考えうる限りで最悪の別れ
今朝、妻と少し喧嘩をした。
妻が僕に文句を言うことは、日頃から別に少なくはない。
五歳になる子供を持つ親としては失格かもしれないが、僕は自他共に認めるくらい、ものぐさなところがある。
嫌なことは後回しにしたいし、出来ることなら面倒事には首を突っ込みたくない。
しっかり者な妻からすれば、そんな僕の性格は目に余るのだろう。
だけど、大抵いつもは最後には二人で互いに謝り合うことで事なきを得てきた。
しかし、今日の喧嘩はそうはならなかった。
荒ぶる口調。
怒りで震える手。
出社して数時間は、仕事もまともに手につかないくらい、僕は荒れていた。
ただ、残業時間になる頃にはその気持ちも落ち着いていて、浮かんでいた感情は罪悪感。
その果てに、僕は思った。
家に帰りたくないな、と。
妻はまだ怒っているだろうか。
いつも通り口を聞いてくれるだろうか。
夕飯が支度されていないとか、嫌がらせされていたりしないだろうか。
そんな思考が浮かんでは消えていく。
結局、いつもより一時間多く残業して、嫌々ながら僕は家に帰った。
重い足取り。
乗るのを躊躇う満員とは言わないまでも人の多い電車。
家に着くと、リビングの明かりはまだ灯っていた。
珍しいな、と思った。
今の会社に入社して七年。ようやく課長へ昇進し、その代償として帰宅時間が遅くなっていた。
帰宅すると、五歳の娘は当然に、妻も寝静まっている日が増えていた。
だから、リビングに明かりが灯っていることに違和感を感じた。
少し、血の気が引いた。
妻は……明美はまだきっと怒っているんだ。
怒っていて、自分が納得するまで、今朝の件で僕と激論を交わすつもりなんだ。
……勘弁してくれ。
それが率直な感情だった。
長時間の業務後、今度は妻との精神を削る口論だなんて……そんなこと嫌に決まっているではないか。
仕方無く、僕は意を決して家に入ることにした。
扉は、無用心に鍵が開いていた。
あの子を起こさないように、廊下は静かに歩いた。
そして、リビング。
……業務後に、口論だなんてしたくないと思った。
「……明美?」
……あの子を起こさないように、静かにしていようと思った。
「明美っ!!!」
僕の大きな声が室内に響いた。
僕の大きな足音がリビング内に響いた。
妻は。
明美は、リビングの壁にもたれかかっていた。
そして、冷たくなっていた。
まるで人形のように……。
血の宿っていない人形のように、冷たく静かに眠っていた。
くも膜下出血。
妻は、帰らぬ人となった。
あまりに突然で、あまりに早すぎる別れだった。
* * *
『あなた、もう少し早く帰って来れないの?』
夢を見た。
明美を失った日のあの朝の夢だ。
あの日、僕は明美と口論をした。
口論の理由は、最近の僕の帰りが遅いこと。
『仕方ないじゃないか。仕事が忙しいんだから』
いつもなら、明美から文句を言われたら謝っていた。
しかし、その日の僕は素直に謝罪する気にならなかった。
最近、僕は入社して七年になる会社で昇進をし、晴れた課長という立場になった。仕事の帰りが遅くなっているのはそれが理由だ。
本当は昇進なんてしたくなかった。
平社員から課長になれば、業務の毛色が変わってくるし、責任だって重くなる。業務時間だって伸びる。
お金が欲しかった。
特別、今すぐお金が欲しかったわけではない。
ただ将来、僕と明美と、そうしてあの子と。
三人で何不自由なく暮らせるだけのお金が欲しかった。
だから、仕事に精を出した。昇進を果たして給与を上げて、残業時間を増やして残業代を稼いだ。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
明美のこの文句は、そんな僕の頑張りだとか成果だとか、全てを否定しているような言葉で……僕は、頭に血が昇ったのだ。
『そうだよ。大事だよ。今は仕事の方が』
僕は目を覚ました。
……まさか、あの言葉が明美にした最後の言葉になるだなんて。
夢にも思っていなかった。
正直、未だ実感が湧いてこない。
明美がいなくなったという実感が、湧いてこない。
ベッドから上半身を起こすと、隣には娘の凜花が眠っていた。
ダブルサイズのベッドに、家族三人で眠りにつく。
それが、僕達の就寝スタイル。
僕が目を覚ますと、いつも決まって隣には凜花がいた。しかし、凜花の向こうに明美はいない。
我が家から会社までの道のりは電車を使って大体一時間。
七時には出社出来るよう、明美はいつも五時に起きる僕より一足早く目を覚まして、朝食を作ってくれていた。
だから、明美はいつもベッドにいない。
今日もいない。
当然だ。
僕はベッドから体を起こして、リビングへ向かった。
そして、いつもは明かりの灯るリビングが、真っ暗闇に包まれていることに気がついた。
ああ、そうか。
もう、僕より先に起きてリビングに明かりを灯してくれる人はいないのか。
もう、僕のために朝食を作ってくれる人はいないのか。
もう、明美はいないのか。
『そうだよ。大事だよ。今は仕事の方が』
……ただ、幸せになってほしかっただけなんだ。
明美に。
凜花に。
ただ……何不自由ない、幸せな時間を送ってほしかっただけなんだ。
「なんで僕は、あんなことを……っ」
後悔。
罪悪感。
悲壮感。
どれとも微妙に違う感情だった。
ただ、溢れた涙は止まらなかった。
明美が急逝して最初の土日。
彼女の葬式と告別式は執り行われる手筈になっていた。
昨日までに葬式は終わり、今日は告別式。
喪主である僕は、喪服へ着替えを始めていた。
朝食は食べなかった。食欲は湧かない。
ワイシャツを着て、ズボンを履いて、姿見の前でネクタイを結ぼうと思った。
「酷い顔だ」
数日前に比べて確実に、僕の顔はやつれていた。
当然だ。
明美を失ったあの日以降、食事も碌に喉を通らなくなった。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「うん」
完全に憔悴しきっているのは自分でもわかっている。
だけど、なんとか凜花の前でだけは平然を装えている。今だってなんとか笑顔を作ることが出来た。
明美が倒れたのは、凜花を眠りにつかせた後のことだったらしい。
寝室で眠っていた彼女は、僕が大声で騒ぎ始めたことに気がついて目を覚ましてきた。
その後、凜花は明美の姿を見て酷く狼狽えたのだが……それ以降はいつも通りだった。まだ五歳の彼女は、明美が……自分の母が死んだ事実すら気付けていないのかもしれない。
「朝ごはんを作るから、ちょっと待ってて」
「お父さんはもう食べたの?」
「うん」
「……そう」
……ただ、今は凜花が明美がどうなったのかに、気付かないでいてくれる方が気が楽だった。まだ五歳の彼女に、真実を告げるのはあまりに酷だと思ったんだ。
凜花が朝食を食べ終えると、僕達は家を出た。
告別式は滞りなく行われた。
凜花は僕の隣に立ち、焼香に来てくれた参列者達に一礼をしていた。
僕が五歳の時だったら、きっと飽きてどこかに走り出していた。
「偉いね」
時折、僕は凜花の頭を優しく撫でた。
凜花は返事をしなかった。ただ、頭を撫でられているのは少しこそばゆそうにしていた。
木魚を叩く音。
お経を読む声。
そして、鼻孔をくすぐる線香の匂い。
もうそろそろ、お経が終わる。
喪主としての仕事も、一段落する。
……ここ数日は、本当に色々大変だった。
病院に連絡したり、警察から事情聴取をされたり、葬儀屋に電話したり、役所に手続きに行ったり、寺に電話したり。
明美の死は悲しい。
ただ正直、手続きやあれやこれやがようやく一段落すると思うと、少しホッとするのが本音だ。
……そして、妻の最期をまるで仕事のタスクのようにこなす現状に、嫌気を覚えるのだった。
僕達は火葬場に向かった。
後は、彼女の遺体を焼くだけだ。
車の中、凜花は少しウトウトとしていた。
「眠ってもいいよ?」
いつもなら、今頃の時間はお昼寝をしている時間のはずだ。
「だいじょぶ……」
「そう……」
……我が子ながら、出来た子だと思った。
五歳にして、長丁場の葬式も告別式も立ち続けて、今だって眠いのを堪えて必死に起きようとしている。
きっと、教育が良かったんだろう。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
……僕ではなく、明美の教育が。
『あなた、もう少し早く帰って来れないの?』
家庭を鑑みなかった僕なんかではなく……明美の教育の賜物なんだ。
ただ、幸せにしたかっただけだった。
明美を。
そして、凜花を。
家族三人、何不自由ない生活をさせてあげたかっただけだった。
食費。
家のローン。
電気代。
将来的には凜花の学費だって必要だった。
……だから。
だからっ。
金が必要だった。
幸せになって欲しかった。
だから金が欲しかった……っ!
間違っていなかったはずだ。
間違っていなかったはずなんだ。
なのに……。
無駄なことはわかっている。
今更こんなことを考えても、無駄なことはわかっている。
なのに。
なのに、考えてしまう。
……もし。
もし、あの時、残業を早めに切り上げて早く帰宅していたら。
もし、あの時、明美と喧嘩をしていなかったら。
『そうだよ。大事だよ。今は仕事の方が』
もし、あの時、あんな一言を言っていなかったら……っ!
僕は、こんな想いをせずに済んだのだろうか。
凜花は、我慢をする必要はなかったのだろうか……。
明美は、今でも僕の隣で笑ってくれていただろうか……?
木棺にいる明美が、扉の奥に進んでいく。
……止めてくれ。
行かないでくれ。
そっちに行かないでくれ。
視界が混濁していた。
吐き気を催しそうだった。
行ってしまう。
明美が行ってしまう。
その事実を受け入れられそうになかった。
夢であってほしいと思った。
全て。
全て……夢であってくれと思った。
タチの悪い夢であってくれと思った。
手が震えた。
彼女の方に駆け寄りたかった。
あんな鉄の扉の奥の世界に。
あんな真っ暗闇の世界に……。
連れて行かないでくれ。
明美を連れて行かないでくれ……っ!
「お母さん、天国に行けるよね」
手を繋いでいた凜花がそっと呟いた。
「……凜花?」
「行けるよね?」
「……凜花ぁ」
……我が子ながら、出来た子だと思った。
五歳にして、長丁場の葬式も告別式も立ち続けて、バスの中眠気を必死に耐えて起き続けていた。
そんな我が子のこと……。
凜花のこと……。
僕は、何もわかっていなかった。
この子は賢い。
この子はたくましい。
この子は……明美の血を引いている。
気付いていた。
いいや違う。
気付かないはずがなかった。
この子が。
凜花が。
明美の死に。
母の死に、気が付かないはずがなかったんだ。
「……どうして?」
僕の声は震えていた。
「どうして、凜花」
手も。
「凜花……寂しくないのかい?」
足も。
「お母さんが天国に行くのに、寂しくないのかい?」
震えていた。
「寂しいよ」
はっきりと、凜花は言った。
「でも、あたしが泣いちゃったらお父さん、もっと悲しいでしょ?」
……なんで。
『そうだよ。大事だよ。今は仕事の方が』
なんで、家庭を鑑みなかった僕のことなんか……。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
僕が出来なかった選択を、君がしてくれるんだ。
気付けば、僕は凜花を抱きしめていた。
溢れる涙を隠すことなく。
「大丈夫。君が我慢する必要なんてないんだよ」
震える声を誤魔化すこともなく。
僕は、凜花を諭した。
「……いいの?」
「ああ」
「本当……?」
「ああ……っ」
うわああん。
火葬場に、凜花の慟哭が響いた。
……ただ、金が欲しかった。
家族三人、何不自由ない生活を送らせたかった。
明美を失った。
僕の夢はもう叶わない。
……だけど。
『だいじょぶ……』
我慢が強いてしまったこの子のため。
『でも、あたしが泣いちゃったらお父さん、もっと悲しいでしょ?』
僕を慮ってくれたこの子のため。
『あなた、もう少し早く帰って来れないの?』
そして、明美のため。
僕は一人でも、凜花を幸せにしようと思う。
そう、心に誓った。
* * *
明美の死から一月が経ち、僕はこの日、重い腰を上げて明美の遺品整理をしようと思い至った。
最近は、ようやく凜花も僕も、落ち着きを取り戻しつつある。
まだ明美の死を完全に受け入れられたわけではない。いいや多分、一生、明美の死を受け入れられる日は来ないだろう。
だけど、それで良いと思った。
最近、考えるようになった。
家族の幸せを願った僕だけど、僕は一度その家族を悲しませた。失敗した。
それ以来、考えるようになったのだ。
幸せの定義って、何なのかなって。
答えはまだ出ていない。
だけど、いつか出そうと思っている。
この世に生きる生物に、平等に与えられる一度限りの体験。
生、と、死。
この世に生まれ、君と出会えた。
凜花と出会えた。
だから、死が僕に訪れるその日までに、答えを見つけようと思っている。
そして天国で、明美に伝えたい。
僕の人生は幸せだったよって伝えたい。
……だから、彼女と死別した事実も、一生、忘れるわけにはいかないんだ。
だけど、いつまでも遺品を放置する、というのも何だか申し訳ないから行動に出た。
……だけど、しっかり者の明美の荷物はキチンと整頓されていた。
遺品整理をしようと思い立ったけれど、これは意外と時間がかからなそうだ。
嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない気分だった。
「……ん?」
それは、ふとした拍子に見つけた。
「スマホだ」
明美のスマホ。
……結婚してから今まで、明美のスマホを勝手に覗いたことはない。スマホは人のプライベートの塊だから。いくら夫婦とはいえ、一線を超すわけにはいかないと思っていた。
しかし、今は当の本人はもういない。
そして僕は……スマホからこの世にはいなくなってしまった明美の残滓を見つけた気になってしまったのだ。
気分は恋人の卒業アルバムを覗くような感覚だった。
「……!」
パスワードが設定されていない。
しっかり者の明美にしては、無用心だ。
……思わず、苦笑していた。
今更、明美の抜けた一面を垣間見るだなんて、思ってもいなかった。
スマホはホーム画面を移していた。
右上に表示されるバッテリーは残り十%。
まあ、この一月放置されていたと考えれば、妥当な残量か。
充電してまでスマホに執着するつもりはない。
きっと今、明美との過去を懐かしんで、それで終わり。
……そう、思っていた。
アルバムアプリを起動したのは、生前の明美と家族三人で撮った写真を見つけたかったから。それだけに過ぎない。
ただ、思えば家族三人での旅行先とかでの写真の多くは僕が持つ一眼レフにある。
だから、明美のスマホにある画像は、寝ている僕だとか、凜花だとか、大抵が明美の写らない写真ばかりだった。
そして、画像をどんどんスクロールしていって、僕は見つけてしまった。
それは、どこかのレストランでのワンショット。
外には高層ビルの夜景。
登場人物は二人。
一人は、ドレスを纏った明美。
そして、もう一人は……。
「……誰だ、この男」
僕の知らない男だった。
心臓がドクンドクンと騒がしい。
額から汗が伝っていく。
頭の中ではぐるぐると自問自答を繰り返していた。
この男は一体、誰なのか。
僕は知らない。
学生時代の友人か。
なんでこんなドレスを着ているんだ。
画像のプロパティを開くと、写真は今から六年前のものであることがわかった。
僕達が交際を始めたのは、今から大体十年前。
結婚したのは八年前だ。
妙な胸騒ぎを覚えた。
当たってほしくない胸騒ぎだった。
僕は震える指で、スマホを操作した。
一つ前の画面に戻り、アルバムアプリでサムネイルを見ることにした。
結果、明美のスマホには僕が知らない男の写真が至るところに確認された。
……そして。
「……うっ」
僕は吐き気を覚えた。
サムネイルの中から見つけた画像は、薄暗いホテルの一室と思しき場所で裸で寝ている男が写っていた。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
家族が大事だったんじゃないのか?
凜花が大事だったんじゃないのか?
……僕のことを、愛してくれていたんじゃないのか?
怒りはない。
それ以上に錯乱していた。
これは何だ。
何なんだ……!
この画像を撮った時期は、六年前の十二月。
……待て。
待てよ?
……凜花の誕生日は、五年前の十月。
恐ろしい説が頭に浮かんでいた。
『あなた、もう少し早く帰って来れないの?』
……もし。
『でも、あたしが泣いちゃったらお父さん、もっと悲しいでしょ?』
……もし、そうだとするならば。
『だいじょぶ……』
そうだとするならば……。
当たっていて欲しくなかった。
知らない方が良いと思った。
調べない方が良いとも思った。
だけど、調べずにはいられなかった。
『あの子が寂しい想いをしているんだよ? それでも仕事の方が大事なの?』
天国にいる明美に笑われたかった。
馬鹿だなあって。
そんなことあるはずないでしょって。
……馬鹿にされるような、結果になって欲しかった。
一ヶ月後……。
『結果:シミズケンは、シミズリンカの生物学的父親ではない』
結婚したい。子供がほしいと漠然と考えていたが、俺って一人でいる時間が好きだし、他人とずっと一緒にいる時間って耐えられなさそうとふと気付いた。
つまり結婚はクソ。
そう気付いた俺は筆を取り、既婚の主人公がないがしろにされる話を書き始めたのだ。
諸悪は作者。
恨むなら作者を恨め。
作品のことは嫌いでも、作者のことは嫌いにならないでください。
評価、ブクマ、感想よろしくお願いします!!!