1-3 振られたのか振ったのか
年が明けた1月のある土曜日、私は駅前にいた。
待ち合わせスポットとしてこの辺りでは有名な駅前のオットセイ像の前だ。
なぜオットセイ像なのか、誰も知らない。ただ、待ち合わせにちょうどいい場所には違いなく、「オットセイに何時」というだけで待ち合わせができた。
今日で言うと、「13時にオットセイ」だ。
家族以外と外に出るのは2ヶ月ぶりくらいだった。私はめったに着ないよそ行きの服とコートを引っ張り出して着ていた。
今日は特別なのだ。
遠くに待ち合わせ相手の姿を見つけて、私は背筋を伸ばした。
彼もこっちに気がついていて、ゆっくりと歩いてくる。
顔は飛び抜けてかっこいいと言うほどではない。かけている丸い眼鏡がちょっと知的な印象だった。1年くらい前からオンライン家庭教師として勉強を教えてもらっている京大生だ。
授業の合間にいろいろな話をして、つい私は前世のことも話してしまったが、さすが知性のある人だ、『そんなの関係ないよ』と言ってくれていた。
直接会うのは今日が4回目だが、前回3回目で告白されて、私の彼氏と言うことになっている。
自分でも何やら信じられないが、本当のことらしい。
「お待たせ、沙耶ちゃん」
はにかんだ笑顔が愛嬌ある。
「今来たところだよ」
私は実は30分も前からここにいたが、そんなことは全く表に出さず、私は応えた。
『敬語は距離感じるからなしね』ということだが、まだ慣れない。
「じゃあ行こうか」
彼は自然なそぶりで私の手を取ると、歩き始めた。
親戚以外の男性と手を握って歩くのは初めてだった。
初めての経験にドキドキしながら、私は彼にペースを合わせて歩いた。
事前に話し合って決めたとおり、駅の近くにある映画館に向かっていく。
「受験勉強はどう?」
「順調だよ。模試もA判定もらってるし」
「沙耶ちゃんは頭いいからね」
京大生にそう言われるとお世辞でもうれしい。ふわっと舞い上がりそうになるくらいに。
「大学の方はもう大丈夫なの?」
「まぁね。ゼミの発表も終わって、来週から試験だけど、控えめに言って楽勝かな」
12月は彼の方が『ゼミで発表する』という中学生の私には大学でのこととしか分からない件で忙しいらしく会えなかった。
それで今日、試験前だけどいまのうちに、ということでわざわざ京都からこっちまで来てくれたのだ。
優しい人なんだと思う。
私たちは『今年全米No1興行収入』というお決まりのフレーズが売りの映画をみて、その感想をカフェで適当に言いながら時間を過ごした。
「そういえばね」
最近あったことの話になって、私は切り出した。
「私、銀月高校から入学しないかって誘われたの」
彼の意見が聞きたいと思ってのことだ。私にはない視点での意見が聞きたかった。
彼が片眉をぴくりとあげた。
「銀月高校って、あの、月にある?」
私はうなずいた。
「ふぅん。さすが。沙耶ちゃんは行きたいの?」
「絶対お断りランキングのナンバーワン」
「そっか、まぁ沙耶ちゃんにダンジョン攻略者は向いてないかもね」
「そうだよね」
「でも、向いてないからこそありなんじゃない?」
私は首をかしげた。
「一見向いてなさそうなことも、やってみたら得意だったっていうこともあるしさ。思い切って行ってみるのもありだと思うよ」
「そうなのかな」
「俺からすれば月に行ける、ってだけでもすごい経験だよ。うらやましいな」
「月ってそんなに行きたい場所なの?」
「未知の場所じゃん。これ見たことない?」
彼はそう言ってスマホを操作して、一枚の画像を見せてきた。黒い空の中に地球が浮かんでいる。
「あるような気もする」
「写真だとこんなもんだけど、これが目の前いっぱいに広がるのを見たら、世界変わると思うんだよね」
「そうなのかな……」
「見たことないものを見て、知らないことを知るって大事だよ。写真で見たようなつもりになれるけど、本物の雰囲気ってものがあるからさ」
「うーん、なるほど」
「それに、銀月高校に行ったからってダンジョン攻略者にならなきゃ行けないってわけでもないんじゃないかな」
そう言って彼はさらにスマホで何か調べ始めた。
「うん、やっぱりそうだ。卒業生の9割近くはそのまま攻略者やそのサポートだけど、1割は大学進学したりしてるって」
その情報は初耳だった。
「そうなんだ」
「それだったら、3年間だけ、月って場所を知りに、人類が全力を注いでいる最前線を知りに行くっていうのもありだね。人生変わるよ」
「そうかな?」
「そうだって」
そう言われると銀月高校も悪くないのかなと言う気になってくる。
「でも、私が月に行ったら、結構会えなくなっちゃうよ?」
「我慢するよ、沙耶ちゃんの人生のためなら」
優しさにクラクラしそうだ。
「それに」
彼は続けた。
「銀月高校には女性しかいないから、俺としては完全に安心だしね」
「もぉ」
私は照れ隠しにほおを膨らませた。
銀月高校は女子校だった。
ダンジョン攻略者になれるのが女性のみである以上、攻略者を育成する高校に男子を入れても意味がない。
「ゆっくり考えたらいいよ。そろそろ行こうか?」
外を見ると、辺りは暗くなり始めていた。彼の言うとおり、帰りが遅くならないように、そろそろ出た方がいいだろう。
「うん」
私はコートを着て、その間に彼が会計を済ませて、店を出た。
今度は私から彼の手を取った。
指が絡まった。
私たちはゆっくりと駅の方に歩いて行く。
「このあと京都に戻るの?」
私は聞いた。たぶん京都に帰るんだろう、と思いながら。
「いや、実は、今日はこっちにホテルを取ってあるんだ」
「泊まり?」
そう言う話とは聞いていなかった。今日だけだと思っていた。
もっとも、私に明日何か用事があるわけでもないのだけど。
「うん。来る?」
「明日?」
「今夜」
彼の短い言葉で、私の心臓は加速した。
「今夜って、それは……」
「大丈夫、何もしないよ。一緒にいたいだけだよ」
彼が平静を装っているのが感じられた。
彼の言葉をそのまま信じるほど、私はお花畑に生きてはいなかった。
一日中ネットに触れていれば、それはもう様々な情報に触れることになる。
たとえば『信用できない言葉ランキング』とか。
「けど……」
私は淀んだ。
お母さんにも泊まるとは言っていない。たぶん心配するだろう。
「高校に行ったらなかなか会えないかもしれないんだよ?」
「で、でも銀月高校に行くって決めたわけでもないし」
彼に近い京都の高校も志望に加えたところだ。
「別に無理にとは言わないけど。どうすんの?」
言葉とは裏腹の冷たい声だった。
「っ」
私は言葉に詰まった。
ずるい。いきなりこんな分かれ道を突きつけてくるなんて。
私は急に、彼がこれまでの彼と別人のように思えてきた。知的で優しい彼は一体どこに行ったのだろうか。
「……いかない」
私は彼の手を離し立ち止まった。
彼はちらりとだけ私を振り返って、
「そう」
とだけ言って歩いて行った。
「待って!」
私はとっさに叫んだ。
彼は足を止めて振り返ったが、私は何も言うことができず、そのまま彼を見た。
「何?」
彼に聞かれても、私は言葉に迷ったまま黙っていた。
どう言い表すべきなのだろう、この気持ちを。
まとまらない想いが渦巻いている。
彼がため息を一つついた。
「ついてこないなら別にもういいんだよ。前世が魔王だとか言ってるかわいい顔した子がちょろそうだったから口説いてみただけなんだから。遊び相手にもならないんならもういいんだって。魔王となんか本気になるわけないだろ」
それだけ言い切ると、彼は再び駅の方に歩き始めた。
私は追いかけることも声をかけることもできず、しばらくその場に立ちすくんでいた。最後に彼が言った言葉を、私の脳が処理を拒んでいた。
その意味をほどいてしまえば、きっと泣いてしまうから。私の脳は考えることを放棄した。
「やっぱ待って!」
思考を止めれば、衝動だけが残る。
私は早足で彼を追いかけた。
「なんだよ、もういいだろ」
振り返った彼が私の顔を見てぎょっとした。
私は無言で彼に詰め寄り、
「ま、まて。落ち着け、落ち着けって」
彼は逃げようとしなかった。逃げれずにただ焦っていた。蛇に睨まれたカエルが動けないように。
私は右手を握りしめ、大きく振りかぶって、
「じょ、冗談だって、な、な!」
顔面めがけて思いっきり振り抜いた。