喜び
美波さんへ、今晩凜花に結婚報告をすると言った日の晩。
「それじゃあ、また」
「うん」
いつもより少し早い時間に、美波さんは帰宅した。彼女にいつもより早く提案をしたのは僕。これから、凜花にどんな話をするのか。どんな振る舞いを見せるのか。美波さんには見られてはいけないと思った。
意外にも、美波さんはそんな僕の思惑に乗っかった。
いつもの彼女なら、凜花への説明に同席する、と言いそうなものだが……。
それくらい、美波さんから見て、凜花との間に隔たりを感じていた、ということだろう。
端から見ると、彼女達はとても仲が良さそうに見えた。それこそ、事情を知らない人であれば家族と思ってくれそうなくらいの。
だが……。
思わず、ほくそ笑みそうになった。
笑いを堪えるのに必死だった。
「先生、今日はもう帰っちゃったの?」
リビング。
テレビを見ていた凜花が、尋ねてきた。
「……うん」
そういえば、凜花はずっと美波さんのことを先生と呼んでいる。
それこそ、彼女達の間に家族にはなり得ない、一生かけても埋まらない溝がある証拠なのではないか。
僕は思った。
「凜花」
「なあに?」
「少し、お話いいかな?」
「……わかった」
一瞬、凜花が神妙な面持ちをしたことに、僕は気付いた。
彼女は六歳。
まだ、小学生にもなる前の年齢だ。
だけど、彼女は明美のように献身的で、そして賢い。
もしかしたらとっくに、予感はあったのかもしれない。
L字型のソファの、凜花の座らない列に腰を落とした。
僕は、凜花を見据えた。
「大事な話なんだ」
一瞬、高揚感にも似た感情が芽生えた。
「大事な話……?」
「そう、大事な話だ」
……誤解するな。
誤解をするな。
これは、まだ序章。
僕の復讐劇の序章なんだ。
あの日を境に、僕の人生は一変した。
妻を失い。
妻の不貞を知り……。
娘と、血が繋がっていないことが発覚した。
あれからの人生は、絶望だけだった。
辛く。
苦しく。
救いのない、絶望的な人生だった。
仕方がなかった。
仕方がなかったんだ。
妻は死に。
間男も死に。
その間男の嫁はむしろ被害者で……。
僕のこの内心に残った復讐心を向ける相手はもう……。
もう、こいつしか残っていなかったんだ。
だから、これは復讐劇の序章。
凜花に向けた復讐劇の最初の一頁。
ほくそ笑みそうになるのを我慢することで必死だった。
凜花が……。
この憎しみの対象が……。
「お父さん、結婚することにしたんだ」
どんな反応をするか、楽しみで……。
楽しみで、仕方がなかったんだ……。
言い終えた時、僕は胸の奥の更に奥。ぽっかりと空いた穴に何かが埋まったことに気がついた。
どす黒い激情が、僕の何かを埋めてくれたことに気がついたんだ。
興奮を抑え。
笑いそうになるのを堪えて。
僕は、ゆっくりと凜花を見た。
……凜花は。
明美の娘は。
香取の子は。
泣いて。
辛そうで。
絶望していて。
「おめでとう」
そんな負の感情からは生まれない一言を、僕に与えた。
祝いの一言だった。
微笑み。
嬉しそうに。
幸せそうに……。
「おめでとう。お父さん」
凜花は、笑っていた。
瞬間、僕は呆気に取られてしまった。
凜花の予想だにしなかった態度に。
凜花がするはずもないと思っていた笑顔に。
僕は、言葉を失ってしまったんだ。
「……どうして?」
僕の声は震えていた。
「どうして、凜花」
手も。
「凜花……嫌じゃないのかい?」
足も。
「新しいお母さん、嫌じゃないのかい?」
震えていた。
「嫌だよ」
……いつかの光景を思い出していた。
それは、火葬場での出来事。
明美の遺体が骨になる直前、凜花とした短い会話。
短く、だけど一生忘れることが出来そうもないと思った会話。
「でも、お父さん。嬉しいんでしょ?」
……もう、誰も見てくれないと思ったのだ。
「お父さんが嬉しいなら、あたしも嬉しい……」
母も。
明美も。
美波さんでさえ……。
もう、僕を見てくれる人はいなかった。
辛く、苦しく、絶望する僕を……献身的に支えてくれる人はいなかった。
大丈夫って、慰めてくれる人はいなかった……っ!
仕方のないことだと思ったんだ。
大人である僕は、誰かの支えになり、誰かを守るために生きているのだから。
だから、仕方のないこと。
耐えるしかないと思っていたんだ。
自分一人で耐えるしかないと思ったからなんだ。
安易な復讐心に駆られたのは……。
わかりやすい敵を生んで、守ろうとしたからなんだ。
自分を……。
僕を……。
誰も見てくれない僕のことを……っ!
自分で……守ろうとしたからなんだ。
違う。
違った。
……いた。
いたんだ。
地元にいる母でもなく。
家に帰った美波さんでもなく……っ。
天国にいる明美でもない……!!!
こんなにも。
こんなにも……っ。
こんなにも近くに、ずっと僕を見てくれている子がいたんだ……。
「お父さん、どうして泣くの?」
凜花の優しい声が痛かった。
彼女を貶めようとした僕には、彼女の優しい声が……ただ、痛かった。
でも、僕は今、痛いから涙を流したわけではなかった。
このシーンを書きたいがためにこの作品を書き始めた。
珍しく過言じゃない




