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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

十三の鐘が鳴っても、姉を忘れない

作者: 月光院ゆら

 真昼の光が王立学園の尖塔を白く洗い、石畳は硬い影をくっきりと落としていた。

 広場の空気は澄み、夏草の匂いがかすかに混じる。


 正午を告げる鐘が鳴る。

 七つ。八つ。九つ。──十、十一、十二。

 そこで終わるはずの音が、静かな空気を微かに裂いて、もう一度震えた。


──十三。


 私は思わず振り返った。だが、広場に立つ学生たちは誰も気づいていない風だった。

 聞こえたのは、きっと私だけ。

 私の魔法──残滓視が、鐘楼に残る古い呪式の震えを拾ったのだ。


 私はユノ・アステール。市井の菓子屋の娘で、奨学生。

 肩のあたりで切りそろえた栗色の髪、陽に透ける琥珀の瞳。背は高くない。けれど目だけは、色や匂いの“残り”を見るために、いつも世界の奥をのぞき込んでいる。

 私がこの学園にいる理由は学びではない。探しもののためだ。


 二年前の春、姉のアリアがこの学園に入学し、その秋、忽然と姿を消した。

 「退学扱い」と掲示に貼られた名は、数日後には帳簿からも抹消された。教師も、友人も、家族さえも──まるで最初から存在しなかったかのように、彼女を忘れてしまった。

 ただ一人、私だけは彼女を忘れていない。

 理由は、私が時折、過去の魔力が置いていく色と匂いを視られるから。

 姉が笑った残り香も、手を繋いだ温もりも──色になって私の掌に残るから。

 十三回目の鐘は、いつだって「忘れないで」と告げる姉の声のように聞こえていた。


 昼下がりの中庭。ベンチに座ってノートをまとめていると、少し離れたベンチに座った数人の生徒たちが笑い合う声が聞こえてきた。


「学園の不思議って知ってる? ほら、夜になると白椿が光るやつ」

「見たら試験に受かるんだって。逆に魂を吸われるって言う子もいるけど」


 私はペンを止める。聞く気はなかったのに、耳が勝手にそちらへ向いてしまう。


「図書館も怪しいよ。夜中に本が消えて、戻ってきても人名が抜けてるんだ」

「一番怖いのは鐘楼さ。十三回鳴ったのを聞いたら、もう帰ってこられないって」


 その言葉に私は息を詰めた。

 ──十三の鐘。

 私はもう、何度も聞いている。


 笑い交じりの噂話。彼らにとっては試験勉強の合間の肝試しにすぎない。

 けれど私の胸の奥には冷たいものが沈んでいった。

 ──白椿。図書館。鐘楼。

 それはみんな、二年前に姿を消した姉アリアの痕跡に繋がっている。

 そう告げているのは、私の残滓視だけだ。


 ノートを閉じる。平民である私は談笑する貴族の輪に入ることはできない。けれど、耳にした噂は胸の奥に刺さったままだった。

 もしも──噂が、ただの怪談ではなかったとしたら。


「……また真剣な顔をしているな」


 低い声に顔を上げると、監査官補佐の制服を着た青年が立っていた。

 黒に近い深い茶の髪を無造作に撫でつけ、灰青の瞳はいつも静かで、感情を大きく揺らすことがない。端正な制服の上からでも、無駄のない所作の強さと規律が滲み出ている。


「……カイさん」


 思わず名前が唇からこぼれた。


 監査官の補佐として王都から派遣され、学園の不正や禁呪の監視を任されている人物。

 平民で友の少ない私に、彼は時々こうして声をかけてくれる。

 厳しい言葉の奥に潜むひそやかな気遣いに、私は幾度となく救われてきた。


「噂を、少し……」

「学園の不思議か。皆は笑い話にしているが──君にとっては違うのだろう」

「……はい」


 短い言葉に、彼はそれ以上踏み込まなかった。ただノートを覗き込み、「頑張っているな」と静かに言ってくれた。

 そのひとことが、不思議と胸に温かく残った。

 (……カイさんの声、落ち着く)

 そう思ってしまった自分に、私はそっと視線を落とす。



 その夜。私は一人で庭へ足を運んだ。

 白椿は確かに月を飲み込んだように白く輝いていた。生徒たちはそれを神秘的な現象だと囁き合うけれど──私には別のものが見える。


 葉脈に走る、薄い虹色の筋。昨夜、強い魔法で触れられた痕跡。

 鉄の匂い。冷たい刃物を舐めたような、錬金術師特有の残り香。

 そして、そのさらに奥に──淡い桜色と蜂蜜の甘い香りが滲んでいた。

 二年前に姿を消した姉、アリアの痕跡。

 私の残滓視だけが、それを見抜ける。


 ……光は花弁ではなく、根元に集まっていた。

 土の下に何かが埋められている。そこから白椿は淡く脈打ち、夜ごと光を吐き出している。

 私は、膝を折って確かめようとした。


「季節外れの白椿。学園の誇りよ。触らないことね、平民さん」


 背後から冷たい声が落ちてきた。

 振り返れば、月光を受けたエリザベト・フォン・アルステッド公爵令嬢が立っていた。

 白金の髪を高く結い、切り込むような蒼の瞳。すらりとした肢体に深い群青のドレス。絵画のように整った姿だが、その視線は氷の刃のように冷たい。


「……触るつもりはありません」

「ならいいわ」


 彼女は薄く笑う。その笑みは花を愛でるものではなく、まるで白椿も、この学園そのものも、己の掌にあると告げる支配者の笑みだった。


「禁域に首を突っ込む愚かさは、いつか命取りになるわ。十三夜には特に」

「十三夜?」


 私が問い返すと、彼女の唇がわずかに笑った。

 ──何かを知っている顔だ。


「忠告よ。あなたがいなくなれば、彼女のことを覚えている者は誰もいなくなる」


 アリアのことだ。間違いない。

 胸がざわめくのを抑えながら、私は彼女を真正面から見返した。


「何か知っているんですか」


 だがエリザベトは答えなかった。最後に私を一瞥し、その瞳に敵意を宿したまま、踵を返して去っていった。

 ──なぜ自分が目の敵にされているのかは分からない。

 けれど、彼女が私を敵と見なしているのは疑いようがなかった。



 翌夜、私は図書館の扉を押し開けた。

 昼のざわめきは消え、灯されたランプの光だけが、棚の間に長い影を伸ばしている。

 学園の不思議のひとつ──「消える本」。

 あるはずの巻が忽然と姿を消し、戻ってきても本文から人名だけが抜け落ちているという。


 私は人目のない時間を選び、学籍簿の棚に手を伸ばした。

 頁をめくり、残滓視を広げる。


 ──見えた。

 淡い影。掻き消された名の痕。

 インクの香りは残っていないのに、名前だけがごっそり抜け落ちている。

 その隙間に、桜色と蜂蜜の甘い匂いが滲んでいた。


 二年前に姿を消した姉、アリア。

 確かにここにいた。そう告げる証拠が、私の目には見えていた。


「……やはり、君も噂を追っていたんだな」


 背後から声がして、私ははっと振り返る。

 そこに立っていたのはカイだった。彼の手には分厚い索引の写し。


「索引を調べていたんだ。番号が飛んでいる。あるはずの巻が最初から無かったみたいに扱われている」


 低く静かな声。

 私は逡巡した。けれど、もう隠してはおけなかった。


「……二年前、姉のアリアがこの学園で消えました。誰も覚えていません。『妄想だ』『作り話だ』って 笑われました。――でも、私は忘れていない。残滓視で、彼女の痕跡を視られるから。……だから、探しているんです」


 声が震れていた。吐き出した瞬間、涙が零れそうになった。

 誰も信じてくれなかった事実を、初めて口にしたから。


 カイはしばらく黙っていた。

 そして、深く息を吐き、低く告げた。


「……俺にも、弟がいた。去年、姿を消した。俺の家族も友人も、誰一人覚えていない。……まるで最初からいなかったみたいに」


 私は目を見開いた。

 彼の声には硬い痛みが滲んでいた。


「数字を追えば分かるんだ。索引に穴がある。名簿に空白がある。……でも誰も気にしない。俺一人だけが記憶を抱えて、傷を負った。だから分かる。君の言葉は妄想なんかじゃない」


 胸の奥で何かが溶けた。

 やっと、信じてくれる人に出会えた。

 孤独ではないのだと、初めて思えた。

 (カイさん……)


「……一緒に探してくれますか」

「もちろんだ。君は“色”で残りを視る。俺は“数字”で不自然さを追う。方法は違っても、目的は同じだろう」


 彼の灰青の瞳は静かに燃えていた。

 私は強く頷いた。


「はい……!」


 こうして私たちは、初めて共闘を決めた。

 アリアと、カイの弟。

 誰も覚えていない存在を取り戻すために。


 奇妙な安堵が胸を満たす。

 数字を追う彼と、色を視る私。違う手段で、同じ穴に辿りついた。

 まるで二本の糸が重なって、ひとつの布を織り始めたように思えた。


 学籍簿の頁に残る淡い痕跡を見つめていると、不意に低い音が静寂を震わせた。


──ゴーン。


 図書館の壁越しに、鐘楼の響きが忍び込んでくる。

 私は思わず顔を上げ、カイと目を合わせた。


 七つ。八つ。九つ。──十、十一、十二。

 ここで終わるはずの鐘が、なおも重く、空気を揺らした。


──ゴーン。


 十三度目の鐘が、図書館の奥を震わせた。

 頁がかすかに揺れ、ランプの炎が細く揺らぐ。

 心臓が跳ねる。

 やはり聞こえた。これまで何度も一人で聞いてきた、誰にも信じてもらえなかった音。

 忘れないで、と告げる姉の呼び声に思えた音。

 けれど今は違う。隣でカイも硬直し、唇を結んでいた。


「……今の、聞こえたな」

「はい。十三回……」


 外の広場には誰もいない。夜の帳に包まれ、学園は眠っている。

 それでも確かに鳴ったのだ。十三の鐘が。


 彼も聞いた。

 私だけじゃない。

 ずっと孤独に抱えてきた恐怖と確信を、今、共有できている。


「やはり……噂は本当だった」


 カイは窓に目を向け、深く息を吐いた。


「この鐘は、何かを知らせている。……次は、鐘楼を確かめるべきだ」


 私は頷いた。

 胸の奥に冷たい恐怖と同時に、熱い確信が芽生えていた。

 ──姉の痕跡へ続く道が、ついに開かれようとしている。

 十三の鐘は、忘れられた者たちを縛る合図。

 そう確信した瞬間、私たちの調査はもう後戻りできないものになっていた。



 図書館を出ると、夜気が肌を撫でた。

 月光に照らされた尖塔が並ぶ中、ひときわ高く鐘楼がそびえている。

 石壁に絡む蔦は風に揺れ、どこかざわめく声のように聞こえた。

 鐘はすでに鳴り止んでいる。それでも、空気には余韻の震えが残っていた。


「……ここで、確かに十三回鳴った」

「鐘が鳴ったはずなのに、誰も気づかない。──やっぱり、普通の音じゃない」


 私は小さく呟き、残滓視を広げる。

 空気に残るのは、深い鉄の色と、溶けた蝋の匂い。

 誰かが古い呪式を組み、鐘の音に封じ込めている。


「……見えるのか」

「はい。鐘の音が人の思念を縛って……下に流しているような……」


 言いながら、自分でもぞっとした。

 塔の足元。石畳の隙間に、淡い光が渦を巻いている。

 それは白椿の根元に見たものと同じ光だった。


「ここから……下に」


 カイも石畳に手を触れ、眉をひそめる。


「確かに、空洞がある。……地下に通じている」


 言葉を交わした瞬間、冷たい風が吹き抜けた。

 鐘楼の影が長く伸び、私たちを飲み込む。


「ここには、まだ何か隠されている」


 私たちは頷き合い、蔦の奥を探った。

 石畳に四角い縁取りが浮かび上がる。普段は土埃に紛れて見えない──けれど残滓視には、淡く脈打つ線として現れていた。


「……扉?」

「やってみよう」


 二人で力を込めると、石畳の一部がぎしりと音を立てて持ち上がった。

 地下へ続く暗い口が開く。冷たい空気が吹き上がり、埃と鉄の匂いが鼻を刺す。


「やっぱり……あったんだ」


 声が震える。

 この先に、姉の痕跡が繋がっている。そう思うと足がすくみそうになった。


「行けるか」

「……はい」


 ランプに火を灯す。小さな炎が壁を揺らし、苔むした石段を浮かび上がらせる。

 足を踏み入れると、冷たい空気が肌を撫でた。


 残滓視を広げる。

 階段の空気そのものに残る、細い光の流れ──思念が束ねられ、鐘の呪式に縛られて、下へと滑り落ちた痕だ。


 胸が締めつけられる。

 灯火の下で、私は拳を強く握りしめた。もう引き返せない。


「大丈夫だ。……一人じゃない」


 カイが小さく囁く。

 その言葉に、私はほんの少し息をついた。

 (隣にいてくれる)

 ランプの炎が揺れ、暗い階段をゆっくりと降りていく。



 石段を降りきった先に、広大な地下空間が広がっていた。

 湿った石壁には古い呪式の文様が走り、青白い光が脈を打っている。

 その中心に、巨大な車が据えられていた。


 鉄と石で組まれた車輪。

 人の背丈を越える歯車が何重にも噛み合い、鈍い律動で回転を刻んでいる。

 軋む音が空気を震わせ、振動が足元から伝わってくる。


 私は残滓視を広げた。

 光が奔り、色があふれる。


 ──新しい痕跡。

 銀色の残光。冷たい鉄の匂い。

 誰かが、ここで装置を動かした。


 ──さらに深い層。

 淡い桜色と蜂蜜の香りが、鉄の匂いの奥に沈んでいた。

 二年前のもの。アリアの痕跡。

 ここで彼女は……消えた。


 喉が詰まる。言葉にしようとしても声が出ない。

 車の下部には、数十本の瓶が並んでいた。

 瓶の中では光が渦を巻き、やがて泥のように沈んでいく。

 笑い声。涙。夢。名前。

 生徒たちの思念がすり潰され、濁った沈殿物として瓶に溜まっていく。


「……だから、皆、忘れてしまうんだ」

「記憶ごと、存在ごと……ここで削り取られている」


 私は瓶のひとつに触れた。

 硝子の冷たさの向こうで、光と影がかすかに揺れている。

 

 車輪の脇に目を凝らすと、金属の枠に五枚の銀色の板がはめ込まれていた。

 それぞれ手のひらほどの大きさで、車輪の外周に均等に配置されている。

 薄く、冷たい光を放つ札からは、淡い光の糸が絶え間なく溢れ出し、瓶へ──そして車全体へと吸い込まれていた。


「これ……白椿の根元で見た痕跡と同じです」


 私は札に指を触れながら声を震わせた。


「夜ごと椿が光を吐き出していたのは、偶然じゃなかった。あの光は生徒たちの思念で……ここに吸い上げられていたんです」


 札の表面を流れる虹色の筋が淡く明滅し、光の糸が中央へと繋がっている。

 笑い声も、涙も、夢も──そのきらめきが砕かれて札に刻まれ、さらに車に組み込まれていくのが、残滓視にははっきり見えた。


「つまり……」


 カイが低く言葉を継ぐ。


「白椿の光が集めた思念を、この札が受け止める。そして札をはめ込むことで、車が力を得て回り続ける……」


 彼の声音は硬く、そして怒りを押し殺していた。


「……生徒たちの心そのものを、燃料にしているんだ」


 その瞬間、奥の闇から拍手が響いた。


「──正解だ」


 灯火の輪に浮かび上がったのは、長衣に身を包んだ学長。

 その傍らには、学長の息子。まだ若いが、目には冷たい光を宿している。

 そして、優雅なドレスの裾を揺らして現れたエリザベト。長い金糸の髪は夜の灯に淡く揺れた。


「札に思念が溜まれば、鐘は十三回鳴って告げる。それをここに差し込めば、“祈りの器”は動き出す」


「よく辿り着いたわね。平民の娘にしては上出来だわ」


 唇には笑みが浮かんでいたが、それは優美さよりも冷笑に近い。蒼の瞳には影が差し、光を映しながらもどこか遠い冷たさを帯びていた。

 その眼差しは、まるで舞台の上から観客を見下ろす役者のよう。

 ──彼女にとって、私たちは盤上の駒にすぎないのだと、その視線が雄弁に告げていた。


 背筋に冷たいものが走る。

 真実に手をかけた瞬間、私たちは狩られる側に回ったのだ。


「……やはり、何かを知っていたんですね」


 学長が一歩前に出る。長い外套が床を擦り、冷たい声が地下に響いた。


「禁域に足を踏み入れるとは。──愚かだな」


 その隣で息子が鼻で笑う。


「父上、処分は簡単ですよ。札に吸わせればいい。そうすれば、誰も彼女たちを覚えていなくなる」


 胸が凍りつく。アリアと同じ。カイの弟と同じ。


「……こんなことをして、何になるんですか」


 学園長は一歩前に出て、長衣の裾を翻した。


「均すのだ」


 彼は大袈裟に両手を広げ、陶酔したような声で続けた。


「人の心は棘だらけだ。怒り、悲しみ、嫉妬……それらを少しずつ削り取り、この車で沈殿させる。棘を抜かれた者は争わず、王や師の言葉に逆らわなくなる。痛みに囚われず、恨みに駆られず、ただ平穏に日々を送るのだ」


 広げた掌を天へ向け、彼はまるで神官のように言葉を放った。


「過去、疫病や飢饉がこの国を襲ったときも、この車の“祈り”が秩序を繋ぎ止めた。女神は痛みを均した民を愛し、災厄を退ける。だから学園も王国も、滑らかに回り続けるのだ」


私は拳を握りしめ、声を張った。


「──それは犠牲の上に立つ、偽りの秩序です!痛みこそが人を人たらしめるもの。苦しんだからこそ優しくなれる。悲しみを抱くからこそ、同じ悲しみに手を差し伸べられる。怒りや悔しさがあるからこそ、不正を許さぬ力に変わるんです。それを削ってしまったら……残るのは従順な影ばかり。祈りでも秩序でもない。ただの“空っぽ”です!」


「ふざけるな」


 カイの声は低く唸った。


「削られているのは人の思いそのものだ。……弟を消したのは、お前たちか」


「覚えていたのか。珍しいこともある」


 学長の息子が薄く笑う。

 その横でエリザベトが肩をすくめ、蒼い瞳を細めた。


「感情に振り回されるなんて野蛮ね。でも、それもすぐに消えるわ。鐘が鳴れば、あなたも皆と同じように忘れる」


「忘れない!」


 私は叫んだ。


「アリアのことも、カイさんの弟のことも。私は残滓視で視える。たとえ世界中が忘れても、私は……忘れない!」


 空気が揺らぐ。学園長の眉がひそめられる。


「ならば──その目を潰すしかないな」


 学園長の声は冷たく響き、銀札が脈打った。

 車輪の軋みが増し、瓶の中で光が不穏に泡立つ。


 私は必死に札へと目を凝らした。

 ──見えた。

 一枚の札には、表とは逆に置かれた跡が残っている。

 虹色の筋が反対向きに走り、まるで光が逆流するようににじんでいた。


(逆さにすれば……流れが止まる?)


 喉が乾く。だが確信はあった。


「……カイさん。これ、逆さに置けば──」


 囁いた瞬間、学園長が吠えた。


「触るな!」


 黒い呪符が宙に散り、鋭い光が矢のように迫る。


「ユノ!」


 カイの腕が伸び、轟音。

 彼が放った衝撃波が光の矢を粉砕し、石床に亀裂が走った。

 舞い上がる粉塵の向こうで、学長の息子が呻く。


「監査官の補佐……化け物め……」


 カイは私を背に庇い、氷のような瞳で前を射抜いた。


「そう簡単には触らせないわ」


 エリザベトが扇を翻す。刃のような光が空気を裂き、カイの力と正面からぶつかった。

 爆ぜる衝撃。石壁が震え、瓶の液体が激しく揺れる。


「あなた、ただの見物人だと思っていた? いいえ──私は盤上で勝つためなら刃も振るうの」


 彼女は冷ややかに笑い、私を見据えた。


「札に触れたら叩き潰す。それでも触る?」


 心臓が跳ねる。恐怖に足がすくみそうになる。

 けれど──アリアの痕跡が札に眠っているのを、私は確かに視た。


「……触ります。絶対に」


 震える声で言うと、カイが横目で私を見て、わずかに口元を緩めた。


「なら、俺が道を作る」


 再び力と力が激突し、地下が揺れる。

 その隙を突き、私は札へと駆け寄った。


 一枚目を逆さに収める。轟音。

 歯車がきしみ、瓶の底の泥が泡立ち始めた。


 二枚目。

 三枚目。

 四枚目。

 札を逆さに置くたび、車の軋みは大きくなり、光が逆巻き、地下全体が震える。


「やめろ! 均衡が崩れる!」


 学園長の怒声が響く。

 鎖に絡め取られたように震える銀札は、私の指先を拒むように冷たく重い。

 けれど、それでも──私は手を止めなかった。


 そして──五枚目。


 札を逆さにした瞬間、巨大な車が悲鳴を上げ、逆回転を始めた。

 瓶の液体が一斉に沸き立ち、溢れる光が天井へと昇る。

 眩さに目を細めた瞬間、光は形を帯び、残像となって浮かび上がった。


 少女の笑顔。少年の泣き顔。

 数年前から忽然と消えた生徒たち。


 そして──淡い桜色の髪を揺らすひとりの少女。


「アリア……!」


 声はない。

 けれど、その瞳は確かに私を見た。

 涙で視界が揺れる。伸ばした手は空を掴むだけ。


 横でカイが息を呑んだ。


「……リオ……」


 掠れた呼び声。

 彼の弟の残像もまた、微かに笑い、やがて光の粒となって闇に溶けていった。


 やがて光はすべて消え、地下は再び沈黙に沈んだ。

 逆流する機構は悲鳴を上げ、最後にがくりと停止する。

 軋む音も、瓶の揺らめきも止まり──残ったのは、冷たい闇と私たちの息だけ。


「愚か者どもが……!」


 学園長の怒声が石壁に反響した。

 白髪を振り乱し、目を血走らせながら彼は車を指差す。


「この器を止めるなど……自ら災厄を呼び込む行為だ!」


 その叫びは怒りよりも恐怖に近かった。

 彼自身、この装置にすがらねば国を保てないことを知っているのだ。


 重苦しい沈黙を裂いたのは、別の声だった。


「──いいえ」


 扇を閉じる音が乾いた余韻を残す。

 エリザベトが一歩前へ進み出た。

 蒼い瞳が夜の底のように冷たく光る。


「均すことで災厄を退けるのは確かに事実。でも、それだけじゃない。私は知っているの。この先に、もっと大きな破滅が待っていることを」


 彼女の言葉に、背筋が粟立つ。


「……どういうことですか」


 私の声はかすれていた。


 エリザベトは静かに視線を落とした。


「疫病、飢饉、反乱……過去に繰り返された災厄は、序章にすぎない。もっと苛烈で、誰も逃れられない滅びが来る。──前の世界で、私はそれをすべて見た」


 低い声が石壁に響いた。

 エリザベトの蒼い瞳は、夜の底よりも冷たく澄んでいる。


 私は息を呑んだ。

 ……前の世界?

 意味は分からない。ただ、彼女が私たちとは違う場所から未来を見通しているのだと直感した。


 彼女の声音は冷徹で、それでいて澄み切っていた。

 学園長の陶酔した狂気とは違う。

 未来を見た者の、絶望を押し殺した声だった。


「だから私は盤をひっくり返した。些末な犠牲を差し出してでも、この器を動かし続ける。それが唯一、国を救う道だと信じていたの」


 冷徹な響き。

 けれど、その奥底に微かな諦めの色が滲んでいた。


「──些末な犠牲、ですって?」


 思わず声が震えた。胸の奥で何かが爆ぜる。

 アリアの笑顔が、カイさんの弟の姿が脳裏に浮かぶ。


「その“些末”の中に、私の姉がいた! カイさんの弟がいた!あなたにとっては駒の一つでも、私たちにとってはかけがえのない命なんです!」


 言葉が刃のように迸り、空気を切り裂く。

 エリザベトの蒼い瞳が一瞬だけ揺れた。だがすぐに冷たい光を取り戻す。


「……国のためよ。たとえ憎まれようと」


「そんな理屈、認めません!」


 私の叫びが地下に響いた瞬間、横でカイさんの気配が変わった。

 普段は冷静で、どんな時も一歩引いた目をしていた彼が──今は違う。


「俺の弟を“些末”だと……?」


 低く絞り出す声。

 その瞳には、燃え盛る烈火のような怒りが宿っていた。


「リオの笑顔も、声も……全部この器に奪われて、“国のため”だと?ふざけるなああああッ!」


 轟音。

 カイさんの両手から奔った鎖のような呪式が、瞬く間に学園長とその息子を縛り上げた。

 鉄の幻影が実体を持ったように軋み、二人の身体を床に叩きつける。


「ぐっ……があッ!」

「な、何を──!」


 学園長の息子が必死に呪符を繰ろうとするが、鎖がその腕をねじ伏せ、声ごと封じ込める。

 呻きと恐怖の声だけが地下に響いた。


 私は息を呑む。

 それは監査官補佐としての冷静な彼ではなかった。

 ただ、一人の兄として、奪われた弟のために怒りを燃やす姿だった。


「削られているのは人の思いそのものだ。……その罪を、俺は絶対に忘れない!」


 カイさんの怒声が、石壁を震わせた。


 その中で、エリザベトだけは一歩も退かずに立っていた。

 冷ややかな蒼い瞳に、怒りでも恐怖でもなく、凍りついたような覚悟を宿して。


「……分かったわ」


 彼女は低く呟き、扇を閉じた。


「この国はもう終わり。ならば、私がこの器の存在を公にする」


 エリザベトの声は低く、しかし震えてはいなかった。

 学園長とその息子が鎖に押さえつけられ呻く中、彼女は一歩、静かに前へ出る。

 白い扇を閉じる仕草は優雅で、けれどその姿は剣を抜いた騎士にも似ていた。


「……何を言っている……!」


 学園長が必死に声を張り上げる。


「お前まで裏切る気か!この器がなければ王国は──」


「黙りなさい」


 冷たく遮る声。

 その響きに、私は思わず息を呑んだ。

 先ほどまで盤上の支配者のように振る舞っていた彼女ではない。

 もっと深く──何かを背負う者の声音だった。


「私は知っている。過去の疫病も、飢饉も、反乱も──この器の“祈り”で秩序は繋ぎ止められた。でも、それはもう限界。均された民は従順で、痛みを忘れ、怒りを失った。だというのに災厄は繰り返し訪れ、さらに大きくなっていく。……この先も同じこと。均すだけでは、国は救えない」


 彼女の蒼い瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。


「あなたが証人になりなさい、ユノ。残滓視で視た痕跡を、この国の誰よりも鮮やかに語れるのは、あなたしかいない。私は……あなたを止める役を演じてきた。でも、もうそれも終わり」


 彼女の蒼い瞳は揺らいでいなかった。

 その言葉に胸の奥がざわつき、私は思わず問いを漏らした。


「……どうして、私を?」


 エリザベトは一瞬だけ目を伏せ、扇を握る手に力をこめた。


「あなたは残滓視で痕跡を視る。──消えた者の証を拾い上げられる。それは器の均衡にとって最も危ういものだった。だから、入学当初からあなたを目の敵にしてきたのよ」


 彼女の声は冷ややかで、けれど蔑みではなかった。

 ただ“役目”を告げる響きだった。


「身分がどうとか、平民だからとか、そんなことは関係ない。──真実を暴きかねない“証人”だったから、私はあなたを敵として扱った」


 エリザベトの言葉が地下に落ちた。

 静かな響きなのに、刃のように鋭く、私の胸を裂いた。


 私を敵視してきたのは、ただ憎まれていたからじゃない。

 姉を、消えた人たちを──忘れさせられた事実を見抜ける私が、彼女たちの均衡を壊す存在だったから。


 その理由を知ったとき、理解と同時に怒りがこみ上げた。

 ずっと浴びてきた冷たい視線も、嘲りの言葉も、すべてが「役割」だったなんて。


 ──でも。

 だからといって、許せるはずがない。


「……役を演じていたから、敵に回った? そんなの、理由になりません」


 拳を握りしめ、声を張った。


「どんな大義を掲げても、犠牲にされる人は消えてしまう。私の姉も、カイさんの弟も……!あなたが敵でいた理由を知っても、私は納得しない。許さない」


 胸の奥が焼けるように熱い。

 言葉を吐き出しても、失われた人たちは戻らない。

 それでも、私だけは目を逸らさない。


 エリザベトは静かに私を見つめていた。

 やがて扇を伏せ、吐息とともに小さく笑った。


「……そう。あなたがそう言うなら、もういいわ」


 蒼い瞳にかすかな翳りが宿る。


「私はずっと“敵の役”を演じてきた。けれど、それもここで終わり」


 その声には、冷たさと同時に、奇妙な諦念が滲んでいた。


「学園長も、その息子も──私が告発する。この器が祈りの名の下に何をしてきたか、すべて公にする」


 エリザベトの言葉に、空気がわずかに震えた。

 敵として対峙してきた彼女が、自ら「証人」の側に回ると告げたのだ。


 私は息を呑む。

 その蒼い瞳にまだ冷酷さはあった。けれど今は、確かに私と同じ場所を見ていた。

 エリザベトの宣言は、学園長の怒声をかき消すように、地下に響き渡った。


「私は転生者。終わりを知る者。だから、最後くらいは正しく裁いてみせる」



 ──翌朝。


 王立学園は、かつてない混乱に包まれていた。

 鐘楼の地下から見つかった巨大な器。

 銀の札。瓶に沈んだ光の沈殿物。

 それらはすべて監査官の手で地上に引き上げられ、講堂に並べられていた。


 学生たちはざわめきながら見守る。

 教師たちでさえ顔色を変え、何が真実なのか測りかねていた。


 机に並ぶ札が淡く光を放つたび、息を呑む声があがった。

 失われていた記憶が戻り、講堂は嗚咽に包まれていく。


「……あの子……私の友達だ……!」

「兄が……兄がいたのよ……ずっと忘れていたなんて……」


 涙に崩れる生徒、教師。

 その波に混じって、アリアの名もまた思い出されていく。


「確かに……アリアはここにいた」

「優しい子だった……忘れるはずがないのに……」


 胸が締めつけられる。

 私は震える息を吐き、講堂の光景を見つめ続けた。

 ──もう、私だけの記憶じゃない。


 やがて壇上に引き出されたのは、学園長とその息子だった。

 二人は鎖に繋がれ、憔悴した顔で立たされている。


「これは陰謀だ! 監査官に仕組まれた罠だ!」


 学園長は叫ぶが、その声には力がなかった。

 机に並ぶ札と瓶が、すべてを語っていたからだ。


「この器がどれほどの役割を果たしてきたか……お前たちに分かるものか!」


 だが、誰も彼を擁護しなかった。


 私は一歩前に出た。

 鼓動は速い。けれど、口を閉ざすことはできなかった。


「……私は証人です」


 震える声で、それでもはっきりと告げた。

 胸の奥に宿る熱が、言葉となって溢れ出す。


「二年前に消えた姉──アリア・アステールの痕跡を視ました。残滓視の魔法で、彼女が確かにここに存在した証を。そして、この器で奪われた記憶が札に宿っていたことも──私の目で視たのです」


 講堂の視線が一斉に私へ注がれる。

 ざわめきが広がり、誰かが涙を堪えるように唇を押さえた。


 けれど背中には、確かな気配があった。


「……俺も証人だ」


 カイが低く告げる。

 灰青の瞳は澄み切り、声には揺るぎがなかった。


「俺は弟を失った。名前も姿も、すべて人々の記憶から消されていた。だが昨日、残像を視た。──確かに、この器に奪われていたんだ」


 彼の声は冷静でありながら、鋼のような強さを帯びていた。

 その一言が、誰よりも雄弁に真実を証明していた。


 私と彼、二人の証言が講堂に響き渡る。

 それ以上の言葉は不要だった。

 事実は、すでに人々の胸に戻っているのだから。


 ──静まり返った空気の中、別の足音が響いた。

 壇上へ進み出たのは、エリザベト・フォン・アルステッド公爵令嬢。


 完璧な姿勢で立ち、蒼い瞳をまっすぐ前に向ける。

 その声は澄み、よく響いた。


「この国の秩序は、犠牲によって保たれてきました」


 ざわめきが走る。

 エリザベトは続けた。


「祈りの器は確かに役割を果たしたでしょう。ですが──もう限界です。私は王家の命に従い、この器の運用に加わってきました。疫病も、飢饉も、反乱も……そしてこれから来る災厄も。だから、この器が動かされ続けるのを黙って許し、時に支えた。些末と思われた犠牲と引き換えに。けれど──昨日、私はそれを否定されました」


 視線が、ほんの一瞬だけ私に向けられる。

 その唇に浮かんだ微笑みは、敗北ではなく、自らを罰するような色を帯びていた。


「これは私の告発です。祈りの器は人の痛みを削り、民を空っぽに変えました。未来を知る者として言います──これ以上、この犠牲を続けるべきではないと」


 講堂は静まり返った。

 誰もがその言葉に圧され、声を失っていた。


 やがて監査官が告げる。


「学園長とその息子は職を解かれ、王都にて裁かれる。そして──エリザベト・フォン・アルステッド公爵令嬢。あなたもまた、器の運用に関わった責任を問われる。爵位は剥奪。学園から追放の上、同じく王都へ送致される」


 空気がざわめいた。

 公爵令嬢に対する処分は異例だった。

 だが王家が背後にいる以上、誰かが「贄」とならねばならなかった。


 それでもエリザベトは、わずかに頭を垂れて受け入れた。

 蒼い瞳に浮かんだ影は、彼女自身が科す罰よりも深かった。


 ──事件は終わった。


 けれど胸の奥に残る痛みと空白は、容易に消えるものではない。

 アリアは戻らなかった。

 それでも私は、彼女が存在した証を、この目で確かに視た。


 それだけが、歩み出すための支えだった。



 午後。学園の裏庭に、一本だけ残された白椿が静かに立っていた。

 夜にはもう光らない。蜂蜜の匂いもない。

 ただの花として、風に揺れている。


 私はその前に立ち尽くした。

 指先に、まだ銀札の冷たさが残っている気がした。


 そのとき、背後から軽い足音が近づいてきた。

 振り返ると、エリザベトがそこにいた。


 処分を言い渡されたばかりだというのに、講堂を抜け出してきてしまったのだろう。

 完璧な姿勢は変わらないのに、蒼い瞳には影が差していた。


 彼女の後ろには、無表情の管理官が控えていた。

 その存在が、この場がただの気まぐれではないことを示している。


「……王の姪だから、ちょっと気を利かせてもらったのよ」


 エリザベトは肩をすくめ、唇にかすかな笑みを浮かべた。

 けれどその笑みは、誇り高い仮面の奥でひどく脆く揺れていた。


「……あなたは勝ったわね」


 彼女の声は低く、どこか遠くを見ているようだった。


「勝ち負けじゃありません」


 私は小さく首を振った。


「私はただ、忘れられた人たちを取り戻したくて。姉を、そして……」


「いいえ」


 エリザベトはかすかに笑った。

 その笑みは美しく整っているのに、どこか痛みを孕んでいた。


「私には盤上の勝敗にしか見えないの。前の世界で負け続けた私が、ここでやっと勝てると思った。けれどあなたが盤をひっくり返した」


 胸が痛んだ。

 彼女はずっと、勝負の盤を見ていたのだ。私が姉の痕跡を求めるよりもずっと長く、冷たい未来と向き合って。


「盤をひっくり返したのは……あなたもです」


 その言葉に、エリザベトは短く息を吐き、微笑んだ。


「面白いわね。物語は思い通りにならない」


 彼女は椿の枝にそっと触れ、指先で葉の縁をなぞった。

 そこにかつて宿っていた光はもうない。けれど、彼女はまだその幻を見ているようだった。


「私は王家の命に従い、器の運用を支えてきた。その罪を受けて、もう表舞台には立てない。けれど……あなたはまだ進めるわ。痛みを覚えても歩ける人だから」


 彼女の言葉は淡々としていたが、深い諦念がにじんでいた。


「王都にはまだ火種が残っている。あなたはそれを“覚えるべき痛み”と呼ぶでしょう。私は“均すべき負荷”と呼んできた。でも──もう私には手を伸ばす権利がない」


「……」


 胸が締めつけられる。

 それは敗北の言葉ではなく、罪を引き受けた者の静かな覚悟だった。


「だからこそ、あなたが必要なの。私が去ったあと、この国を見つめる証人は、あなたでなければならない」


 エリザベトは白椿の枝先に指先をかすかに触れ、そして踵を返し、背を向けた。

 歩みは迷いなく、けれどその肩はほんのわずかに震えているように見えた。


「──それから」


 去り際、振り向かずに言葉を投げた。


「彼に告白したら?」


「……え?」


「監査官補佐の彼。目で追っているの、丸わかりよ」


 淡く笑みを浮かべる。


「私は盤しか見ない女だけど……恋は別腹なの。失敗した世界で一度も貰えなかった祝福くらい、誰かに分けたいと思うときがあるの」


 その言葉を残して、彼女は庭を去っていった。

 背筋を伸ばし、威厳を崩さずに。

 すぐ背後には監視役の管理官が付き従い、二人の姿は白椿の影に溶けていく。


 多くの罪なき生徒たちを消し去った彼女への怒りは、まだ胸の奥にくすぶっていた。

 とても許すことはできない。

 けれど、悪役令嬢として物語のために悪を演じ続けたのだろう。

 その重さを抱えたまま、背筋を伸ばして歩く彼女の姿は揺るがない。

 そして同時に──それはきっと、私を次の場所へ押し出す役でもある。


 私は白椿の前に立ち尽くし、ひとつ息を吐いた。

 アリアは戻らなかった。声も、手も、何ひとつ。

 けれど──確かにここで彼女を見た。その痕跡を、この目で。


「……ユノ」


 背後から呼ばれて振り向く。

 夕暮れの影の中に、カイさんが立っていた。

 書類を抱えた肩には疲労の影が差しているのに、姿勢は崩れていない。

 そして、その灰青の瞳は静かに、まっすぐ私を見ていた。


 ──目が、好きだ。

 そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。

 息が少し浅くなり、視線を逸らしたくなる。

 けれど逸らせない。吸い込まれるように、彼を見つめてしまう。


「学園はまだ騒がしい。証言の整理もある。……君も大変だったろう」


 低い声が心に落ちる。

 慰めでも同情でもなく、ただ私の重さを一緒に背負うような響きだった。


「いえ。……私だけじゃありません」


 自分の声が少し震えていた。


「カイさんも、弟さんを……」


 彼の瞳がわずかに揺れ、深く頷く。


「そうだな。……でも、忘れない」


 その言葉に胸が締めつけられる。

 私も同じ気持ちだから。


「私もです。アリアを……忘れません」


 ふっと、彼の表情が和らいだ。

 笑顔と呼ぶには淡く、けれど確かに心に染みる温かさ。

 その笑みに、私の胸は不意に高鳴った。


 鐘楼の影はもうなく、夕暮れの鐘は十二で止まった。

 十三の鐘は、もう聞こえない。

 静けさの中で、私は胸に手を当て、彼の名を呼んでいた。


「……カイさん」


 それ以上は言葉にならなかった。

 けれど、彼はそれで十分だと言うように、ただ静かに頷いた。

 その頷きが、どんな告白の言葉よりも確かに心を揺らす。


 掌に残る残滓視の色が、淡くにじんだ気がした。

 青。深い湖の底のような色。

 その中に、白椿の花びらがひとつ落ちていく。


 私は小さく息を吐き、ほんの少し笑った。

 これからも痛みは消えないだろう。

 けれど、私は止まったわけじゃない。

 姉の痕跡を抱きしめて、これからを歩いていく。

 痛みを知るからこそ、誰かの痛みに手を伸ばせるように。


 そして──その隣に、彼がいてくれたら、そう思った。

 ──もう、ひとりで歩くことはない。そう信じてみたくなった。

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