卒園
あれから、大石さんの言葉を考える時間が増えた気がする。
たくさんのことを与えてくれた人達に、今度はたくさんのことを与え返す。
その方法を考えていた気がする。
全ては、僕を幸せにしてくれた人達のため、今度は僕が皆を幸せにする。そんな気持ちを抱くようになった。復讐なんかよりよっぽど、気持ちの良い感情だった。
だけど、それは復讐なんかよりもよっぽど見つけるのが困難で。
そして、復讐を心に決めたせいで、機会を逸した感情でもあった。
気付けば季節が少し巡った。
冬を超えて、ようやく外も暖かくなり始めた頃。
凜花の卒園式の日はやってきた。
明美が死んで以降、よく通った幼稚園。
美波さんと破局して以降も、何度もここに通ったものの、あれから美波さんと顔を合わせた回数は激減した。
凜花を引き取りに行く時、顔を出す先生が美波さんではなくなったのだ。
謝罪も。
お礼も。
何もすることが出来ぬまま、今日を迎えた。
薄っすらとした諦めの気持ちもあった。
もう、美波さんと話す機会を得ることは出来ないのではないか。
諦めて、後悔をしたこともあった。
だけど、さすがに卒園式ともなれば彼女も顔を出さざるを得なくなる。
幼稚園の体育館。
遠くに美波さんを見つけた時、心臓が高鳴った気がした。
話す機会はないか。
娘の門出を祝う気持ちもそっちのけで、僕はそんなことを考えていた。
しかし、向こうも業務時間中ということもあり……やはり機会には中々恵まれなかった。
やはり、もう駄目か。
もう……。
卒園式も終わり、父兄が去っていく中、僕も凜花の手を引き渋々帰宅をすることにした。
「お父さん、忘れ物はない?」
「大丈夫だと思うよ?」
「そう? 今日、ずっとぼーっとしてたから」
凜花から茶化され、念のため僕は忘れ物がないかチェックをすることにした。
「あ」
そして、ジャケットの胸ポケットに入れていたハンカチがなくなっていることに気がついた。
一体、どこで……?
思い当たる節は、卒園式後にお借りしたトイレくらいか。
「ごめん凜花。ちょっと忘れ物」
「もー」
「ごめん」
慌てて僕は、幼稚園のトイレに顔を出すが、そこにハンカチはなかった。
困った。
あれは確か、凜花が誕生日にくれたハンカチだ。
……落とし物と気付いて、誰かが職員室に持って行ってくれていたりしないだろうか?
一縷の望みにかけて、僕は職員室に足を運んだ。
……職員室には、もぬけの殻だった。
卒園生以外の園児は、教室で寝ている時間だろうか?
だとしたら、先生はそっちにつきっきりか。
……卒園生の担当以外は。
もぬけの殻だと思った職員室に、彼女がいた。
もう会えないと思った、彼女がいた。
机に向かって作業をしていた美波さんは、気配に気付いてこちらに振り返った。
そうして僕達は、再会を果たした。
……言いたいことは山程あったはずだった。
謝罪。
お礼。
……そして。
でも、言葉が出てこない。
再会の時を夢見て、何を言おうか考えていたはずなのに。
言葉が何も出てこなかった。
美波さんは椅子から立ち上がった。
逃げられる。
そう思って動き出そうとするが、足が出てこない。
逃げられる。
それは誤解だった。
美波さんは、僕の方に寄ってきた。
あんな別れ方をした後だ。
怒りを買っても何らおかしくない。
殴られても。
刺されても。
文句は言えない。
……違う。
一年以上一緒にいたからわかる。
彼女はきっと、そんなことはしない。
「ごめんなさい」
頭を下げたのは、美波さんだった。
「どうして、君が謝る必要があるんだ……?」
ようやく声が出た。
「悪いことをしたのは僕じゃないか。君を利用して自分の私欲を満たそうとしたのは、僕じゃないか」
情けない声が出た。
「……わかっていました」
「……え」
「あなたがまだ復讐に囚われていることも。あなたが凜花ちゃんに向けている気持ちが濁っていることも、とっくの前からわかっていました」
……鋭すぎる、と疑問を覚えなかったわけじゃなかった。
あの日、僕と美波さんが別れるきっかけとなったあの日の会話。
あれで、僕が凜花に復讐をしようとしていた、と美波さんが言い当てたのは……言葉も少なく、鋭すぎると思ったのだ。
そうか。
僕の気持ちがバレていたから、あれだけでバレたのか。
「なら、どうして僕から離れようとしなかったんだ」
「幸せだったから……」
美波さんの声も、震えていた。
「あなたとの時間が、幸せだったから……っ」
だから、僕の気持ちを見て見ぬ振りをしていた。
だから、僕から離れようとしなかった。
それほどまでに……。
それほどまでに……っ。
「すまなかった」
僕は言った。
「すまなかった。すまなかった……」
それほどまでに想われていた。
それなのに僕は、彼女を利用した。彼女を利用することしかしなかった。
僕が成した結果、彼女は僕の何かに惹かれてくれた。
想ってくれた……っ!
なのに僕は、その想いを踏みにじる真似に出てしまった。
謝罪をすることしか、出来なかった。
「謝らないでください」
美波さんは、気丈に振る舞うように、微笑んだ。
「お互い様、ですよ……」
「……そうだな」
心の中で、もう一度僕は謝罪をした。
「お別れですね。清水さん」
静かに、美波さんが言った。
「……まだ、やり直すことも出来る」
「いいえ、出来ません」
「なんで」
「だってあなたには、もうあたしは必要ないじゃないですか」
「何を……」
「勝てないなって思っていたんです」
「……誰に?」
「凜花ちゃんに」
凜花……に?
美波さんが、凜花に?
「あなたの凜花ちゃんに対する気持ちは、確かに濁っていった。だけど、あなたはずっと……凜花ちゃんを想っていた」
「……そんなことは」
そんなこと、あるはずがない。
何度。
一体、何度……。
凜花を恨みそうになったか。
凜花に手を出しそうになったか。
凜花に、復讐しようと思ったか。
「でも、手放さなかった」
美波さんは真っ直ぐに僕を見据えていた。
「どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても。あなたは絶対に凜花ちゃんを手放す選択肢を取らなかった」
「それは」
「思っていたんでしょ? 自分が幸せになるには凜花ちゃんがいないと駄目だって」
「それは……っ」
「血が繋がっていなくても、凜花ちゃんはあなたの娘だったんです。愛する娘だったんです」
「そんなことはない……」
「あります」
「……」
「あなたの原動力はずーっと、凜花ちゃんだったじゃないですか」
明美が灰となったあの日。
凜花を、幸せにしようと思った。
親として……幸せにしようと思った。
それから色々なことがあった。
一度は、凜花を悲しませる行動を取ったこともあった。
……今、わかった。
『あんた……ちゃんと寄り添ってあげなさいよ』
母のあの言葉の意味が。
『残酷な選択ですよ、それは』
大石さんのあの言葉の意味が。
『だから……凜花ちゃんは悲しませないであげて』
美波さんのあの言葉の意味が。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
明美の、あの言葉の意味が。
ようやくわかったんだ……。
……見抜かれていた。
いいや違う。
端から見て、すぐに気付くくらいだったんだ。
それくらい僕は……。
僕は……っ。
……大人になって、僕のことを見てくれる人が少なくなった。
皆が口々に言うようになった。
凜花を。
凜花を……と。
おかしいことだと思ったことはなかった。
大人として。
親として。
凜花を幸せにすることは当然だと思った。
だから、皆が僕にそう言うんだと思っていた。
大人になれと言っているのだと思っていた……っ!
そうじゃなかった……。
皆は、僕のことを見ていないわけでも。
僕のことをどうでもいいとでも。
大丈夫って、慰めてくれないわけでもなかったんだ……。
ただ、僕がそう生きようとしていたから。
僕が、凜花と一緒に生きていきたいと思っていたから……。
幸せにしたいと思っていたから……っ!
背中を、押してくれていただけなんだ……。
「僕に出来るだろうか……?」
この期に及んで、僕は臆病風に吹かれた。
「僕は凜花を、幸せに出来るだろうか?」
「出来ますよ」
「……そうだろうか」
これまで……。
これまで何度……。
凜花を恨みそうになったか。
凜花に手を出しそうになったか。
凜花に、復讐しようと思ったか。
「大丈夫です」
「何を根拠に言うんだ」
「凜花ちゃんを見ていたら、わかるじゃないですか」
……凜花を見ていたら。
『でも、あたしが泣いちゃったらお父さん、もっと悲しいでしょ?』
僕のために、辛いのに涙を我慢しようとした彼女を見れば。
『お父さん、運転お疲れ様』
僕を気遣ってくれた彼女を見れば。
『お父さんが嬉しいなら、あたしも嬉しい……』
僕の心を救ってくれた彼女を見れば……。
そんなこと、考えなくてもわかることだった……。




