変わりゆく世界に一人
(はあ……)
芽緒は腰を下ろして深く息を吐いた。
十五年以上生きてきて初めて入った男性用トイレ。けしてキレイとは言えないその個室の中、蓋を閉めた便座の上で、自分でも驚くくらい芽緒は落ち着いていた。
(――なんか加池くんみを感じる)
芽緒はトイレに加池明狼のニオイを感じていた。
(こんな所なのに、加池くんの隣にいるみたい――加池くんの隣にいたことなんてないけど)
芽緒は心の中で自嘲しながら考える。
あの日、あの時、芽緒が見た加池明狼は、間違いなく加池明狼で、その目的こそわからないが、ここに何らかの意味や価値や必要があったのだろうと確信した。
それは、芽緒が自らの恋心に自覚したあと。
三階にある美術室で、一人居残り課題を仕上げていた芽緒は、向かいの校舎の廊下に、加池明狼の姿を見た気がした。
恋する相手だというのに、それが加池明狼であるかどうか自信が持てなかったのは、そこが校内僻地の生徒が足を運ぶことの少ない場所であったことと、酷く存在がおぼろげだったからだ。
そこに確かにいるはずなのに、気を緩めたら見失ってしまいそうな加池明狼と思しき人物は、そんな校内僻地の男性用トイレに入っていった。
(トイレに行く姿を見られたくないのかな?)
小学生じゃあるまいし、と思いながらも、加池明狼はそういう人物なのかもしれないと、新たな一面を見た気がして、芽緒の心ははしゃいでいるようだった。
芽緒は課題に集中できないまま、ちらちらと向こう側を見る。しかし、結局その日加池明狼を見ることはなかった。
芽緒が見てないタイミングで出てきていたのかもしれないし、そもそもが見間違いだったのかもしれない。しかし、もしもトイレから出られないような状況に陥っていたとしたら、そう思ってしまい課題に手が付かなくなった芽緒は、そこで切り上げることにした。
もちろん直接帰るのではなく、加池明狼が居たと思われる男性用トイレの前に足を運ぶ。さすがに中に入ることは憚られ、外から様子を伺うだけだったが、どうやら人が居るような気配は感じられなかった。
人の気配は感じられなかったが、そこに加池明狼の持つ独特な雰囲気のような――オーラのような不思議なナニカを芽緒は感じていた。
(加池くんのことが気になりすぎてそう思えてるだけかな?)
そんなことを考える芽緒の脳裏に、この場所のこと、この日のことが深く刻み付けられたのだった。
――つまるところ、芽緒はこの日の記憶だけを頼りに、この三階の外れにある、男性用トイレに閉じこもることにしたのだった。
道中は思いの外あっさりとしたものだった。
芽緒からすると、何故かそこまでモンスターの姿がなく、最短ルートでたどり着くことができた。
――芽緒は知る由もないが、そこまでに居たゴブリンは加池明狼が倒し、ゴブリンを倒せる者が存在するということを隠すため、倒したゴブリンの姿を見えないように魔法で処理していた。
そして、隠れるために選んだこの場所は、加池明狼が【転移】の為に自宅と魔力によるパスを結んだ場所であり、それが結果的に結界のような効果をもたらした。ダンジョンに取り込まれながらも、セーフルームのような役割を果たしていたのだ――
セーフルームとなっていた男性用トイレの個室の中――もちろん芽緒はそんなことは知らないが――どこかからか聞こえてきた、悲鳴のような叫び声に芽緒はビクッと体を震わせる。
おそらく、芽緒と同じようにどこかに逃げ隠れた誰かが、モンスターに見つかったか、隠れていることに耐えきれず、脱出を試みて失敗したのだろう。
ここへたどり着いた時とは打って変わり、いつモンスターが襲いかかってくるかわからない不安や恐怖が芽緒を襲う。
芽緒は縮こまりながら、共に逃げてきたカバンの中に手を入れる。
中には、ペットボトルのお茶や飴が入っており、これで当座はしのげそうだと思いながら、芽緒はスマホを取り出す。
普通に考えればあの教室から抜け出す時、一刻を争うような状況であり、カバンなど持ち出す暇はないのだが、こうやって立てこもることになると、持ってきて正解だったなと、自分の判断を褒めながらスマホを操作する。
予想通り電波の類は届いていないようで、通話もネットも使えないことを確認すると、芽緒はスマホに保存されている一つの画像を選ぶ。
それは芽緒がスマホのカメラで収めた、校庭に咲いた花の写真だった。
芽緒は、その画像で収めたかった花ではなく、後ろに写り込んだ人物を拡大する。
そこにたまたま写り込んだ加池明狼。それを発見した時の芽緒の喜び様は、小躍りするほどだった。
そんな、けして鮮明とは言えない写りの加池明狼を見て、芽緒は恐怖心や不安を抑えつけるのだった。
24時間以上が経過した。
ここに潜んでしばらくは、時折悲鳴や叫び声が聞こえてくることがあったが、それももう半日以上聞こえてこなくなっており、この校舎の中にいる人間は、もはや自分一人だろうと芽緒は絶望を深める。
そして、何故かモンスターに襲われることなく隠れ続けられていたこの場所にも、徐々に変化が起きていた。
芽緒の言葉を借りるならば、この場所に強く感じられた「加池くんみ」が薄まってきているのだ。
セーフルームに仕立て上げていた、加池明狼の魔力が、ダンジョンの魔素に侵食されつつあり、芽緒にはそんなことを理解することはできないはずだが、自身に「死」がにじり寄ってきていると、本能が警鐘を鳴らしていた。
(加池くんは今何してるんだろ――)
そんな中で芽緒の脳裏に浮かぶのは、愛しい加池明狼の姿だった。
加池明狼のおかげで、芽緒はここまでかろうじて精神を保ってこれていたが、それも限界が近付いてきていた。
――怖い 怖い 怖い
視界には 未来も 光も 見えない
死にたくない 生きたい
映えない 冴えない私 僅かな期待さえ無い
毎回 大概 こんな扱い
味方は居ない 仕方ない
変わりゆく世界 変われない私
変わりたい 関わりたい
顔が見たい 声が聞きたい 触りたい
愛したい 愛されたい 愛し合いたい
せめて最後に もう一度――会いたい
「誰かいますか?」




