復讐
凜花のフォーマルの購入へ向かったのは、美波さんと会話をしてから二週間経った後のことだった。
「じゃあ行くよ」
「はあい」
凜花の元気な返事を聞きながら、僕達は家を出た。
車を走らせてしばらく、たどり着いたのは美波さんの住むマンション。
後部座席で漫画を読む凜花をミラーから見ながら、僕はスマホで彼女に電話をかけた。
しばらくして、美波さんはマンションの入口から走って出てきた。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫」
はぁはぁ、と、後部座席に乗り込んだ美波さんは息を荒らしていた。
「何着ていくか。迷っちゃって……」
ようやく涼しくなってきたとはいえ、彼女の額には汗が見せた。少しだけ乱れた格好の彼女に、僕はしばらくミラー越しに見惚れていた。
「じゃあ、行きますか」
「うん」
僕は車を発進させた。
しばらくは市街地で車を走らせながら、車が信号待ちをする度、ミラー越しに二人の仲睦まじい様子を見る、という時間を送っていた。
美波さんの教えてくれたお店に到着したのは、それから三十分くらい後だった。
都内に位置するこのお店に、利便性だけを配慮し来るのなら、多分電車が一番だったことだろう。
ただ、彼女と僕の今の関係は、幼稚園の先生と父兄の関係。
どこの誰かに見られるかもわからない今、リスクは少しでも減らしたかった。
こういう考えの元に行動を起こすのは、この一年何度もしてきたことだった。幸い、まだ一度も、僕達の関係が知られた、という報を美波さんから聞いたことはない。
多分、僕達は、上手く付き合ってこれている。
このまま順調に行けば……。
凜花が卒業すれば。
美波さんと僕の関係が変わり、明美の死からもしばらく経つ。
……世間の目は、幾分かマシになるだろう。
……ただ、そういう思考をする度に、最近では陥るような感情がある。
どうして僕が、あの裏切り者の女のために、そんな制限の中、生きねばならないのか、と。
「お父さん!」
試着室から出てきた凜花の声は、いつもより楽しそうだった。
「どう?」
「うん。サイズはぴったりだね」
「そうじゃないよ!」
ふくれっ面の凜花に、僕は首を傾げた。
「そうじゃないですよ」
凜花に同調したのは、美波さんだった。
こうして二人に詰められる状況は、多分初めだ。
一体、何を間違えたのか?
……ああ、そうか。
「可愛いよ」
「本当?」
僕の間のせいか、凜花は少し不安そうだ。
「うん。本当だよ」
「……本当に本当?」
「うん。間違いなく、可愛い。世界で一番、可愛いよ」
パーッと、凜花の顔が晴れ渡った。
「やった! やったー!」
大層嬉しそうにそこらを飛び跳ねる凜花に、
「こら、凜花ちゃん! お店ではしゃいじゃいけません」
美波さんが注意をして。
僕は、少し遠くから二人を見守っていた。
……きっと今なら、止まることが出来るのだろう。
復讐なんて忘れて、三人で健やかに幸せに暮らす選択肢もあるのだろう。
『……このまま、終わらせるつもりですか?』
一年前、美波さんに言われた言葉を思い出した。
あの日から、僕の人生は幸せに快復していった。
美波さんと、凜花と……三人での暮らしは幸せだった。
そしてこの後、更なる幸せが僕達には待っている。
今日までがそうだったように。
これからもきっと……。
……でも。
でも、違う。
一度味わってしまったから知っている。
明美と、我が子と……暮らした過去があるから知っている。
今僕達三人が掴もうとしているこの幸せは……。
僕と、美波さんと、凜花の三人で掴もうとしている幸せは……。
精神不安定になってしまった僕と。
そんな僕を支えるために尽くしてくれる美波さんと。
誰とも血が繋がっていない凜花と。
僕達三人の掴む幸せは、偽りに過ぎないんだ。
奪われた。
奪われてしまった……!
明美に。
香取に……!
奪われてしまったんだ。
このまま、終わらせられるはずがないではないか……。
たくさんの大切なものを奪ったあいつらを、許すことなど出来るはずがないではないか……っ!
幸せだ。
今の僕は、幸せだ。
だから今、僕はあいつらを許すことが出来ない。
八つ裂きにして、屠ってやりたくて仕方がない……!
僕と同じ想いを味わわせてやりたい。
大切なものを奪われ、大切なものを二度と取り戻せないこの苦しみを……。絶望を……!
あいつらに……。
香取に!!!
味わわせることなく、僕は幸せだなんてことを言える日はやってこない。
……そう、思っていたのに。
大石さんとの約束から一ヶ月。
逸る気持ちを抑えながら、僕は彼女の探偵事務所へと急いだ。
通い慣れた電車を乗り継いで、雑居ビルの狭いエレベーターに乗り込んで……。
「おはよう」
僕は、彼女の事務所の扉を開けた。
事務所内は、静かだった。
まるで誰もいないかのように、静かだった。
時計の針を十五回程聞いて、僕は留守かと思って踵を返しかけて気がついた。
留守だったら、扉が開いているはずがない。
「なんだ、いるじゃないか」
衝立の奥を覗くと、彼女はいた。
「……あ。おはようございます」
「おはよう。目の下の隈、酷いな」
「……あはは」
「寝れていないのか? 日を改めた方が良いか?」
「いいえ、大丈夫です」
「……そっか」
彼女と向かいのソファに、僕は勝手に腰を落とした。
少し、気まずそうな彼女につられて、僕もしばらく黙りこくっていた。
「……今まで、ありがとうございました。清水さん」
いきなりのお礼だった。
「何を改まって」
「……この一年、相当やきもきをさせましたから。終わる時には、まずは挨拶をしようと思っていました」
「やきもき、か」
この言いぶりは……手ぶらで一月を迎えた、というわけではなさそうだ。
「……やきもきなんてしていないさ。むしろ、有り難かった」
「そうなんですか?」
「ああ、ゆっくり考える時間が出来たから」
そうだ。
この一年以上、僕は彼女のおかげで色々なことを考えることが出来た。
堂々巡りのように同じようなことをずっと考え続けてきた。
家族と、倫理と、法律の天秤をずっと揺らしていた。
だけど、もう……。
大石さんは、香取の写真を机に置いた。
「居場所はわかったのか?」
僕は尋ねた。
「……東京です」
「そうか。東京か」
近い……!
今の自分がどんな顔をしていたか。
自分ではわからなかったが、大石さんの反応を見ていると少しだけわかる気がした。
「意外と近かったな」
「……仕事の都合で転勤をしていたようです」
「家族構成は?」
「……妻と、子供が一人」
……子供、か。
「何歳だ?」
「八歳」
凜花より、少し上、か。
「性別は?」
「男の子です」
「……そうか。そうか」
「地元で結婚していたようです。それで、七年前にこっちへ来た」
「……わかった」
もう、わかった。
よくわかった。
「それで、今はどこに住んでいるんだ」
彼女は何も、怒らせるようなことをしていない。
「東京の……どこに住んでいるんだ?」
なのに、怒りの感情を堪えることが出来なかった。
もう、我慢が出来なかった。
今すぐ。
今晩中にでも……!
その男の子を、殺してやる。
あいつの目の前で。
泣き叫ぶあいつの目の前で……。
喉元にナイフを突き立てて、あいつに命乞いをさせてやる。
妻が現れたタイミングで、あいつが犯した罪を暴露してやる……!
僕も全て失う。
だけど、それであいつも全てを失う……!
妻も。
子供も……!
自分の一生も……っ!
同じ目に遭わせてやる。
同じ苦痛を味わわせてやる……っ!
「どこだ……」
震える声で、
「どこにいるんだっ、香取はっ!!!!」
僕は、叫んだ。
大石さんは、らしくなかった。
視線を泳がせながら、唇を震わせながら……。
刹那、気付いた。
彼女は僕の様子に戸惑っているわけではない。
僕に気圧されているわけではない。
彼女はこれまで……僕程度が叫んでも一切怯む様子はなかった。一度たりともだ。
そんな彼女が……。
「いません」
「……は?」
「もう、どこにもいません……」
開いた口が……塞がらなかった。
どういうことだ。
つまらない冗談か?
いいや、そんな様子ではない……。
そんな冗談を言う状況でもない。
ならば……。
……まさか。
「まさか……」
「もう、亡くなっています……」
巨悪は死に逃げするもんだよな、と昨今のニュースを見ていると度々思う。思い当たる節は一つや二つではない。怖いから明言はしないけどね。




