転倒
昼ごはんを食べた僕達は、また車移動を開始した。
向かった先は、秩父で有名らしいかき氷店。ただ、今昼ごはんを食べたばかりということもあるので、まずはそのかき氷店の近くにある川に向かい、少し遊ぼうということになっていた。
車を停めて、雑木林の間の砂利道を歩いた。
「川の音が聞こえるね!」
凜花は、雑木林ばかりで姿は見えないまでも、聞こえてくる川の音に既に楽しそうだった。
「そうだね」
「水遊び出来るかな」
「着替え持ってきてないから、駄目だよ」
「えー。……わかった」
「ごめんね。凜花ちゃん」
「……んーん。我儘言ってごめんなさい」
聞き分けの良い娘の頭を、田沢さんは撫でていた。
僕は、二人の後に続き、二人の様子を観察していた。
ぼんやりと考えていた。
仲睦まじげな凜花と田沢さん。
そして、後に続く僕。
端から見たら今の僕達は……。
「何だか、美味しい匂いがしているね」
「バーベキューとかやっている人がいるのかもしれないですね」
「なるほど」
僕は納得しながら、続けた。
「バーベキューも、悪くなかったかもしれないな」
「じゃあ、今度はバーベキューにしましょうか」
「え?」
「え?」
先に歩いていた田沢さんは立ち止まり、こちらに振り向いた。
そして、なんとも言えない顔でカーっと顔を赤く染めた。
「あ、その……違いますからね」
「あはは。勿論、わかっていますよ」
また……。
確かに、僕達は今日、こうして家族同然の流れで秩父観光を楽しんでいる。
だけど、それはあくまで僕達が交わした約束に基づいた行動なのだ。
にも関わらず、彼女は約束を超越した行動を僕に求めた。
それは別に、下心があってのものではない。
彼女が言いたいことは、つまりそういうことだ。
プリプリと怒りながら、田沢さんは腕を組んでいた。
「別にあたし……食い意地張ったわけじゃないですから」
「……」
「な、何か言ってくださいよぉ」
「……そっち?」
「どっちですか?」
「あー、見て見て!」
いつの間にか一人先に歩いていた凜花から、楽しそうな声が聞こえてきた。
凜花の方へと急ぐと、目の前には流れの早そうな川が見えた。川のほとりでは、テントを張ってバーベキューを楽しむ家族も確認出来た。
敷き詰められた石を踏みしめながら、僕達は川に近寄った。
「わー、キレー!」
都心部では見られないような、水質がキレイな川だった。
確かに、感嘆の声を上げる凜花の気持ちもよくわかった。
「お父さん!」
「ん?」
「川遊び、してもいい?」
うずうずしている凜花を見ていたら、さっき駄目と言ったとはいえ、拒むのも可哀想になってしまった。
仕方ない、少しくらいならば……。
しかし、川の流れも早いし、子供だけ遊ばせておくのもやはり危なさそうだ。
「仕方ない。少しだけね」
「わーい」
凜花が走り出す。
「あー、凜花ちゃん、走ると危ないよ」
追いかける田沢さん。
二人の後を少し眺めて、僕も続いた。
「冷たい!」
「良かったね」
「ひゃー、これは確かに、冷たいや」
夏場とかに来れば、良い避暑地なんだろうな。
ただ、その時期はこの辺も混んでいるだろうし、悩み物だ。
パシャパシャと、凜花は足で川の水を踏みつける遊びをしていた。
何が楽しいのか、と少し思ったけれど、あの子が楽しんでいるならば、突っ込むのも野暮だろう。
「何だか、久しぶりに見た気がします」
田沢さんは、凜花を見ながら感慨深そうに言った。
「凜花ちゃんが、あんなに楽しそうにしている姿を見るのは……」
田沢さんの言葉につられて、僕は凜花に視線を向けた。
……確かに。
さっきも思ったけれど、最近の僕は五歳の彼女にかなりの負担を強いてしまった。
親失格、だな……。
「し、清水さん! あのその、あたし別に清水さんを責めたくてそういうこと言ったわけでは……きゃっ」
小さな悲鳴と共に……。
僕は、思い出していた。
『あたし、実は結構抜けてて。昔は毎日のように歩いているだけで転んじゃって。……エヘヘ』
あれ以来、彼女が抜けている場面を見せたことはなかった。
だけど今、最も抜けたところを見せてほしくない場面で彼女は……。
田沢さんは、何かに足を滑らせてバランスを崩してしまった。
くるぶしくらいまで、彼女は川に足をつけていた。
今転倒すれば、どうなるかは目に見えていた。
思わず僕は、田沢さんの手を掴み……引き寄せようとした。
「きゃっ」
「わっ」
「あー!」
のだが、結局二人して転倒し、水浸しになってしまった。
何だか僕達を断罪する声のおまけ付きで。
「……すみません。支えきれなかった」
「あ、あたしこそ……うぅぅ。情けない限りです」
「二人ともずるい! 凜花も水遊びもっとしたい!」
「だ、駄目だ凜花。そんなことしたら……車の中、もっと水浸しになるから」
「えー」
「……あはは」
「こんなことなら、着替えくらい持ってくるんだった」
「あははははっ」
慌てる僕を他所に、笑い出したのは田沢さんだった。
「ご、ごめんなさい。あたしのせいでこんなことになっているのに……あはは」
「まったく。本当ですよ。……立ちますよ」
「はい」
僕が先に立ち上がり、田沢さんの手を引っ張って、立ち上がらせてあげた。
「……何が、そんなに面白かったんです?」
「だって、楽しいなって」
「え?」
「こんなに川遊びで楽しいなって思ったの、いつぶりだろうなって」
「……」
「きっと、清水さんと凜花ちゃんと来れたからこんなに楽しかったんです」
「……そうなの?」
「うん。そうだよ。凜花ちゃん」
「そっか」
「うん」
「……」
「だから、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる田沢さん。
ゆっくりと彼女が顔を上げた時……彼女が僕を見ていることに気がついた。
「清水さんは、どうでしたか?」
「……」
「楽しかったですか?」
……ここに来たのは、あくまで約束を果たすためだった。
彼女には、日頃お世話になっていた。凜花の面倒を見てもらってしまった。
命を、救われてしまった。
だから、そんな彼女の提案してきた約束だから、ここへ来た。
それだけのはずだった。
「……ふふふっ」
なのに。
「あははははっ」
凜花が笑っていて、田沢さんが笑っていて。
こんなにも、楽しくて……。
こんな気持ちになったのは、いつぶりだろうか。
こんなにもこの時間が続いてほしいと思ったのは、いつぶりだろうか。
「楽しいです。すごくすごく……楽しいです」
田沢さんは、優しく微笑んでいた。
「田沢さんのおかげですね」
「そんなこと……」
「風邪引いてしまうので、一旦戻りますか」
「はい」
「凜花、戻ろうか」
「うん」
凜花と手を繋ぎながら、満たされている心があることに気がついた。
ここ最近、ずっと欠けていた何かが、久しぶりに埋まった気がした。
……今だけは、ここ数ヶ月に起きた悪夢を全て、忘れられていた。




