一年後
年を取る度、一年が短くなったと感じることはないだろうか。
この現象は、ジャネーの法則と呼ばれている。
一歳の一年は生涯の一分の一。
二歳の一年は生涯の二分の一。
と、年を取る度、自分が生きてきた生涯……分母に対する、一年……分子が小さくなっていくから、脳が錯覚する現象だそうだ。
この現象の理屈で言うと、大体八十歳で死ぬ人は二十歳くらいで人生の折返しを迎えるらしい。
今年で、僕は満三十六歳になった。
しかし、去年一年はこれまでの人生で考えてもこれ程長く、濃密だったことはないと思うくらい、色々な体験をすることが出来た。
……あの日から。
明美が死に、凜花の托卵が発覚してから、一年が過ぎた。
三週間の気温変動をたった一週間で終わらせる、秋を飛ばして、夏から冬に変わるような忙しない気温変動の年だった。
先週出した毛布にくるまり眠っていたが、足先が冷たくなったことで目を覚ました。
いつもより、三十分早い目覚めだ。
もう一眠りする気にはならなかった。
少し早いがベッドから体を起こして、僕はリビングへと向かった。
「エアコンが要らないのは助かるけれど、こういきなり気温が変わると困ってしまうな」
小さく呟いた。
衣装ケースから出した長袖のTシャツは、少しだけ防虫剤の匂いがした。
そんな匂いに少しだけ顔を歪めながら、僕は朝食の支度を始めた。
明美の死後数ヶ月は、この朝の準備がいつも辛かった。最初の方はそれこそ、どこに何が入っているかもわからず、探しものだけで数十分を浪費することは珍しくなかった。
ただ、最近は明美仕様だった棚の中も、僕仕様に移り変わりつつある。
何がどこに入っているかもわかるし、何より朝食の準備に手間取ることもなくなった。
明美の死後すぐは、こんなに手際よい生活を送れるようになるとは思っていなかった。
慣れ、とは、時に恐ろしい限りだ。
まあ、その慣れ、を手に入れる前に、僕は一度大きな挫折をしたのだが。
命を絶とうと思ったあの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
冷たい鉄橋。
暗闇を駆ける鉄の塊。
もし、あそこで飛び降りていたら、どうなっていたのか。
冷静になった今だと、愚かな行為をした、と後悔の念に駆られるばかりだった。
最近、少し増えたことがある。
それは、もしも、を考えることだ。
もしも、あの時死んでいたら。
もしも、あの時あんなものを見つけずに済んでいたら。
……もしも、あの時。
あの時、彼女と出会わずにいたら。
ガチャリ。
玄関の方から、扉の鍵を開く音がした。
僕は火を点けたまま、玄関の方に向かった。
「おはようございます。賢さん」
「うん。おはよう」
まだ寝ている凜花を起こさないように、彼女が……美波さんがやってきた。
欠かさない朝の挨拶。
欠かさない、朝のハグ。
まるで新婚生活をしていた頃に戻ったような錯覚をするくらい、新鮮な朝の一時だった。
「……えへへ」
照れくさそうに、美波さんは笑った。
「香ばしい匂いがしますね?」
「エッグマフィンを作ってみた」
「えー、いいなあ」
「君の分もあるよ?」
当然だろ、と僕は首を傾げた。
「……あはは。何だか甘えたみたいになっちゃいました」
「毎朝朝食抜いてきているのに何を言う」
「うー、だって賢さんの料理の方が美味しいんですもん」
「ご飯をまともに作るの、僕は一年未満だぞ?」
「ぶー」
不貞腐れたように頬を膨らませる彼女が、愛おしい。
僕は微笑んで、彼女の前にスリッパを置いてあげた。
お邪魔します。
とは、彼女は言わない。
この一年、彼女と僕はそう言うことがなくなるくらいの親交を深めた。
最早、当然だったようにも思える。
憔悴した僕には、唯一……彼女しか手を差し伸べてくれる人はいなかったのだから。
だから、必然的に僕達は……親交を深めて、愛を育んだ。
交際を始めたのは、今から大体二ヶ月前。
最初は、娘もいる手前、彼女へ好意を伝えることに、僕は後ろめたさを感じていた。
そんな僕に手を差し伸べてくれたのは、やはり彼女。
『あたしは、そんなこと気にしません』
その一言で、あの時の僕が一体……どれ程救われたのか。
それは最早、言葉にも出来ないくらいに大きなものだった。
ただ正式に彼女と交際を始めたから、と言って、僕達の関係に大きな変化が生じたか、と言えば、それはない。
「……賢さんのエッグマフィンの方が大きい」
いいや、彼女は少し、食い意地を張るようになったかもしれない。
「じゃあ交換する?」
「大丈夫です。ダイエット中なので」
「そう」
交際を始めても、彼女の食い意地以外の大きな変化はない。
至って普通。
至って平常。
至って普通で平常の……幸せだった。
そんな幸せに当てられている内に、僕は考えるようになっていった。
交際の時は、彼女から言わせてしまった。
だから、次は自分から……。
ただ、まだ早いだろうか?
彼女はまだ、凜花の幼稚園の先生だし。
僕もまだ、妻を失って一年と少ししか経っていないし。
……もう少し、先だろうか。
波風立てないためにも、せめて凜花が幼稚園を卒業した後、だろうか。
「あたしはいつでも良いですからね」
美波さんは言った。
僕は、内心を言い当てられて顔を上げた。
「……?」
僕の顔を見た美波さんは、小首を傾げた。
「あたし、ただ今日掃除を始めるのはいつでも良いですよって言っただけですよ?」
「……ああ、そういう」
思わせぶりな彼女の発言に、最近ではどぎまぎすることが増えた気がする。
数年後にする、とかいいつつ、一年後になりました。
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