救出
幼稚園の預かり時間である十一時間はとっくに過ぎている。
そういえばこの前は、田沢さん以外の人が娘を見てくれていた。あの時も今日のように時間を過ぎていて、やんわりとした口調で、その先生は僕のことを怒ってきた。
気持ちはわかる。
僕だって逆の立場なら、業務時間を超過したくはない。
あの時は、怒られて次からは気をつけると宣った。
だけど結局、今日も僕は、同じことを繰り返している。
そろそろ、本格的にクレームが来そうだ。
その方が良いかもしれない。
仕事でも居場所を失い、幼稚園からもクレームをもらえば、いくら家のローンが残っていたって、ここには入れなくなる。
そうすれば、さっき母が提案してくれた実家暮らしを選択する他なくなる。
……だけど、どうする。
一緒に住むとなれば、隠し通すことはきっと出来ない。
凜花のお世話もやってもらうとなれば、良心の呵責で隠すことなんて出来っこない。
凜花が母達と血の繋がりがないことを、隠せるはずがない……。
その事実を伝えれば、両親は一体どんな反応をするだろうか?
悲しむだろうか。
割り切るだろうか。
それとも……。
やはり、無理だったのだろうか。
血の繋がりがないことに目を瞑り、凜花と二人で生きていこうと決意した。
だけど、上手くいかない。
何も上手くいかない。
明美に任せきりで慣れない家事。
昇進以降人間関係が上手くいっていない職場環境。
そして、目を逸らしても気付かされてしまう、僕と凜花の関係。
辛い。
全てが辛い。
いっそ、ここから逃げてしまいたいくらいだ。
どうしてあんな選択をしたのか。最近ではそんな後悔ばかりが頭の中を渦巻いている。
足取りが重い。
歩きたくない。
立ち止まりたい。
どうして歩く必要があるのだろう?
家族を幸せにしたいと思ったからだ。
だけど……。
幸せにしたいと思った明美は、急逝して。
幸せにしたいと思った凜花は、僕の娘じゃなくて。
だったら、僕は今、一体何をしているのだろうか。
わからない。
わからないから辛いんだ。
答えを見つけたら、辛くなくなるのだろうか。
わからない。
わかりようがない。
……幸せにしたいと思った家族がいなくなった今、僕がその答えを見つける術はないからだ。
足が鉛のように重かった。
夢を見ているようだった。
時々見ることがあるんだ。化け物に追われる夢。必死に逃げようとするが、走っても走っても全然進まない夢。
逃げて。
逃げて。
逃げ切れず、掴まって……。
化け物が大きな大きな口を開けて。
牙を鈍く輝かせ。
極上の餌を前によだれを垂らして。
もう、食われる。
その直前、僕はいつも目を覚ますのだ。
首にはいっぱいの汗を掻き、そうしてしばらくしたら笑い出すんだ。
たかだか夢で、ここまでなるだなんて、馬鹿みたいだ、と。
頭がおかしくなりそうだった。
今、僕が立っているこの光景は……夢、か、現実なのか。
幸せになるための答えは見つからない。
だけど、この光景の正体の答えはすぐに出た。
これは、夢だ……。
悪い夢だ。
妻に先立たれて、妻が不倫をしていたことが発覚して、娘が托卵だったことも知るだなんて……普通じゃない。
悪い夢だ。
そうなんだ……。
早く、目を覚まそうと思った。
悪夢から覚める術は知っている。
恐怖心に駆られることだ。
恐怖心に駆られて、いっぱいの汗を掻いて……目を覚まして苦笑するんだ。
鉄橋の下から、電車のライトが輝いていた。
まるで街灯に集る羽虫のように、僕は高さ五メートルはあるの鉄橋の下に、吸い込まれていっていた。
……正直に言えば、どっちでも良かった。
これが夢、だろうが、現実だろうか。
ただ僕は、逃げられればそれで良かったんだと思う。
ここから。
この悪夢から。
この悪夢のような現実から……。
鉄橋の手摺に立ち上がった時、思わず足が竦んでしまった。
だけど、不思議と高揚感もあったんだ。
両足から手摺の感覚が消えた。
「何やってるんですかっ!」
叫び声が両耳に届いた。
鉄橋下の線路に飛び込んだ。そう思ったのにも関わらず……僕は、歩道に尻もちをついていた。
誰かに引っ張られたのだ。
誰かに後ろから……引っ張られたのだ。
死に損なった。
怒りに駆られた。
だけど、声は出そうもなかった。
「清水さん、あなた一体、何をやってるんですか!」
聞き覚えのある声だった。
放心状態で後ろを振り向くと、そこにいたのは田沢さんだった。
「……ああ、こんばんは」
「こんばんはって……」
「そうだ。凜花は?」
「清水さん」
「……すみません。迎えが遅くなって」
「清水さんっ!!!」
田沢さんの叫び声を聞いて、意識が覚醒した。
彼女の両手に掴まれた両肩から、痛みを感じた。いやそこからだけではない。歩道に叩きつけられたからか、全身がむち打ちにされたように傷んだ。
きっと、線路に飛び込んだらそれ以上に痛かったのだろう。
死ぬくらい、痛かったのだろう……。
「なんで助けたりしたんだ……」
僕の声は震えていた。
「別に、僕が死んでもあんたは困らないだろ?」
「……」
「放っといてくれよ」
「放っておけません」
「何故だ」
すぐに合点がいった。
「凜花の親、だからか……」
僕は苦笑した。
「そうですよね。……父兄が死ぬのは、あなたも困りますよね」
僕の言葉を聞いて、田沢さんが震えだしたことがわかった。
「凜花ちゃんは今、関係ないでしょ!?」
そして、彼女は僕を一喝した。
「あたしは、あなたが心配だったから助けたんです!!!」
耳を疑った。
「あなたがそこから飛び降りようとしたから助けたんですっ!!!」
……そんなこと、あるはずないと思っていた。
あの探偵も。
母も。
……明美も。
僕よりも凜花を優先するような発言をしてきた。
僕もそれが間違っていたと思っていたわけじゃない。
僕は成人した大人で、彼女はまだ五歳の身。
まだまだ……誰かに守ってもらないと生きていけない立場。
僕が守るしかなかったんだ。
妻に先立たれて。
実の父は見つかりようもなくて……。
僕が、守るしかなかったんだ。
だから、どれだけ辛かろうが大人の僕が耐えなければなかったんだ……。
でも、あの日から……。
前までなら耐えられたことが耐えられなくなって、辛かった。
明美に任せきりで慣れない家事。
昇進以降人間関係が上手くいっていない職場環境。
そして、目を逸らしても気付かされてしまう、僕と凜花の関係。
辛くても耐えるしかなかった……。
一人で、耐えるしかなかった。
もう僕を見てくれるような人は、ここにはどこにもいないのだから……。
「……怪我はありませんか?」
それなのに。
「痛いところはありませんか?」
……そう思ったはずなのに。
「……ありがとう」
気付けば、僕はお礼を言っていた。
「とりあえず、ウチに来てください」
「……でも」
「いいから。……凜花ちゃんもいるので」
凜花もいる。
そう聞いて疑問は不思議と浮かばなかった。
「行きますよ」
憔悴した僕は、彼女に手を引かれて、歩き出した。
評価、ブクマ、感想よろしくお願いします!!!