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第10章:腐海の森と、不協和音の口づけ

 鉄屑の街を後にした俺たちが辿り着いたのは、地図上で「立入禁止区域」に指定されている広大な森林地帯だった。かつては豊かな緑だったのだろうが、今は見る影もない。木々は病的な紫色に変色し、枝からは粘液のような樹液が滴り落ちている。地面はぬかるみ、踏みしめるたびに腐った果実のような悪臭が舞い上がる。


 ここが「腐海の森」。施設の実験廃棄物が長年にわたって不法投棄され、生態系が狂い果てた場所だ。


「うわぁ……。数値が異常だよ、マスター」


 ローブで全身を覆ったティナが、不快そうに声を上げた。


「大気中の毒素濃度、基準値の30倍。それに、空間中のマナも汚染されてる。僕の清浄フィルターが悲鳴を上げてるよ」

「……文句を言うな。ここを抜ければ、次の『支部』があるはずだ」


 俺は口元を布で覆い、なたでイバラを払いながら進む。毒にも慣れたのか、あるいはティナの管理下にあるせいか、俺の体はこの劣悪な環境でも平然と動いていた。死にたくても死ねない身体。それが今は、ただの移動手段として機能している。


 ガサッ。


 茂みが揺れ、異形の獣が飛び出してきた。いのししのようだが、全身に腫瘍があり、目が四つある。狂ったように涎を垂らし、こちらへ突進してくる。


「邪魔だ」


 俺は右手を軽く振った。ティナが瞬時に反応し、俺の手元に蒼い刃を形成する。一閃。獣は悲鳴を上げる間もなく両断され、汚れた血を撒き散らして絶命した。


「……弱いな」


 俺は血糊を払い、再び歩き出す。感情はない。ただ、目の前の障害物を排除する。それだけの作業だ。


 日が暮れると、森の不気味さは一層増した。発光する苔が木々を照らし、どこからか聞こえる獣の遠吠えが反響する。俺たちは巨大な木のうろを見つけ、そこで野営することにした。


 焚き火はできない。有毒ガスに引火する恐れがあるからだ。暗闇の中、俺たちは携帯食料をかじる。泥のような味がした。


「……ねえ、マスター」


 闇の中で、ティナが身じろぎした。彼女の輪郭が、いつもより薄く、明滅しているように見える。


「ちょっと、エネルギー分けてくれない? この森、いるだけで消耗するんだ。常時浄化プロセスを回してないと、僕の回路まで腐りそうで」

「ああ、そうか」


 俺は食べかけの固形食を置き、右手を差し出した。いつものように、手を握って精神力を流し込めばいい。


 だが。俺の中で、ふと黒い衝動が鎌首をもたげた。


 こいつは俺を管理している。毒を飲んでも死なせてくれず、俺の人生を「自分を運ぶための道具」として利用している。それなのに、こうして弱った時だけ、ペットのように無邪気にエネルギーをねだってくる。


(……一矢、報いてやるか)


 本当に、子供じみた反抗心だった。こいつが嫌がりそうなこと。あるいは、こいつの兵器としての論理ロジックを超えた、非効率なこと。俺の唇(人間としての生々しい器官)を、こいつに押し付けてやる。


「……ティナ」

「ん?」


 俺は彼女の差し出した手を無視し、その肩を掴んで強引に引き寄せた。


「メンテが必要なんだろ?」

「そうだけど……手でいいよ、わざわざ近づかなくても……」


 俺は有無を言わさず、彼女の言葉を唇で塞いだ。


「……ん!?」


 ティナの目が驚愕に見開かれる。柔らかい感触。けれど、温度のない冷たい唇。俺は数秒間、唇を強く押し付け、そして乱暴に離した。


「……ぷはっ」


 俺はわざとらしく口元を拭った。どうだ。人間同士なら、愛か、あるいは侮辱の行為だ。お前みたいな兵器には理解できないだろう。


 ティナは瞬きを数回繰り返し、小首をかしげた。


「……マスター。今の、何?」

「メンテナンスだ」

「効率が悪すぎるよ。粘膜接触による情報伝達速度は、皮膚接触の1.2倍しかない。それに唾液交換のリスクを考えると、推奨できない行為だね」


 予想通りの反応だった。彼女には「キス」の意味などない。ただの非効率なデータ通信だ。俺は鼻で笑った。


「俺は人間だからな。こういうやり方じゃないと、調子が出ないんだよ」

「ふうん……。人間って面倒くさいね」


 ティナは唇を指先で触れた。


「でもまあ、エネルギー供給は確認できたから、いいや。……味もしなかったし」


 彼女は興味を失ったように、洞の奥で膝を抱えた。俺の反抗は、暖簾のれんに腕押しだった。


 悔しいが、同時に安堵もした。こいつに心がなくてよかった。もし心があったなら――自分の手で殺した女の弟と、こうして唇を重ねることなんてできなかったはずだから。その平然とした態度こそが、こいつが「化け物」である証明だ。


 だが、俺は気づいていなかった。闇の中で、ティナが無意識に――もう一度だけ、自分の唇に触れていたことを。


『……0.01%。微細なエラーログを確認』


 彼女の内部処理で、小さな警告が表示される。だが、彼女はそれを「環境毒素による一時的なバグ」として処理し、ゴミ箱へと捨てた。


 翌朝。森の奥へ進むと、不自然に開けた場所に出た。そこには、ボロボロのテントや掘っ立て小屋が密集した、小さな集落があった。


「……村?」


 こんな汚染された場所に、人が住んでいるのか?俺たちが近づくと、畑仕事をしていた数人の村人がこちらに気づいた。彼らの姿を見て、俺は息を呑んだ。


 皮膚が紫色に変色し、体中に植物の根のような血管が浮き出ている。目玉が飛び出していたり、指が癒着していたり、まともな人間の姿をしている者は一人もいない。


「あ、あんた……旅人か?」


 くわを持った老人が、おっかなびっくり声をかけてくる。その声は枯れ木のようだった。


「……ああ。道に迷っただけだ」

「こんな地獄にか……。おい、みんな! お客さんだ!」


 老人が叫ぶと、小屋からぞろぞろと人々が出てきた。大人も、子供も、全員が「異形」だった。施設の実験廃棄物が、彼らの遺伝子を汚染し、変異させたのだろう。


「水はあるか? 食い物は?」

「珍しいお客さんだ、もてなさねぇと!」


 彼らは俺たちを警戒するどころか、すがるような目で取り囲んできた。外部からの来訪者。それは彼らにとって、希望の象徴なのかもしれない。


「……おい、よせ。俺たちは」


 俺が拒絶しようとした時、一人の少女が俺の服の裾を掴んだ。年齢は10歳くらいか。顔の半分が腫瘍で覆われている。


「おにいちゃん、おねがい。……たすけて」


 少女は涙を流しながら言った。


「パパが、森の奥の『工場』に連れて行かれたの。……帰ってこないの」


 工場。その言葉に、俺の中のセンサーが反応した。この森の汚染源。そして、施設の支部。


「……詳しく聞かせろ」


 俺は少女の前にしゃがみ込んだ。少女を助けたいわけじゃない。ただ、俺が壊すべき標的ターゲットの場所を知りたかっただけだ。


 だが、村人たちは俺を「救世主」を見るような目で見つめ始めた。その期待の眼差しが、俺には酷く滑稽で、そして不愉快だった。


(勝手に期待するな)(俺は勇者じゃない。ただの、通りすがりの死神だ)


 俺は冷たい目で森の奥を睨みつけた。そこには、この地獄を作り出した元凶が待っている。ちょうどいい。自殺も失敗し、キスの嫌がらせも不発に終わった俺の、鬱憤うっぷんを晴らすにはおあつらえ向きだ。


「案内しろ。……その工場、俺が更地にしてやる」


 俺の言葉に、村人たちが歓声を上げる。俺はそれを背中で聞き流し、ティナと共に歩き出した。


 俺たちは救うために戦うのではない。ただ、壊すために戦うのだ。それでも結果として誰かが救われるなら――それは皮肉な喜劇でしかない。

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