白々しい
凛花と美波さんが帰ってくる前に、僕は一足先に家へと帰宅した。
少し荒れた息を気にすることもなく、手の甲で額の汗を拭って、僕は書斎のある二階に駆け上がった。
袖机の一番上の棚。
いつかのDNA検査結果の紙。明美のスマホ……等、ここには凛花に見せられない物を仕舞い込むようにしていた。
鍵を掛けられる我が家の棚で、真っ先に思い浮かんだのがここだったのだ。
明美のスマホを手に取って、僕は一度大きく息を吸った。
意を決して、僕はスマホを起動した。
相変わらずロックの掛かっていないスマホを操作して、すぐにクラウドサービスのアプリを見つけた。
アプリを開くと、電話番号とパスワードを要求された。
「……っち」
思わず舌打ちをしてしまった。
何か、手掛かりはないだろうか?
……明美の生年月日。
凛花の生年月日。
僕の生年月日。
どれも当てはまらない。
まあ、パスワードに生年月日を設定することは避けがちなことだし、仕方ないか。
諦めて僕は、パスワードの再設定を試みることにした。
パスワードを忘れた方、というリンクにタッチして、電話番号に四桁の番号をショートメッセージで配信させた。
まもなく届いた四桁の番号をアプリに入力し……。
『あなたの好きなものを教えてください』
出てきたものは、パスワード再設定のため、本人確認用の質問文だった。クラウドサービス登録時に設定されたものだろう。
……僕は、回答を打ち込んだ。
『シーザーサラダ』
明美の好物だったものだ。
しかし、開かない。
『たらこのスパゲッティ』
これも明美の好物だ。
……しかし、これも駄目だった。
僕は頭を抱えていた。
こんなもの設定しやがって。
内心で、彼女への文句を抱いていた。
こんなの、登録後は本人さえ忘れるに違いないのに……面倒なことしやがって。
そもそも、何故スマホにパスワードを記憶させておかないんだ。
それさえあれば、ログイン画面に飛んだ瞬間、こんな手間を掛けずにクラウドデータを確認出来たのに。
……しかしよく考えれば、答えは明白だった。
スマホにパスワードを記憶させなかったわけ。
それはつまり、ここに答えがあるからではないか。
ここに答えがあるからこそ……。
誰にもバレてはいけない秘事があるからこそ、明美はスマホにパスワードを記憶させなかったんだ。
俄然やる気が出た。
ここに答えがある。
そう思ったら、すくに答えを知りたい気持ちに駆られた。
『チョコレートケーキ』
……しかし。
『結婚指輪』
どうしても……。
『英和辞典』
どうしても、答えがわからない。
一体、彼女はこの質問に何と書いたのだ。
……知っているつもりだった。
今こそ憎しみに駆られているが……あの日を迎える前まで。彼女の不倫を知る前までは……確かに僕は彼女のことを愛していたはずだった。
彼女との生活が好きだった。
幸せだった……!
なのに、わからない。
彼女の好きなものがわからない。
所詮、この程度の関係だったのか。
僕達は……。
……そうだ。
もし僕達が本当に互いを愛し合っていたのなら……。
明美は不倫なんてしなかった。
僕は、彼女へ深い憎しみを抱くはずもなかった。
しかし、僕達は互いにそう成った。
所詮、僕達の関係はその程度なのだ……。
所詮、僕達の関係は、一年もあれば瓦解する程度のものだったのだ。
……ふと、思った。
『清水凛花』
彼女は不倫をした。
僕に黙って不貞を働いた。
僕のことなど、愛していなかった……。
だけど……。
だけど、彼女は凛花のことは愛していたのだろうか?
腹を痛め産んだ我が子を……ここに書くくらい、愛していたのではないだろうか?
どうしてか、指が震えた。
しかしまもなく、僕はゆっくりと回答ボタンを押し込んだ。
……結果は。
「違う、のか……」
スーッと冷めた感情があることに気がついた。
少しだけ、明美に同情したのかもしれない。
夫を裏切り……。
娘を一番愛していたわけでもなく……。
彼女の人生は、一体何だったのか?
少しだけ、同情した……。
「……」
『清水賢』
……自分の名前を打ち込んだのは。
ほんの僅かに芽生えた、興味本位だった。
あるはずがない。
そんなこと、あるはずがない。
わかってる。
ただ選択肢の一つとしてあり得なくない話なのだ。
だから……合っていなくても構わない。
それでも何も問題ない。
それくらいの気持ちだったのだ。
「……!」
数コンマ何秒の読み込みの後……。
「……入れた」
僕は、パスワード変更画面にたどり着いた。
「……ハハハ」
乾いた笑いが漏れた。
「アハハ……ハハハハハッ!」
笑わずにはいられなかった。
「白々しい奴だ……」
自分に何かあった際、このスマホの中身を確認しようとするのは間違いなく僕。
この答えは、そんな墓荒らしのような真似をする僕の気を削ぐための一手だったのだろう。
そうとしか思えない。
そう、としか……。
……。
僕は、明美のクラウドサービスのログインパスワードを変更した。
そして、遂に彼女のクラウドデータを見始めた。
「……こいつは」
まもなく僕は、彼女のクラウドデータからある名前を見つけた。




