邪
復讐心の赴くままに行ったプロポーズ。
美波さんは最初、それに断る姿勢を見せていた。別に、僕に対して結婚願望がないだとか、そういうことが理由ではない。
今日まで一年間、彼女とは適切な信頼関係を築いていた。
期間こそ短いが、かつての妻と同じような信頼関係を築いてきた。そこまで大きな関係を築けた理由の一つに、明美の不貞という特大級の秘密を共有出来たため、というのが少し皮肉めいていたが、それは紛れもない事実だった。
だから、彼女も何も僕のプロポーズを生涯受け入れる気がない、というわけではなかった。
ただ、世間体を気にしただけだ。
自分がまだ凜花の幼稚園の先生の身であること。
そして、僕が妻を亡くして、まだ一年少々ということ。
今、僕達が結婚をすれば……周囲がどんな反応を示すかはわかりきっていた。
だから美波さんは、せめて凜花の卒園まで結婚は待とうと僕に宣言したのだ。
しかし僕は、それに断固拒否の姿勢を示した。
ひとえに、それは凜花を追い込むため。
妻を亡くして一年少々で夫が身を固めた、となれば、世間の反応が冷ややかになることは目に見えている。しかも相手は凜花の幼稚園の先生。そんなことになれば、当然、彼女がいるコミュニティ内でも凜花を見る目は変わることだろう。
家庭内では疎外感に苛まれ。
家庭外では父の身の軽さに軽蔑され。
そうすれば彼女は、きっと今のように笑えなくなるだろう。
勿論、世間から見れば軽薄な行為をした張本人である僕も冷ややかな視線を浴びることは間違いないが……凜花を追い込むためならそれもやむなし。
もしとことん追い詰められたのなら、この命を絶って、それでおしまいだ。
どこかの誰かがしたように。
どこかの誰かが、尻拭いもせずに負の遺産を遺したように……。
僕も、それを真似るだけ。
ただ、それまでのことだと思っていた。
辛抱強く美波さんの説得を続けた結果、一週間後には彼女からオッケーの連絡をもらえた。
「……もう、あたしも親になるんですね」
「そうだね」
「……複雑な家庭を持っちゃったな」
照れくさそうに笑う彼女からは、言葉からは裏腹に心底嬉しそうな感情しか読み取れない。
そんなに凜花の親になれたことが嬉しいか。
内心で、そんな文句を抱えるものの、口に出すことはしなかった。
毎月の大掃除の日。
昨晩は、美波さんと同じベッドで一夜を過ごした。
眠たそうに、美波さんはあくびをしながら、掃除に明け暮れていた。
「ごめんなさい。あくびしちゃった」
「別にいいだろ、それくらい」
「いいえ、これからあたし、凜花ちゃんの模範にならないといけないんだから。しっかりしたところを見せないと」
……苛立つ気持ちが湧き上がった。
「これまでも幼稚園の先生として、模範にならないといけなかったんじゃない?」
「あはは。そうでした……」
頭を掻きながら、美波さんは笑った。
「……ねえ、賢さん?」
「ん?」
「凜花ちゃんには、いつ話すんですか?」
最近、浮かれ気味だった美波さんにしては、重々しい口調だった。
掃除の手も止めて、わざわざこちらを振り返って、尋ねてきた。
振り返ると、神妙な顔つきで美波さんは僕を見ていた。
婚姻届は、来週市役所に提出しようと話し合っていた。
だからこそ、美波さんはこのタイミングで尋ねてきたんだろう。
「今晩にも話そうか」
「……はい」
納得したような言葉で頷き、美波さんの顔は納得していなかった。
「……どっちから、話しますか?」
また、重々しい口調で美波さんは尋ねてきた。
どちらから話すか、か。
……その時だった。
長丁場になると思っていた復讐劇。しかし早速、一つ目の復讐の舞台が目前にあることに、僕は気付いたのだ。
俯く美波さんにバレないように、僕は邪悪に口角を吊り上げた。
一生懸命、平静を装うとするが……中々元には戻らなかった。
「僕が話すよ」
ようやく言えた。
その途端、美波さんが少し安心したような顔をした。
「……そうですか」
「ああ」
「……ごめんなさい」
「……」
「正直、それが良いとあたしも思っていました」
「へえ……」
「……これまで一年、凜花ちゃんとは幼稚園でも、この家でも、生活をしてきました。彼女は良い子です。本当に良い子です……」
……。
「でも多分、凜花ちゃんはあたしのことはまだ、親のようには思っていません」
美波さんは悲痛そうな顔で呟いた。
「怖いんです。あたし……」
反面僕は嬉しかった。
「あたしから話せば、凛花ちゃんに拒絶されることが目に見えてて……怖いんです」
美波さんと、認識が一緒だったことが嬉しかった。
「……僕は」
僕は、拒絶してほしいんだよ。
嫌だと泣き喚かれ、止めてとしがみつかれ、涙を流しながら絶望する顔が見たいんだよ……。
昂ぶる感情のあまりそう言いかけて、慌てて言葉を引っ込めた。
「……凜花なら大丈夫じゃないかな?」
代わりに優しい声色を装って、僕は言った。
ただ声色とは裏腹に……言葉からは凜花のことなどどうでも良い、という感情が溢れ出ていたことに、僕は後々になって気付くのだった。




