表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

「   」へ餞を

作者: 雨桐ころも

 ああ、地元に帰りたい。そう思ったら、止められなかった。全く使っていなかった有給を三日取り、新幹線のチケットを予約し、すぐに荷物を詰め込んだ。



 車窓を流れる風景が、無機質から有機質に変わっていく。川の水面に、低い位置の太陽が輝きを与えている。ゆったりと時間が流れる車内で、缶ビールのプルタブを持ち上げた。小気味良い音を立てて開いたビールを呷る。時刻はまだ八時。




「しあわせ、かも」




 後ろの席に人がいないことを確認してから、座席を倒し、目を閉じる。まず、駅に着いたらホテルに行って、荷物を置いたら、実家だったところに行こう。それから、どうしよう。太ももに乗せた指で小さくリズムを刻んでいると、新幹線が緩やかに止まっていく。



 老夫婦に続いて、新幹線を降り、在来線に乗り換えた。四両編成。古びた座席。発車とともに、大きく揺れる車内。懐かしい感覚に、思わず頬が緩んだ。



 一時間ほど経ち、やっと最寄駅に着いた。改札を出る。あたりを見渡し、三年前と何ら変わらない風景に安堵しながら、スーツケースを転がした。駅近の安いビジネスホテルに荷物を預けてから、タクシーを呼んで実家の住所を伝える。



 タクシーが到着したのは、売地と書かれた看板が刺さった空き地で、運転手は眉を寄せながら私の手から乗車賃を受け取った。




「ただいま」




 春風が、空き地に咲いた菜の花やハルジオンを揺らした。遠くから、鶯の鳴く声が聞こえる。



 目を閉じれば、住んでいた家が、鮮明に思い出せる。玄関を開ける前、換気扇から漂う匂いで夕ご飯がわかったこと。雨戸の立て付けが悪く、風の強い日はうるさくて眠れなかったこと。学校に行く私を「いってらっしゃい」と父が送り出してくれたこと。玄関を開けたら「おかえりなさい」と母が笑ってくれたこと。かつての柔らかな日常に、心がほどけていくのを感じた。




「みっちゃんが鬼!」



「ちょっと待って、ずるい!」





 私の後ろを、ランドセルを背負った子供たちが駆け抜けていく。子供たちが被る黄色い帽子には、かつて通っていた小学校の校章が刻まれていて、なんだか嬉しくなる。



 タクシーできた道とは反対に進んでいく。



 なんとなく、白線の上だけを歩いてみる。白線の下に、もう、サメは泳いでいなかった。


 なんとなく、電柱から電柱までの間だけ息を止めてみた。もう、願い事はしなかった。


 なんとなく、足元を見つめながら歩いてみた。BB弾が落ちていたが、拾わなかった。


 なんとなく、空を見上げながら歩いてみた。わたがしやソフトクリームは見つからなかった。



 気がつけば、通っていた小学校にたどり着いている。昔は、とても長く感じた通学路が、何も変わっていないはずの通学路が、私の中でだけ、何かが変わってしまっていた。



 すっかり古びてしまった小学校を横目に、小学生の頃、よく遊んだ小さな山を目指すことにした。当時は、学区外である山に遊びに行ってはいけないと先生によく言われていた。そのルールを初めて破った時、自分が探検家のような気分になったのをよく覚えている。今思えば、学区内からたった五分の場所なのに、どうしてあんなに特別に思えたんだろう。



 不思議な気持ちになりながら山を目指していく。空腹を感じ、通り道におばさんが営んでいる小さな商店があったことを思い出した。そこの手作りコロッケが、ホクホクのじゃがいもと絶妙な味付けで、放課後、少ないお小遣いを握りしめ、友達とよく食べに行ったものだ。思い出しただけで空腹が増していく。確か、この角を曲がれば……。




「あ」




 ガラス張りの四角い建物、太陽に照らされる原色の看板で目が痛い。




「コンビニ……」




 色褪せた看板に錆びたベンチ。近所の子供たちの笑い声が絶えなかったはずの、丸みを帯びた木造の建物があったそこは、どこにでもある無機質なものに変わってしまっていた。



 少し重たくなった足取りで、店に入り、コロッケを買う。サクサクの衣に、完璧に調整された味付け。決して不味くはない。不味くはないはずなのに。どうして、こんなに食が進まないのだろう。ゆっくりと食べ進めながら、山の入り口へと辿り着いた。「入口」と書かれた看板は、経年によって当時より掠れてしまっている。



 土の匂い、木々の葉から漏れる陽光、鳥の声。都会にはない、懐かしい香りと音が、全身を包み込む。緩やかに続く傾斜に、気がつけば息が上がっていた。




「子供の頃は……余裕だったはず、なんだけどな……」




 なんなら、山頂まで駆け抜けられていた気がする。そりゃあ、年齢を重ねて、毎日デスクワークをしていれば、体力も落ちるか。切れる息の合間に、自嘲が溢れた。



 額に汗が浮かび、視野が狭くなっていく。鳥のさえずりも、木々が揺れる音も、私の呼吸音にかき消された。膝が震え始めた頃、ようやく視界が開ける。




「わ……」




 恵風が汗に濡れた髪を撫で、木々を大きく揺らした。安全柵のギリギリまで進むと、街が一望できる。当時の面影はあるものの、家が増え、道も前より多くなっている。




「変わったな」




 この街も、私も。背が高くなって、歳をとっただけじゃない。少しずつ、確実に、人生の彩度が低くなっているのを感じる。電車に乗っていても、道を歩いていても、見るのはスマホか地面だ。空を見上げる余裕も、鳥の声も聞く余裕がない。ただ忙しなく過ぎていく時間に縛られ、責任という重圧を抱え、人々の目を気にして過ごす。



 当たり前じゃなかったものが、徐々に当たり前として根づくことに、なんの疑問も、違和感も抱かなかった。抱く暇もなかった。




「……しんどいなあ」




 気がつけば、温かいものが頬を伝っていた。こんなに穏やかで、緩やかな時間を過ごせたのは、何年ぶりだろうか。心に余裕ができて初めて、自分が限界だったことに気がつく。




「はは……頑張ったな、本当に」




 慣れない都会。増えていく仕事。複雑化していく人間関係。全てに真っ直ぐ向き合ってきたつもりだ。傷つけられても、蔑ろにされても、気づかないふりをし続けた。「悪いのは私だ」「原因は私だ」と言い聞かせ続けた。そうしていくうちに、きっと痛みに鈍感になってしまったんだ。




「よかった、帰ってきて」




 微かに花の香りが混ざる空気を肺いっぱいに吸い込んで、目を閉じる。痛みに気がつかないまま、限界を超えていたらどうなっていただろうか。ぼんやりと浮かんだ考えは、頭を振ってかき消した。



 何もかも、時間とともに変わっていく。景色も、街も、私も。それでも、変わらないものはあるし、変わってしまっても、覚えていればいい。思い出に閉じ込めてしまえればいいのだ。子供の頃、どこにでもあるような石を、大切に宝箱に入れたように、なんでもない日常を、大切な思い出として同じように残そう。

時折、それを眺めて、今の自分と見比べればいい。変化を卑下する必要はないんだ。誰だって、変化を受け入れてきたのだから。変わり続けた先で、どんな姿になるかはわからない。



 変化の途中で、傷つけられることもある。変わってはいけない部分が変わりそうになってしまうこともある。そんな時こそ、一度立ち止まって、後ろを振り返ればいいんだ。それは、逃げなんかじゃないはずだから。




「ようし」




 ひとまず、私は一度止まろう。


 ボロボロになったものは、すぐに元には戻らないかもしれないけど、ゆっくり確実に、治していこう。その第一歩をこの帰省にしよう。



 凝り固まった肩をまわしながら、食べたいもの、行きたい場所を頭の中でピックアップしていく。空には、ソフトクリームのような雲が浮かんでいる。




「よし、行こう」




 来た道を振り返る。恵風が、そっと私の背中を押す。これからの素敵な旅の予感に胸を躍らせながら、私はゆっくりと山を下った。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ