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序 : 辿る夢路

「……師匠、師匠!」

 夢の中の自分に、目の前にある文机ふづくえの前に座る小柄な男がしきりに呼び掛けてくる。机の上には歌集かしゅうが置かれているので、自分は今この小柄な男に和歌を教えているらしい。

 小柄な男が“師匠”と呼ぶから相手は子どもか若者を連想するかも知れない。しかし、相手は自分より三歳下の、まごうことなき中年である。顔はしわまみれ、頭頂部の髪はやや薄く、肌はけて褐色に染まっている。寧ろ、最近になって見た目が年相応に追いついたくらいで、若い頃は老けて見られていた。まぁ、外見の特徴から“サル”と呼ばれる事の方が圧倒的に多かったが。

 羽柴“筑前守”秀吉。それが彼の名である。

「ささ、師匠! 儂にもっと歌の奥深さを教えて下され! 公卿くぎょうになるからには公家共と渡り合う為にも教養が必要ですからな!」

 前のめりになって教えを乞う秀吉。“公卿”と呼ばれるようになるのは従三位じゅさんみ以上の者、その話し振りから推察するに天正てんしょう十二年〈西暦一五八四年、以下西暦省略〉の秋頃か。

 秀吉は天文てんぶん(“てんもん”とも)六年〈一五三七年〉生まれだから四十八歳、自分は天文三年〈一五三四年〉生まれで五十一歳。もう随分と前になるな、と独りつ。

「ははーっ、この歌にはそういう解釈があるのですな! 勉強になります!!」

 教授すると秀吉は感嘆の声を上げたり大きく頷いたりして反応を必ず返してくれる。それがまた教える側にとって嬉しく、教え甲斐を高めてくれる。

 水併み百姓の家に生まれた秀吉は、当然ながら教養を身につけていない。成人し武家仕えを始めてから学び始めたが、秀吉は乾いた砂に水が浸透するように知識を吸収していく。意欲も旺盛おうせいで無知を恥じることなく、分からなければてらいなく素直に聞く、それが織田家の家臣から天下人になっても変わらなかった。

 自分の目から見て、秀吉は独創的な発想を持っているように思う。既存の枠組みとか定石じょうせきとらわれず、自らの感性のおもむくままに創造する。この舞台の二年後、天正十四年〈一五八六年〉一月に御所でお披露目された組み立て式の茶室などは秀吉の代表例で、壁や天井・柱・障子しょうじを全て金箔張りにし畳を猩猩緋じょうじょうひにした“黄金の茶室”は皆の度肝どぎもを抜いたものだ。“侘び寂び”茶の湯の大家たいかである千利休せんのりきゅうは自らの目指すべき形と対極にある黄金の茶室を悪趣味と眉をひそめる傍ら、秀吉にしか思いつかない発想を高く評価したとされる。

 歌についても、んだ句はキラリと個性のきらめきを感じさせる事がある。書も勢いがあって、人を惹き付ける味がある。はっきり言えば、多少(かじ)った者なんかより遥かに良い。

 仕える主から“師匠”と呼ばれるのはまだ違和感があるけれど、一方でもっと教えてあげたい衝動を掻き立ててくれる。……不思議な御仁ごじんだとつくづく思う。

「……上様、そろそろ刻限にございます」

 襖の外から声が掛かる。天下人の秀吉は多忙の身、政に外交に朝廷対策にとやらなければならない事は山積している。

「おぉ、もうそんな時間か。楽しい時はあっという間に過ぎるから困ったわい」

 名残惜しそうに秀吉は不満をこぼす。その仕草一つも教える側には冥利みょうりに尽きる。

 スッと立ち上がった秀吉は襖の前で一旦止まると、振り返り「師匠」と呼ぶ。

「また、歌の楽しさや奥行きを儂に教えて下され。約束しましたぞ」

 そう言い、ニカッと笑う秀吉。その屈託のない笑顔は、まるで太陽みたいだった――。


「……殿、大殿」

 また、自分を呼ぶ声がする。夢からめ、現実に引き戻される。

「明けまして、おめでとうございます」

 小姓から新年の挨拶をされ、今日が元日だったと思い出す。

 太閤殿下が夢に出てくるとは、幸先が良いのか悪いのか。色々と迷うところだ。

「大殿? 何か、良い夢を見られましたか?」

 恐る恐るといった感じで小姓が訊ねてきた。どうやら他人の目から見ても自分の寝顔は楽しそうに映っていたみたいだ。

「……まぁ、な」

 肯定しながら、布団より出る。確かに、良い想い出ではある。しかしながら、他人に話したくなかった。独り占めは夢を見た者の特権なのだから。せめて、思い通りにならない現実よりも楽しい思いをさせてほしい。そういう心境だった。

 慶長けいちょう四年〈一五九九年〉元旦。長岡幽斎(ゆうさい)の一日は望外な形で幕をけた――。




ただ歌詠みと侮るなかれ】




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