第15章:狩人と獲物
闇の中で、俺は呼吸を殺していた。冷たい岩肌に背中を預け、泥と血にまみれた手でナイフを握りしめる。左肩の激痛は、アドレナリンの分泌によって鈍い痺れに変わっていた。
「……マスター」
足元で、ティナが不安げに身じろぎする。彼女は今、ただの重荷だ。機能不全を起こし、暗闇の中で震えるだけの少女。だが、だからこそ守りやすい。
「静かに。……来たぞ」
俺はティナの口元に指を当て、天井――亀裂の入り口を見上げた。微かな衣擦れの音。そして、ワイヤーが擦れる高い音が反響している。
降下してくる。獲物を追い詰めたと確信した狩人たちが。
「……ライト点灯。クリア」
「熱源反応なし。磁気嵐の影響でセンサーが死んでる。目視で探せ」
無機質な声と共に、白い人工的な光が闇を切り裂いた。タクティカルライトだ。光の帯が洞窟内を舐めるように走り、岩の陰影を濃くする。
人数は3人。足音のリズムと、装備が擦れる音で分かる。全員がプロだ。隙がない。だが、彼らは一つ勘違いをしている。「手負いの子供」と「壊れた兵器」を狩りに来たつもりでいる。
(……ようこそ、俺の庭へ)
俺は音もなく移動した。彼らのライトが、俺たちがさっきまでいた場所を照らす。そこには、俺が意図的に残した血痕がある。
「血だ。……大量に出血してる。遠くへは行ってないぞ」
「警戒しろ。ネズミが噛み付いてくるかもしれん」
男の一人が、血痕を追って奥へと進む。他の二人は入り口付近で周囲を警戒している。連携が取れている。だが、この洞窟の構造を知らないのが彼らの敗因だ。
俺は頭上――岩棚の上にへばりついていた。左手の激痛に耐えながら、片手と両足で体を支える。真下を、先頭の男が通り過ぎる。ヘルメットと防弾ベストで固められた、隙のない装備。だが、首元。装甲の継ぎ目。そこだけが生身だ。
俺はナイフを逆手に持ち直し、重力に身を任せて落下した。
「――っ!?」
男が気配に気づき、上を向く。遅い。俺の全体重と落下の勢いを乗せたナイフが、男の鎖骨の隙間、首の付け根に深々と突き刺さる。
ズプッ。
「ガ、ッ……」
声帯を潰す。悲鳴は上げさせない。俺はそのまま男の背中に乗り、ナイフをねじりながら地面に叩きつけた。断末魔は、ブーツで踏みつけて押し殺す。男の手足がビクンと跳ね、すぐに弛緩した。
「……おい、どうした? 何かあったか?」
後方の二人が異変に気づき、ライトを向ける。俺は死体を盾にして、即座に岩陰へと転がり込んだ。
「撃てッ!」
ダダダダダッ!
乾いた銃声が洞窟内に反響する。岩が削れ、跳弾が火花を散らす。俺は死体の腰から、ハンドガンと予備のマガジン、そして閃光手榴弾を抜き取っていた。
「くそっ、1番がやられた!」
「姿が見えない! どこだ!」
二人の動きが止まる。恐怖が伝播する。見えない敵。手負いのはずの獲物が、一瞬で仲間を殺した事実。
「……出てこい! 隠れても無駄だぞ!」
男が怒鳴りながら、手当たり次第に発砲する。焦っている。俺は死体から剥ぎ取った無線機をオンにし、そこへ向かって石を投げた。洞窟の奥、俺がいる場所とは反対側へ。
カラン、コロン。
乾いた音が響く。
「あっちだ!」
二人のライトと銃口が、音のした方へ向く。その瞬間。俺はピンを抜いた閃光手榴弾を、彼らの足元へ転がした。
「なっ、グレネード!?」
「伏せろ!」
カッ!!
狭い洞窟内で、強烈な閃光と爆音が炸裂する。彼らの暗視ゴーグルは、急激な光量変化に対応できず、視界をホワイトアウトさせる。
「ぐあぁぁぁッ! 目が!」
俺は飛び出した。銃は使わない。マズルフラッシュで位置がバレる。今の俺に必要なのは、静寂と確実な死だ。
一人目の背後に回る。視界を奪われ、パニックで銃を振り回している男。俺はその膝裏を思い切り蹴りつけた。
「ぐっ!」
男が膝をつく。俺はその首に腕を回し、全体重をかけて締め上げた。頸動脈を圧迫する。男がもがくが、俺は万力のように離さない。左肩の傷が開き、熱い血が流れるが、それすらも力に変える。
「……寝ろ」
数秒後、男の力が抜ける。気絶したか、死んだか。どちらでもいい。俺は男を放り捨て、最後の一人に向き直った。
「き、貴様ぁぁぁッ!」
最後の男は、視力が戻らないまま、気配だけでこちらにナイフを振るってきた。大ぶりな動き。恐怖で腰が引けている。
俺は冷静にそれを見切った。半歩下がり、空を切らせる。そして、男の手首を掴み、関節を逆方向にねじり上げた。
ボキッ。
「ぎゃあああッ!」
悲鳴。俺は男の腹部に膝蹴りを叩き込み、うずくまったところを上から踏みつけた。ナイフを喉元に突きつける。
「……終わりだ」
「ひ、ひぃ……! 助け……俺は、金で雇われただけだ……!」
男がマスクの下で命乞いをする。俺はその目をじっと見つめた。恐怖。絶望。かつての俺と同じ目だ。
「……そうか」
俺はナイフを振り上げた。
「なら、地獄で金を使え」
迷いなく振り下ろす。ズリュ。嫌な感触と共に、男の命乞いが途絶えた。
静寂が戻る。あるのは、血の匂いと、硝煙の残り香だけ。俺は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。
「はぁ、はぁ……ッ」
激痛が戻ってくる。左腕の感覚がない。出血量が多すぎる。俺は震える手で、奪った装備の中から止血剤と包帯を探し出した。
「マスター……」
岩陰から、ティナが這い出してきた。彼女は惨殺された死体の山を見て、そして血まみれの俺を見て、息を呑んでいた。
「……僕が、やるよ」
彼女は俺のそばに来て、不自由な手つきで包帯を巻き始めた。その手は冷たかったが、今はそれが心地よかった。
「ごめんね……。僕が役立たずだから、マスターにこんな汚れ仕事を……」
「汚れるのは慣れてる」
俺は痛みに顔を歪めながら答えた。
「俺はゴミ捨て場育ちだ。……綺麗な戦いなんて、最初から似合わない」
ティナの視線を感じる。彼女は、俺の残酷さを恐れているのだろうか。それとも、自分を守るために獣になった俺を、哀れんでいるのだろうか。
「……違うよ」
ティナが呟いた。彼女は包帯を巻き終え、俺の血に濡れた頬をそっと撫でた。
「綺麗だよ、マスター。……君のそういう『生への執着』は、僕なんかよりずっと綺麗だ」
彼女の瞳が、暗闇の中で微かに光った気がした。俺は何も言えなかった。ただ、彼女の冷たい手に自分の手を重ね、泥の中で一時の休息を取った。
狩りは終わった。だが、まだ谷底だ。俺たちは装備を整え、再び歩き出す準備を始めた。この長い夜は、まだ明けない。




