失墜
「賢さん。賢さん」
誰かの声で目を覚ました。
気付けば僕は昨晩、リビングのソファで眠ってしまっていたようだ。
この部屋にいる人。
それは誰か。
凜花か。
もしくは……。
明美が一瞬過ぎって、僕は途端覚醒した。
「……美波さん」
「おはようございます。賢さん」
照れながら、美波さんは言ってきた。
彼女の顔を見ながら、うっすらとした昨晩の記憶が蘇ってきた。
そう言えば昨晩は、美波さんをいつもより少し早く帰して、凜花へ報告をしたのだ。
美波さんと結婚すると……報告をして。
そうして……。
「駄目じゃないですか。こんな場所で寝ちゃ」
美波さんが平静を装いながら言った。
「また、晩酌をしていたんですか? お酒も体に悪いですよ?」
僕は、彼女の顔が見れなかった。
「……それで」
彼女に視線を向けようともしなかった。
「凜花ちゃんには、説明出来ましたか?」
美波さんの声が、少し震えていた。
多分、恐れているのだ。
「……賢さん?」
「喜んでいたよ。僕達の結婚」
僕は呟いた。
嘘は一つも言っていない。
昨晩あったことを、ただ、告げたんだ。
「……なら、どうしてそんな辛そうな顔をなされているんですか?」
今まで、美波さんから聞いたこともないような声だった。
まるで僕を疑うような……。
夫の浮気の詮索をする妻のような……。
僕を、咎めるような声だった。
「どうしてだと思う?」
自嘲気味に、僕は笑った。
笑いながら、昨晩の一件が脳裏を過ぎった。寝起き。おぼろげだった記憶が徐々に鮮明になり……そうして、僕はもう笑うことしか出来なかった。
もう、全部がどうでも良かった。
しばらく、僕達の間に言葉はなかった。
「ごめんなさい。嫌な役目を押し付けちゃって」
口を開いたのは、彼女だった。
「これからは夫婦になるんだから。共有しないといけませんでしたよね。……良かったことも、悪かったことも」
良かったこと。
悪かったこと……か。
……あの日から。
明美の急逝から。
僕の人生は、悪いことの連続だった。
仕方がなかったんだ。
間男に怒りを覚えることも。
心の拠り所を求めることも。
凜花に復讐を果たそうと、することも。
「あたし達、三人で幸せになるんですから」
「幸せになんてなれっこないよ」
反射的に、彼女の言葉に反論していた。
あり得ない言葉だった。
これから結婚をする相手に、こんなことを言うのは……あり得ないことだった。
だけど、我慢出来なかった。
直情的に反論していた。
引っ込めるべき言葉か、言うべき言葉か。今の僕にはそれさえも区別が出来なくなっていた。
ただ、感情的に言葉を発してしまった。
「……嘘を付いていたんですか?」
美波さんは震えていた。
「凜花ちゃんを悲しませるようなことはしないって言ったじゃないですかっ!!!」
……そして、怒った。
「あたしを利用したんですか?」
当然だ。
僕には、弁明の言葉さえなかった。
「……最低」
吐き捨てるようにそう言って、美波さんは家を出た。
しばらく僕は、何も考えていなかった。
美波さんを追いかけることもせず。
自分の発言の正当化を考えることもせず。
何も考えず、何もしなかった。
ただ、フローリングの凹みをぼんやりと眺めていた。
楽しいわけでもない。
面白いわけでもない。
悲しいわけでも、辛いわけでもない。
なんだか全てがどうでも良くて、頭を働かせることさえ億劫だった。
ある時、ふと気付いた。
香取が僕にした仕打ち。
明美が僕にした仕打ち。
そして、僕が美波さんにした仕打ち。
相手に黙って、相手の良心を利用し傷つける、その悪魔のような仕打ち。
「もう、あいつらに復讐心を抱けるような立場ではないな。ハハハ……」
堕ちるところまで堕ちた。
救いようがないくらい、クズに成り下がった。
だというのに、何故こんなにも清々しい気持ちでいられるのだろう。
まもなく、凜花が目を覚ましてきた。
 




