彼女の熱を求めていたからだ。この暗く冷たい地下室で、確かな「生」の感触が欲しかったからだ。


 顔を近づける。彼女の唇は熱く、微かに震えていた。触れ合う。血と汗と、錆びた鉄の味がする口づけ。ロマンチックの欠片もない。ただ、互いの鼓動と熱を確かめ合い、魂の輪郭を溶け合わせるような、生存確認の儀式。


「……ん」


 ティナが俺の首に腕を回し、深く求めてくる。俺もそれに応え、彼女の華奢な背中を抱き寄せた。熱い。彼女の中にある熱が、俺の中の空洞に流れ込んでくる。それは不快ではなく、凍えきっていた俺の芯を溶かすようだった。


 長い口づけの後、ティナは満足そうに息を吐き、俺の胸に頭を預けた。


「……少し、楽になったかも」

「それはよかったな。……寝ろ。熱が下がるまで動くな」

「うん。……おやすみ、僕の鍵穴さん」


 ティナはすぐに寝息を立て始めた。安心しきった寝顔。俺はその体を抱きしめたまま、闇を見つめた。左腕の感覚はない。疲労は限界を超えている。だが、不思議と心は凪いでいた。かつて抱いていた希死念慮の黒いもやが、少しだけ晴れた気がした。


 俺たちはまだ生きている。世界中を敵に回し、こんな地獄の底に落ちても、まだ二人で息をしている。それがどうしようもなく、誇らしく、愛おしいと思えてしまった。


(……生きるか)


 俺は目を閉じた。死に場所を探す旅は、いつの間にか、この温もりを守るための旅に変わっていたのかもしれない。そんな感傷を抱きながら、俺もまた泥のような眠りへと落ちていった。

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