第9章:鉄屑の街と、許されない安息
空気が変わった。森の澄んだ冷気とは対極にある、錆びた鉄とオイル、そして腐った欲望が混じり合ったような重たい臭気。目の前には、巨大な廃棄物の山に張り付くようにして形成された、「鉄屑の街」が広がっていた。
建物はどれも、廃材を継ぎ接ぎして作られた歪なものばかりだ。トタン板や歯車、蒸気パイプが無秩序に組み上げられ、煙突からは常に黒い煙が吐き出されて曇った空をさらに汚している。ここは、行き場を失った人間や、法を犯した無法者、そして過去を捨てたスカベンジャーたちが吹き溜まる場所だ。
「わあ、すごいねマスター。街全体がゴミ箱みたいだ」
目深に被ったボロボロのローブの下から、ティナが場違いに弾んだ声を上げる。彼女の銀髪や浮遊能力は目立ちすぎるため、こうして変装させ、足をついて歩くように厳命してある。
「……声が大きい。目立つな」
俺は周囲を警戒しながら歩を進める。すれ違う人々は皆、濁った目をして俺たちを値踏みしてくる。金目の物を持っているか。弱そうか。殺して奪えるか。そんな粘着質な視線が肌に突き刺さるが、今の俺にはどうでもよかった。昨日の野盗との一件以来、俺の恐怖中枢は麻痺しているらしい。あるいは、死に場所を探している俺にとって、殺意などただの風のようなものだ。
「まずは宿を探す。それから、必要な物を買い揃える」
「りょーかい。……あ、見てマスター! あそこの露店、変な形のガラクタがいっぱい!」
ティナが露店に興味を示して駆け寄っていく。俺はため息をつきつつ、ふと足を止めた。今だ。ティナの意識が他に向いている、この一瞬。
俺は路地裏の影に潜んでいた、薄汚れた看板の店へと視線を向けた。看板には、毒々しいドクロのマークと、薬瓶の絵。『万屋 グリム』。下調べはしていないが、こういう吹き溜まりのような街には、必ず「裏の需要」を満たす店があるものだ。
「……ちょっと用事を済ませてくる。そこで待ってろ」
「ん? うん、わかったー」
ティナは古い機械部品をいじり回すのに夢中だ。俺は速足で、その店へと滑り込んだ。
店内はカビ臭く、薄暗かった。棚には埃をかぶった怪しげな骨董品や、干からびた動物の一部が並べられている。カウンターの奥には、片目に眼帯をした老人が座り込み、死んだ魚のような目でこちらを見上げた。
「……ガキに売る菓子は置いてねぇぞ」
「菓子はいらない。薬が欲しい」
俺は懐から、じいちゃんが持たせてくれた路銀の革袋を取り出した。ジャラリ、と重い音がカウンターに響く。老人の目の色が変わった。濁っていた瞳に、守銭奴の光が宿る。
「……どんな薬だ? 精力がつくやつか? それとも、嫌なことを忘れてハイになる粉か?」
「一番、効き目が強いやつだ。……苦しまずに、一瞬で意識が飛ぶやつがいい」
俺は声を潜めて注文した。老人は俺の顔をじっと観察し、ニタリと卑しい笑みを浮かべた。
「害獣駆除か? それとも、口うるさい親父へのプレゼントか?」
「……害獣だ。自分に取り憑いた、厄介な寄生虫を駆除したいんだ」
嘘ではない。俺という人間に寄生した、逃れられない運命を断ち切るのだから。老人は何も聞かず、棚の奥から小指ほどの大きさの小瓶を取り出した。中には、とろりとした紫色の液体が入っている。
「『夢見の雫』だ。元々は麻酔薬だが、原液なら牛一頭が一瞬で逝く。味もしねぇ。……高いぞ」
老人が提示した金額は、俺の持っていた路銀の半分だった。じいちゃんたちが、なけなしの金をかき集めてくれた金。俺が生きていくために持たせてくれた金。それを、死ぬために使う。
(ごめん、じいちゃん、ばあちゃん)
胸が痛んだが、生き地獄を続けるよりはマシだ。俺は震える手で金貨を支払い、小瓶をひったくった。店を出る。心臓が早鐘を打っている。ティナはまだ露店の前で店主と何か話している。気づかれていない。
俺は近くの路地裏へと入り込んだ。ゴミと汚水の臭いがする、薄暗い袋小路。ここなら誰にも見られない。ティナの監視の目も届かないはずだ。
俺は小瓶の蓋を開けた。甘いような、化学薬品のような微かな香り。
昨日はナイフで失敗した。ティナが物理的に干渉してきて、俺の皮膚を守ったからだ。だが、これは毒だ。飲み込んでしまえば、体内に入ってしまえば、もう剣や障壁で防ぐことはできない。ティナがいかに万能でも、俺の消化器官までは制御できないはずだ。
「……やっと、終われる」
俺は一気に、小瓶の中身を煽った。喉を焼くような感覚もなく、冷たい液体が胃の腑に落ちていく。
数秒後。視界がぐらりと揺れた。来た。手足の感覚が遠のいていく。意識が白く霞んでいく。ああ、これが死か。思ったよりも静かで、優しい。
俺は汚れた壁に背中を預け、ずり落ちるように座り込んだ。まぶたが重い。このまま眠れば、もう姉さんの死に顔を思い出さなくて済む。ティナという悪魔に怯えなくて済む。何もかも忘れて、ただの無になれる。
(さよなら……)
俺は目を閉じた。永遠の闇が訪れるのを待った。
――だが。
『警告。致死性毒素の摂取を確認』
脳裏に響いたのは、天使のラッパではなく、聞き飽きた無機質な声だった。
「……あ?」
『消化管内にて毒素を特定。緊急浄化プロセスを開始します』
「や、やめ……」
ドクンッ!!
心臓が大きく跳ねた。胃袋が熱くなる。まるで、体の中に焼けた石を飲み込んだような感覚。だが、それは苦痛ではなかった。急速に、力が漲ってくる感覚だ。
「う、おぇ……ッ!?」
霞んでいた視界が、急激にクリアになる。痺れていた手足に、力が戻ってくる。それどころか、ここまでの旅の疲労感さえも消え失せ、全身の細胞が活性化しているのが分かった。
『分解完了。毒素をエネルギーへ変換。基礎代謝、および筋組織の修復に使用しました』
「は、ぁ……はぁ……?」
俺は自分の手を見つめた。震えが止まっている。意識は覚醒し、かつてないほど体調が良い。死ぬどころか、健康になってしまった。
「あーあ。ナイフの次は、毒? 今度は変なものを拾い食いしたの、マスター?」
路地の入り口に、ティナが立っていた。ローブのフードを外し、呆れたような顔でこちらを見下ろしている。
「いなくなったと思ったら、こんなところで隠れ食いなんて。お行儀が悪いよ」
「……毒、だったんだ」
俺は空になった小瓶を握りしめ、掠れた声で訴えた。
「俺は、死のうとしたんだ! 猛毒を飲んだんだぞ!」
「うん、解析したよ。神経系に作用するアルカロイドだね。ちょっとピリッとしたけど、エネルギー効率は悪くなかったよ」
ティナはふわりと浮き上がり、俺の目の前までやってきた。そして、子供をあやすように俺の頭をポンポンと叩いた。
「君は僕の『鍵穴』なんだから、メンテナンスは僕の仕事だと言ったでしょう? 物理的な外傷だけじゃなく、生体機能も管理下にあるんだよ」
彼女は小瓶を俺の手から取り上げ、無造作に後ろへ放り投げた。カシャン、とガラスの割れる音が、俺の希望が砕ける音のように響いた。
「栄養バランスが偏ってたから、ちょうど良かったかもね。……でも次は、もっと美味しいものがいいな」
悪気はない。彼女にとって、俺の決死の自殺未遂は「偏食」や「つまみ食い」程度の問題でしかなかった。彼女の論理において、俺の命は俺のものではなく、彼女を維持するためのリソース(資源)なのだ。
俺は乾いた笑い声を漏らした。
「はは……ははは……」
死ねない。ナイフでも、毒でも。俺の体は、細胞の一つ一つに至るまで、もう俺のものじゃない。この悪魔が満足するまで、あるいはこの悪魔が壊れるまで、俺は強制的に生かされ続けるのだ。
「……分かったよ」
俺は地面に手をつき、立ち上がった。体は軽い。皮肉なほどに力が溢れている。絶望が一周回って、冷たい殺意に変わった。
「死ねないなら……終わらせるしかないな」
「ん? 何を?」
ティナが小首をかしげる。俺は彼女を睨みつけ――いや、その奥にある運命を見据えて言った。
「元凶だ。施設も、お前を作った連中も……そして、このふざけた契約も」
施設に行こう。そこには、俺の体の秘密があり、ティナの本体がある。このシステムを終わらせる方法は、そこにあるはずだ。俺が本当の安息を得るためには、この世界から「ミスティルテイン」という理不尽を消し去るしかない。
「へえ。やる気になったみたいだね、マスター」
ティナは俺の殺意を心地よさそうに受け止め、ニッコリと笑った。
「いいよ。とことん付き合ってあげる。……君が、僕の『鍵穴』でいてくれる限りね」
俺は無言でフードを被り直した。もう、自殺なんて馬鹿な真似はしない。それは逃げではなく、不可能だからだ。
俺は歩き出す。鉄屑の街の澱んだ空気が、今の俺には相応しかった。復讐でもない、生存本能でもない。ただ「終わり」を手に入れるための、果てしない旅がここから始まる。




