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第14章:死の渓谷と、見えない凶弾

 宗教都市を後にした俺たちが足を踏み入れたのは、地図上で「死の渓谷デス・キャニオン」と呼ばれる地帯だった。


 一歩踏み入れた瞬間から、世界が変わったようだった。両側に切り立った赤茶けた岩壁が数百メートルにも渡ってそびえ立ち、空を細く、頼りなく切り取っている。太陽光が岩肌に乱反射し、谷底は巨大なオーブンのように熱せられていた。風が吹くたびに、熱風が頬を叩き、砂が目に入る。汗が吹き出し、瞬時に乾いて塩になる。喉の渇きが、不快なリズムで警鐘を鳴らし続けていた。


「……う、ぐ……」


 後ろを歩くティナが、苦しげな呻き声を漏らす。彼女はフードを深く被り、ふらつく足取りで俺の背中を追っていた。いつものように浮遊していない。地面を歩くことさえ、今の彼女には重労働のようだった。


「大丈夫か、ティナ」

「……ノイズが、酷い」


 彼女は自身のこめかみを強く押さえていた。


「この谷、磁場が狂ってる。コンパスも、レーダーも、熱源探知も……全部真っ白だ。5メートル先も見えない濃霧の中にいるみたいで、平衡感覚がおかしくなる」

「俺から離れるなよ。はぐれたら終わりだ」

「うん……ごめんね、マスター。お荷物で」


 ティナが俺の服の裾を握る。その手は小刻みに震えていた。最強の古代兵器も、環境という暴力の前では無力だ。だが、俺にとっては好都合かもしれない。この過酷さは、俺の「生きたい」という意志を削ぎ落とし、ただ足を前に運ぶだけの機械に変えてくれるからだ。


 ザッ、ザッ。砂を踏む足音だけが、乾いた谷底に響く。岩が風化して崩れる音が、時折パラパラと落ちてくる。その音が、何かが引き金を引く音に聞こえて、俺は何度も振り返りそうになった。


(……視線を感じる)


 気のせいではない。肌がピリピリと粟立つ、独特の感覚。かつてゴミ捨て場で、野犬に狙われていた時と同じ感覚だ。俺は布で口元を覆い直し、目を細めて岩場を睨んだ。どこだ?岩の裂け目か? 影の中か? それとも、あの遥か頭上の崖の上か?


 その単調なリズムが、唐突に破られたのは、俺が足を止めた瞬間だった。


 カアンッ!


 硬質な金属音。俺の目の前、ティナの顔の横10センチの空間で、火花が散った。見えない障壁バリアが、何かを弾いた音だ。


「え……?」


 ティナが反応するよりも早く、俺は反射的に彼女の首根っこを掴んだ。


「伏せろッ!」


 俺は彼女を地面に押し倒した。そのコンマ数秒後。


 ヒュン! ガギンッ!


 空気を切り裂く音と共に、俺たちが立っていた場所の後ろにあった岩が、粉々に砕け散った。石礫いしつぶてが降り注ぎ、俺の頬を切る。


「う、わぁっ!?」

「頭を下げるんだ!」


 俺はティナを引きずり、近くの大岩の陰へと滑り込んだ。心臓が早鐘を打つ。狙撃だ。それも、音速を超えた実弾による超長距離射撃。


「い、位置は!? どこから!?」

「分からない! 探知できない! エラーばっかりで……!」


 ティナがパニックを起こして叫ぶ。俺は彼女の口を手で塞ぎ、岩に背中を押し付けた。


「静かにしろ。音で位置がバレる」


 俺は耳を澄ませた。銃声が聞こえない。これほどの威力の弾丸なら、発砲音は轟音のはずだ。距離が離れすぎているのか、あるいは高度な消音機能を使っているのか。ただ、着弾音と岩が砕ける音だけが、死の宣告のように乾いた音を立てている。


「動くな。……誘い出されてる」


 俺は岩の隙間から、周囲を観察した。射線が通っていないのはこの岩陰だけだ。一歩でも出れば、頭を吹き飛ばされる。相手は完全に俺たちの動きをコントロールしている。


「どうするの……?」

「場所を特定する。……ティナ、障壁を最大展開しろ。一瞬でいい」


 俺はポーチから、飲み干した水筒を取り出した。それを、岩の左側へ放り投げる。


「今だ!」


 俺が叫ぶと同時に、水筒が空中に舞う。ティナが反応し、水筒の周りに障壁を展開しようとするが――遅かった。


 ズドンッ!


 空中で水筒が弾け飛ぶ。中身の水ではなく、金属片となって四散した。正確無比。だが、その一瞬の弾道の角度、そして岩に当たった跳弾の火花。俺は見逃さなかった。


(……10時方向。あの、鷲のくちばしのような崖の上か)


 高さ50メートルはある断崖絶壁の上。逆光で姿は見えない。だがあそこからなら、この谷底はすり鉢の底のアリ地獄だ。どこへ逃げても丸見えだ。


「ティナ、あの崖の上だ。撃てるか?」

「無理! 仰角がきつすぎるし、障害物が多すぎる! それに……この磁場じゃ、照準が定まらない!」


 ティナが悲鳴を上げる。「それに、あっちからは私たちが見えてる! 熱源探知も光学迷彩も無効化されてる!」


 詰みか。いや、まだだ。俺は周囲を見回す。10メートル先に、別の大きな岩がある。あそこまで移動できれば、崖の死角に入れるかもしれない。


「走るぞ! 次の遮蔽物まで!」

「えっ、でも!」

「ここにいても、じきに岩ごと吹き飛ばされる! 行くぞ!」


 俺の予感は正しかった。直後、ドォォォォン!! という爆音が轟き、俺たちが隠れている岩の頂上が吹き飛んだ。狙撃だけじゃない。擲弾グレネードか迫撃砲まで撃ち込んできている。爆風と熱波が俺たちを襲う。


「くそッ……!」


 俺はティナの手を引き、岩陰から飛び出した。灼熱の砂の上を駆ける。足がもつれそうになるが、止まれば死ぬ。


 その瞬間、空気が裂ける音が連続して響く。


 ギャギンッ! ガギギッ!


 ティナが走りながら背後に障壁を展開する。だが、その光は頼りなく明滅していた。磁場異常のせいで、障壁の構成が安定しないのだ。


「きゃあっ!」


 一発の弾丸が障壁の薄い部分を貫通し、ティナの肩を掠めた。ローブが裂け、火花が散る。生身ではないとはいえ、ダメージはある。彼女の姿勢が崩れ、つんのめる。


「ティナ!」


 俺は彼女の腕を強引に引き上げ、前へ引っ張る。あと5メートル。あの岩の裏に入れば――!


 だが、敵はそれすらも読んでいた。俺たちが踏み出そうとした地面、そこが不自然に盛り上がっていたことに、俺は気づけなかった。


 ズガァン!


 地面が爆発した。地雷だ。爆風に煽られ、俺たちは枯れ葉のように吹き飛ばされる。


「がはっ……!」


 背中を地面に打ち付ける。肺の空気が強制的に絞り出される。視界が砂煙で真っ白になる。耳鳴りが酷い。キーンという音が脳内を支配する。


「マ、スター……!」


 砂煙の中で、ティナの声がした。俺は必死に目を凝らす。ティナは数メートル先に倒れていた。起き上がろうとしているが、足が動かないようだ。地雷の衝撃でサーボモーターがいかれたのか。


 そして、砂煙が風に流され、薄くなる。その向こうで、冷徹な殺意を持ったスコープの光が一瞬だけ煌めいた。


(しまっ……)


 俺の全身が粟立った。狙撃手が、動けないティナを捉えたのだ。障壁はない。回避もできない。完全に無防備な「的」だ。


 俺が思考するより速く、次弾が放たれる気配がした。音はない。だが、殺意だけが直線で届く。


「うおおおおおッ!」


 俺は地面を蹴った。砂利で足が滑るのも構わず、泥臭く地面を這うように滑り込み、ティナの上に覆いかぶさる。間に合え。俺の背中でいい。肉の壁になれ。


 ドスッ。


 鈍い、湿った衝撃音。俺の左肩に、焼けた鉄棒をハンマーで叩き込まれたような激痛が走った。


「ぐ、ぅぅぅッ……!」


 熱い。痛いというより、熱い。左腕の感覚が一瞬で消え失せた。貫通した。骨が砕ける嫌な感触が、振動として背骨に伝わる。


「マスター!?」


 俺はティナを抱きかかえたまま、その衝撃の勢いを利用して転がった。地面が傾斜している。そのまま、少し窪んだ岩の割れ目――谷底に口を開けたクレバスへと滑り落ちる。


 ザザザザッ……。


 砂崩れと共に、俺たちの体は重力に従って落下していく。岩肌に体を打ち付け、転がり落ちる。上からは追撃の銃声が響くが、岩壁に阻まれて届かない。光が遠ざかる。俺たちは谷底のさらに深い場所、闇の底へと飲み込まれていった。


 ドサッ。


 湿った土の上に叩きつけられる。背中の痛みが、左肩の激痛を呼び覚ました。


「あ、ぐ……っ、はぁ、はぁ……」


 俺は脂汗を流しながら、震える右手で左肩を押さえた。指の間から、どす黒い血が溢れ出して止まらない。生暖かい液体が、服を濡らしていく。鉄の臭いが鼻孔を満たす。


「マスター……! 血が、血が……!」


 ティナが俺の顔を覗き込む。暗闇の中でも、彼女の瞳がパニックで見開かれているのが分かった。彼女自身の肩の傷からも、血の代わりにノイズのような火花が散っている。


「騒ぐな。……死にはしない」


 俺は歯を食いしばり、痛みに耐えながら上体を起こした。服を裂き、傷口より心臓に近い部分を強く縛る。止血。まずはこれだ。激痛で視界が白むが、意識を飛ばすわけにはいかない。ここで気絶したら、本当の死が待っている。


「……ここは、どこだ」


 見上げれば、遥か頭上に切り取られた空が、細い線のように見える。俺たちは谷底の亀裂、地下水脈が枯れた洞窟のような場所に落ちたらしい。薄暗く、ひんやりとした空気が漂っている。外の灼熱が嘘のような冷気だ。


「……磁場が、もっと酷い」


 ティナが弱々しく呟く。彼女は壁に背を預け、うなだれていた。


「センサーどころか、自己修復機能もエラーを起こしてる。……マスター、僕、うまく動けない」


 彼女の手足が、痙攣するように小刻みに震えている。最強の古代兵器が、ただの鉄屑になりかけている。エネルギー循環が阻害され、ただの重たい金属の塊と化しつつあるのだ。


 そして俺は、片腕が使えない手負いの人間だ。武器ティナも使えず、体もボロボロ。絶望的な状況だ。


「……上等だ」


 俺は血の混じった唾を吐き捨てた。懐から、サバイバルナイフを抜く。逆手に持ち、その冷たい感触を確かめる。


「ここなら狙撃は通らない。……奴らは、降りてくるはずだ」


 敵はプロだ。死体を確認するまで、決して諦めないだろう。狙撃で仕留め損なった獲物を、今度は確実に狩るために、この闇の中へ入ってくる。


「この暗闇の中で、目も見えず、武器も壊れた状態での殺し合いか」


 俺はニヤリと笑った。痛みで思考が冴え渡る。そうだ。これは俺の世界だ。「神々の戦い」のような派手な魔法合戦じゃない。泥と血にまみれ、石で頭を砕き合うような、原始的な殺し合い。


「泥仕合なら、俺の得意分野だ」


 俺は震えるティナの肩を抱き寄せ、闇の奥へと身を潜めた。痛みと血の臭いが、俺の感覚を獣のように研ぎ澄ませていく。


 狩る側と狩られる側。立場をひっくり返すための、底辺からの反撃が始まる。

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