逸する
……死んだ?
香取が、死んだ?
もういない。
もう、いないって言うのか……?
大石さんの言葉が、頭の中でリピートされ続けた。
壊れたスピーカーのように、延々と、リピートされ続けた。
「……なんで?」
僕は、震える声で続けた。
「なんであんた……そんなことまで調べがついたんだ?」
……そうだ。
この一年、彼女はずっと僕に碌な情報も与えてくれなかった。一年だ。一年もだ。
なのに……なんで。
なんでいきなり、こんなに……。
こんなにもたくさんの情報を絞り出せたんだ。
たった、一月で……。
「僕から金を、取れるだけ取ろうって魂胆だったのか?」
頭を抱えながら、僕は気付いていた。
違う。
そうじゃない。
それはない。
……だって、もしそうなら。
今日だってお茶を濁して、また来月の金を受け取ればいい。
今全て、調べ上げたことを話す必要がない。
「……まずは、また奥様の地元へ行きました」
淡々と、大石さんは語り始めた。
「写真に名前。前までは何も掴めない状態でしたが、本名が知れたのが本当に大きかった。不審者かと思われながら、地元の方、何人かに写真と本名を話して、居場所を知っているか尋ねました」
ふう、と大石さんは息を吐いた。
「一人の老婆が、彼を知っていました」
「……」
「どうやら近所に住んでいたらしく、幼少期からの彼を、知っていました。そして、就職した企業と、東京に転勤になったことを教えてくれた」
「……」
「企業がわかれば、話が早い。東京の支部を調べて、近隣を調査しました。今度は一人の会社員に……恐らく、彼の元同僚に、彼が所帯持ちであることを教えてもらい、少しだけ協力を仰いで、当時の住所を教えてもらいました」
「……」
「ただ、そこで彼が亡くなったことを教えられました」
大石さんは、俯いていた。
しばらく、無言の空気が流れた。
「……この写真は」
僕は、指を机に向けた。
大石さんが置いた、写真を指さした。
明美のスマホの写真に残っていた、瓜二つの男の写真を、指さした。
「この写真は、どうしたんだ?」
「……奥様に会えたんです」
「……なんだって?」
思わず、聞き返してしまった。
ずっと頭を抱えていた僕は……この時、ようやく顔を上げたんだ。
大石さんは、能面のように無表情を貼り付けて、僕を見据えていた。
少し、背筋が凍った。
「お会いになりますか?」
大石さんが言った。
「……会えるのか?」
「えぇ、写真だってもらえたんです。少し話せば、会ってくれると思います」
「……間男の嫁だぞ?」
「何かするんですか?」
僕は何も言えなかった。
何もしない……とは、正直言えない。
さっきまでの僕は確かに……香取の息子。そして彼女を……不幸にさせるつもりだった。
いや今だって。
ただ動揺しているから、狂気をそがれてしまったから臆しているだけだ。
もし、直接会ってしまったら。
本当に、会ってしまったら……。
狂気に駆られない、という自信はない。
「会いたいなんて言うはずがない」
僕は、首を横に振った。
「僕との関係を考えたら……向こう方が会いたいだなんて言うはずがない」
「いいえ」
「は?」
「是非、会わせてくれと、そう仰っています」
……どうして?
危害を加えられる可能性があるのに。
どうして。
「わかった」
この時の僕は、気が動転していたんだと思う。
聞けばよかったんだ。
どうして、僕になんて会いたがっているだって。
どうして、自ら死地に飛び込もうとしているんだって。
……もう少し頭が回っていれば。
もう少し、大石さんに尋ねる選択肢があれば。
あんな思いもしなくて済んだのに。
電車を乗り継いで、僕は大石さんと一緒に賃貸アパートにたどり着いた。
大石さんがチャイムを押すと、まもなく扉が開いた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
どこにでもいる主婦だった。
とても、不倫をするような男と結婚した妻のようには見えなかった。
だからだろう。
ふつふつとした怒りに駆られたのは。
ただ真っ直ぐ歩くだけなのに、足が覚束ない。
怒りで足が震えることなんてあるんだ……。そう思った。
みすぼらしい賃貸。
畳の部屋。
「申し訳ございませんでした」
謝ったのは、香取の妻だった。
突然の謝罪。
僕はただ……呆気に取られることしか出来なかった。
「申し訳ございませんでした」
すすり泣く声で。
「申し訳……ございませんでした」
畳に額をこすりつけながら……。
香取の妻は、土下座をして謝罪をしてきた。
しばらくして落ち着いて、だけどすぐに僕の気持ちは乱れた。
「やめてください……」
「申し訳ございませんでした……」
「やめてくれ。そんなことは……」
先んじて謝罪をされた。
そう、させてはいけなかった。
初めてだ。
こんな感情は初めてだ。
謝罪をされて、狡猾だ、と思うだなんて。
怒りの感情を柔和された。
怒りのタイミングを逸した……!
湧き上がる行き場のない怒り。
どうすることも出来ない……誰にもぶつけられない、この怒り。
今の僕は……どれだけ醜い顔をしていたことだろう。
もう、充分だと言うのに。
「申し訳ございませんでした」
一切、謝罪をやめようとしない彼女に……。
僕は今、どんな顔で彼女を見下ろしているだろう。




